◇曇り
今日は何だかいつもより疲れてる…。
自転車をこぎながらの帰り道、薄曇りの空を見上げて思わず重いため息がでた。
並走する蒼の横顔は、疲労感ではなく明らかに不機嫌が漂ってる顔だ。
不機嫌の理由は間違いなくはじめさんと接したティータイムの事だろうな…。 あの後店の空気が少しだけどおかしくなった。
姉はいつもとは違う薄い笑顔だし、蒼はまるで絵に描いたような平静を装う作り顔。笑みもなく、表情もなく、ただ黙々と作業をこなしてる感じだった。
唯一洋二さんだけは…と言いたいところだけど、うまく言えないけど、やっぱりちょっといつもと違う感じがした。
(全く、はじめさん。あの人一体何なんだよ…)
気さくでよく喋る悪い人じゃないのは何となくわかってんだけど…。
何の前触れもなくずけずけと蒼の心に踏み入っていき過ぎるように感じて、この先蒼を傷つけるんじゃないかって怖くなった。
姉がはじめさんにやたらと警戒心を抱くのが正直頷けた。今日は、あの洋二さんですらおかしな空気が出てたし。
二人共に蒼を心配して色々気遣ってるのに、あんな風に突っ込んだ話してくるはじめさんに憤りを感じたんだろうな…。
洋二さんの気持ちははっきりとはわからないけど、姉の気持ちは態度や口調でそれがよくわかった。
「俺、はじめさんのことちょっと苦手かも…」
思わずため息と一緒に出た俺の言葉に、
「はじめさんは悪い人じゃない」
はっきりとそう擁護する蒼の言葉を耳にして、驚きと同時に胸にもやもやとした気持ちが広がってくのを感じた。
「は? お前意味わかんねーよ。それに別に俺、はじめさんの事悪い人だって言ってないだろ」
つーか誰のおかげでこんな気持ちになってると思ってんだよ!
「お前、はじめさんにあんな事言われて辛い気持ちになったんじゃないのか? だからずっと不機嫌な顔してるんじゃないのか?」
苛立ちが乗った言葉が抑えられずに喉からこぼれた。
だって洋二さんも姉も蒼の詳しい事情を知らないのに、蒼の為にと色々考えて優しく接し見守ってくれてるのに。
俺の問いかけに、蒼は語気の強い「違う」という一言だけの返答が返ってきた。
「じゃあなんで、何に対してそんなに怒ってんだよ」
蒼は俺の問いかけに対して、怒った顔のまま返答せずに黙々と自転車をこいでる。
「マジわけわかんねーよ! 黙ってないでちゃんと話せよ!」
そんな蒼の態度に、更に苛立ちが上積みされた言葉が堪えきれずに出てしまった。
「はじめさんは自分の事話してただけだし、別に間違った事なんて言ってない!」
「は? なんだよそれ! 質問の答えになってねーだろ!」
俺の言葉をわざと無視するように蒼が自転車をこぐ足を速めた。
「…伝えたかったのに…」
「ちょっとスピード落とせって! 何言ってるか聞こえないだろ!」
自転車が加速するその風圧で、蒼の声がうまく聞きとれない。
何か言ってる。でも、その声は俺には届かない。
「おい! ちょっと待てって!」
蒼はまるで俺の声が聞こえてないかのようにどんどん自転車をこぐスピードを上げていく。
数分追いかける形で海岸線を走ると、蒼はコンビニで急停車して、息を切らせながら乱雑にスタンドを足で立てて店に入ろうと入り口へ歩いた。
「蒼! いい加減にしろよ!」
俺も同じようにスタンドを立てて自転車を停めて、蒼の肩を掴んだ。
「いい加減にして欲しいのはこっちだよ!」
俺の手を振り払って絞りだすような声で叫んだ。
「一生懸命頑張ってるのに! 恐い事克服しようってちゃんと頑張りたいって思って毎日やってるのに!」
蒼は肩を震わせて両拳を握りしめて、
「なんでいっつも私の気持ちにブレーキをかけるの! なんで自分と向きあおうとすると遮るの!」
そう叫ぶと怒気のこもった涙目で俺を睨み付けた後、脱力してうなだれるように下を向き、
「…私は…葉月さんが苦手だ…」
蒼の言葉に耳を疑った。
「は…?」
思わずまの抜けた声が出た俺に、
「葉月さんは、本当は私の事良く思ってない…」
諦めたような声でつぶやいた。
「なんで…、なんでそう思うんだよ。お前ちょっとおかしいぞ。姉ちゃんはお前の事すげえ心配して気に掛けて、気を遣って──」
「違うよ!」
蒼は俺の言葉を遮って一言放った後に、
「葉月さんが心配してるのは私のことじゃない」
潤んだ焦げ茶色の瞳が、真っ直ぐに俺に向けられて
「葉月さんが心配してるのは私のことじゃなくて、北村のことだよ…」
そう言って唇を噛み締めた。俺は目を見開くだけで言葉を失った。
「厨房で作業しながらオーナーと話してると、葉月さんが怖い顔して見てる。私に向けられる元気な明るい声や笑顔だって、きっと無理して作ってる」
「そ、そんな事…」
今日の姉の言葉や寂しげな笑みを見てるから、それはないとはっきり言い切れない。だけど、
「そりゃ、多少の嫉妬心はあるだろ! 俺だってお前と洋二さんが仲良く喋ってるとこ見たらちょっとイライラするんだから!」
姉だって俺と同じように小さく嫉妬はするだろ。
たったそれだけの事で、なんで姉を否定的な目で見るのか俺にはわけがわからない。
「嫌なんだよ…」
蒼は諦めたような小さな笑みを浮かべてぽつりとつぶやいた。
「たとえ些細なことでも私が存在することで、誰かが我慢して嫌な思いをするのは…キツいんだよ…」




