◆sincerely
「…私のやってる事って間違ってるのかな…」
閉店を迎えて帰路につく車中、助手席の葉月は流れる薄曇りの景色をぼんやりと見つめながら疲れた顔でつぶやいた。
「どうしてそう思うかな?」
僕はミラー越しに葉月にチラリと視線を遣り、敢えて穏やかにと努めて一言尋ねた。
今の葉月は気持ちが内側に膨らむばかりで整理できなくて、大事な気持ちに迷いが生じて余計に悩んでしまってるって感じたからだ。
いや。葉月だけじゃない。僕だってそうだ。
ティータイム。
はじめ君が放った蒼ちゃんへの問いかけ。
何か言おうとする姿を見せた蒼ちゃん。
そんな彼女の変化に気付けずに会話を遮ってしまった葉月。
そして、葉月を止めることができなかった僕。
遮られた後、悔しげに見えた蒼ちゃんの横顔。
確かにあの時、彼女ははじめ君に何かを伝えようする勇気を見せた。
それをあっさりと挫かれてしまったと感じたに違いない。
あの後、蒼ちゃんは僅かながらに見せてた笑顔を消してしまった。
少しずつ増えてきた口数も振り出しに戻ったかのように減ってしまった。
そして葉月も。
普段見せる事のない作り笑いして、なんとかやり過ごしてた感じだった。
どこかぎこちない接客態度で、すかさず充月君が葉月をカバーしているようにも見えた。
そんな状態になってしまったのに、何も言えなかった頼りなく卑怯な僕。
あの時、一番判断を誤ったのは僕だ。
僕は、はじめ君に嫉妬するという自分の感情優先で大事な事を疎かにした。
そして、守るべき人達を悲しませた。
「…わかんないよ…。だけど何となくそう感じちゃった」
葉月は曖昧な笑みと曖昧な言葉の後にため息をひとつ落として、
「…何だか、蒼ちゃんが私からどんどん遠ざかってる気がする」
葉月は沈んだ声で呟きをこぼした。
「蒼ちゃんの事守ってあげたいのに、全然うまくいかない。私がやってる事、全部裏目に出てる気がする」
そう言って重いため息を落とした。
このままじゃダメだな。
数メートル先、信号が黄色から赤になり、僕はブレーキパットをゆっくりと踏み、
「始まりを思い出してみようか?」
きっととてもぎこちないだろうけど、今できる精一杯の笑顔で葉月にそう告げた。
「始まり…?」
葉月は少し訝しげな顔を僕に向けてつぶやくように問いかけた。
「うん。…始まり」
いつもの帰り道ではなく、僕はある場所へと車を走らせた。
住宅街を北に10分ほど走り抜けると、山を切り開いた緩やかな登り坂が続く道。周りは田畑ばかりで、緑色ばかり。
「うわー、この辺全然変わってないよね?」
葉月は少し浮いた声で僕に問いかけた。
「本当に、相変わらず田んぼと畑しかないよな…」
僕も少し浮いた声になって、苦笑いしつつもどこか安堵した。
流れる景色はとても単調だけど、僕等にとっては懐かしくて大切な青春の景色ってやつだ。
「あれからもう4年も経つんだね…」
高校生活で毎日通ったこの道を通るのは本当に久しぶりだ。
部活帰りだろうか?
時折自転車で通りすぎる学生を見て、葉月は懐かしそうに目を細めて小さな笑みを浮かべた。
今はこうして自動車で走る道。
あの頃は二人並んで自転車で走った道。
学校へ登校する時は上り坂で、ゆっくり自転車を引いて二人で話しながら歩いた。
下校時はブレーキをかけつつ並走して。
どんな話をしたか全てを思い出す事ができないくらい毎日他愛ない事を沢山話したと思う。
好きなこと、嫌いな事、嬉しい事、頭にきた事や悲しいこと。 いつだって、どんな時だって、遠慮なしに喜怒哀楽を見せてくれた日々を重ねて、僕は北村葉月という女の子をどんどん好きになっていった。
坂を走りきると、市営の体育館、公園、その隣に僕らが通ってた高校がある。
体育館の駐車場に車を停めて隣の公園へと向かい歩く。
そこは、僕ら二人が始まった思い出の場所だ。
「あっ、あのベンチ! まだあったんだ!」
葉月は嬉しそうに声を弾ませて、古びた木製のベンチへと小走りに駆けていくと、腰を下ろして照れくささと懐かしさを混ぜ合わせたような笑顔を向けた。
僕はゆっくりとベンチに向かって歩き、16の頃を思い出した。
あの日、捻くれた僕に真っ直ぐな気持ちで手を伸ばしてくれたのは葉月だった。
そして、晴天、曇天、どんな時だって伸ばしてくれたその手を決して離さないと心に誓ったのは僕で。
高校へ入学して間もなくに、母を突然亡くして、僕は心の両翼の片側を失った。
店のフロアに当たり前のように降り注いでた暖かい光のような笑顔も、台所から聞こえる明るい歌声も、一瞬で失ってしまった事実を受け入れる事は、あの頃の僕には不可能だった。
思考が働かないまま、通夜葬儀があっという間に終わり、まるで火が消えたように静かな家と、仏壇の前にぽつりと座る笑顔の絶えなかった父の憔悴した背中。
その全てがあまりに突然過ぎて、感情がついていかずに泣くことも、上手く声を発する事も出来なかった僕。
新緑の眩しい5月の早朝だった。
寝室のベッドの中、母はまるで眠ってるかのように息を引き止ってた。
異変に気付き父は悲鳴に似た声で何度も母を揺り起こした。
僕は救急車を呼ぶ為、震える指で必死に電話のボタン押した。そして、母が息をしてないって伝えた。
母を亡くし、葬儀を終えて学校に復帰した僕に、周りの大人達もささやかな数の友人も、顔見知りのクラスメイト達も皆優しかった。葉月もその中の1人で、何となく仲の良いクラスメイトだった。
「気を落とさないでね」
「何か手伝えることがあるなら、遠慮なく何でも言って」
周りからそんな優しい言葉をかけられる度に、感情がうまくついていかない僕は、無意味に笑うしかなかった。
心が無い空っぽのありがとうを言う度に、ちぐはぐした自分に酷く疲れていった。
当事者の僕を置き去りにして、みんな、なんで悲しい顔してるんだ?
僕自身が受け止められない、理解できないこのどうにもならない気持ちを、他人のお前らがどうしてわかってるような口ぶりで「辛いでしょ? 無理して頑張らなくていいからね」とか言うんだよ。
ああ…、そうか。
みんな可哀想な僕を慰めることで、自分は幸せなんだと認識して優越感に浸ってんだ。
いい加減にして欲しい。
もう構ってくれるな。
悲しいのはお前らじゃないだろ。
僕を置き去りにして、辛い気持ちがわかるとか言ってんじゃねえよ。
頑張らなくていいからなんて、母の事で全く頑張ってもない僕にとっては余計に責めに感じる言葉なんだよ!
何度後悔したか。
あと1時間、いや、30分でも早く起きて母の異変に気付いてたら…。
母が急にいなくなって、毎日がどれだけ不安か…。 店だってあるし、生活は、時間は待ったなしだ。
父は母が死んで1週間後にはもう、店でいつものように仕事してて。
フロアの主がいなくなって、父は1人で…。
いいや、今は1人でだ。フロアに新しい人を雇うって。
そんなの嫌だ!
あの場所は母さんの場所だ!って、僕は父に言うことすらできなくて…。
かといって、学年を辞めて店を手伝うなんて言っても、父は絶対に許さないだろうってわかってたから、それも言えなくて。
何も出来ない中途半端な子供の僕は、ただ流れてくだけの時間に苛立ちさえも諦めようとしてた。
もういいや…。何も出来ないのに考えるばかりで疲れた。
心の内側なんて誰とも話したくない。
きっと話しても、それは理解ではなく「可哀想に」と気を遣われて、同情じみた言葉と、曖昧な笑みを投げられるだけだってわかってる。
日が経つにつれ、僕はどんどん人との関わりをフェードアウトしていった。
話しかけられても、曖昧な苦笑いで、言葉は発しなかった。
そうしたら、数日で僕から1人、また1人と人が離れていった。
最後までしつこく残ったのが、北村葉月だった。
葉月は僕がそっぽ向こうが、決して会話を止めなかった。
本当に毎日毎日、僕には関係ない自分の話を楽しそうに話しては、1人で楽しそうに笑ってた。
そんな葉月を僕は心の中でお節介な馬鹿なだと鼻を鳴らしてた。だけど、日が経つにつれていつの間にか葉月が話しかけてくれる事を待ち望むようになってた。
決して何か特別な事を話すわけではない。
彼女のありふれた日常の平凡な話。
友達がどうだとか、あの先生がどうだとか、テストが面倒だとか、あのお店のスイーツが好きだとか。 そんな日常のささやかな会話を重ねていく度、僕の中で凝固されたひねくれた気持ちがゆっくりと溶けていった。
葉月には、情けない僕の胸の内を話そう。
きっとそれは言葉足らずで全然伝わらないかもしれない。
だけど、葉月にならば不器用な僕を晒したっていいや。
葉月なら、どんな僕でも許してくれる。
なんだかそう思えたんだ。
「あの時、葉月がこの場所で言ってくれた言葉を、僕は今でも昨日の事のように思い出せるよ」
薄曇り。湿り気を帯びた夏の風は、ちょっと不快指数が高めだけど、何だか心は不思議と静かに落ち着いている。
葉月は照れ笑いを僕に向けて、
「実はね、私自身びっくりしたんだよ。あんなこと、恐れもなくよく言ったなって今でも時々思うんだ」
そんな葉月の言葉に僕は、
「嬉しかったよ。本当に…」
あの時、僕はみっともなくも、泣いてしまった。
母を亡くして3ヶ月近い時間が経ち漸く泣くことができたんだ。
やっと言えた。
「辛い…」って弱音。
『たとえどんな津山君だったとしても、私にはどれも大切な津山君なんだよ!』
葉月は真剣な、今にも泣き出しそうな瞳を僕に向けて、気持ちを伝えてくれた。
『私ね、本当はずっと昔から津山君の事知ってたんだよ』
『小さい頃、アイビーのオムライス、一度だけ食べた事があるんだよ』
『あの美味しいオムライスの味も、暖かいお店の空気も、フロアの手伝いをして、笑ってる津山君もずっと忘れられなかった』
『嬉しかった。同じ高校で同じクラスになれた事が奇跡みたいに思えて本当に嬉しかった』
『お願い、津山君! 私にお店をお手伝いさせてくれないかな?』
葉月の言葉を聞いて、止まってた時間が急に動き出したような気持ちになった。
「あの頃の僕の縺れた心の糸を解いてくれたのは、遠慮や飾り気のない、葉月の言葉と偽りのない沢山の豊かな表情だった」
僕は、葉月に視線を真っ直ぐ向けて、
「今の葉月はね、どこか無理して笑ったりはしゃいだりしてるように感じる。蒼ちゃんに対しては特にそれを強く感じる」
僕の言葉に葉月は、
「そんな事…ないわよ」
バツが悪そうに瞳を伏せてつぶやいたと言うことは、それを自覚してる証拠だ。
「ねえ、葉月…」
もう一度思い出そうよ。そんな願いをこめて、名前を呼び、
「蒼ちゃんは、守って貰いたいから僕らのところに来たんだろうか?」
そう問いかけた。
葉月は僕の横顔をじっと見つめて話を聞いてる。
「人に頼るのが苦手な充月君が頭を下げてまで僕らを頼ってくれたのは、どうしたいからなのかな?」
僕の言葉に、
「蒼ちゃんには克服したい事があるから…」
葉月は自信なさげに俯いて、ぽつりと一言つぶやいた。
「うん。そうだね。彼女は、蒼ちゃんは、特定の人に対する対人恐怖を克服したいと強く願って店に来てくれた。それはきっと…」
「それはきっとその先に、充月君と二人で進みたい『未来絵図』があるからだと僕は思ってる」
「未来絵図…」
「うん。未来絵図」
お互い、大切な相手に何を望むか。
とても基本的な、だけどとても大事な気持ちだと僕は思ってる。
「きっと彼等は一緒に笑って日常を積み重ねて生きていきたいと願ってるんじゃないかな?」
理由はわからないけど、人を怖がるという癒せない傷を持つ彼女が、震えながらもそれに立ち向かう気持ちになれたのは、きっと充月君が彼女の手を掴んで、何かから引き上げたからだと思う。
充月君は少し人見知りはあれど、葉月に性格が良く似てるから、そんな想像は容易い。
「一歩踏み出す為に、勇気を出して僕らを訪ねて頼ってくれた。そんな彼等に葉月ができること、僕が出来ることを考えようよ」
ぎこちない笑顔でごめん。だけど、今の僕の精一杯の笑顔だから、どうか許して欲しい。
「葉月には、大切な感情を偽るような人にはなって欲しくない。いつだって、どんな葉月だって、そのままの君でいて欲しいんだ」
「でも…、私…すぐに余計な事言っちゃうから…」
「互いに理解しあう事に、余計な言葉なんてひとつもないんだよ。時としてぶつかる事があったとしても、真剣な言葉や気持ちは絶対に伝わるから」
悔しいけど、はじめ君に言われた言葉を思い出した。
「守りたいばかりの過剰防衛はやめよう。守るではなく、彼女が望んでる方向に進む為に何が必要かをちゃんと見つめながら、少しずつ背中を押してあげられる僕らでいようよ」
「私…大丈夫かな…? 蒼ちゃんを傷つけないかな?」
自信の無い、今にも泣き出しそうな顔で僕に問いかける葉月に、
「大丈夫。あの時葉月に救われた僕が言うんだから、間違いない。自分を、僕を信じて」
ありったけの思いを込めて葉月に笑顔を送った。
「わかった。もう変な遠慮や気遣いはしない」
ベンチから立ち上がって、僕を見下ろして、
「私は私らしく、蒼ちゃんにぶつかってみる!」
夏の風に揺れる、ひまわりのような眩しい笑顔で、葉月は僕に手を伸ばした。
「やっと戻った」
僕は安堵して葉月の伸ばした手をとり、立ち上がり、
「やっぱり僕は葉月の笑顔が好きだ。頑張る勇気が湧いてくる」
僕もしっかりしなきゃ。
失敗したら、またやり直せばいい。
そういう積み重ねだって、僕には大事な事だと思うから。
「よし! 明日から、また元気に頑張ろうねっ!」
曇り空に向かって、僕らは再度気持ちを仕切り直した。




