◆スタートライン。思い出す僕。
「男性…恐怖症…?」
葉月はそうつぶやき、僕の顔を見て戸惑いの表情を浮かべた。
「ああ…。しかも大人限定の…ね」
充月君も僕に視線を向けて苦笑いを浮かべた。
「なんでまた…大人限定って…」
葉月は蒼ちゃんの横顔を少し不安げに見つめてつぶやいた。
蒼ちゃんは視線を下に落として、ストローの包みを指に巻き付けて、手遊びをするけど、無言、無表情のまま。
「詳しい理由は…ごめん…。聞かないで貰えたら助かる…」
充月君はグラスに視線を落として弱々しい声を落とした。
「治したい…。だからここへ来たのです」
蒼ちゃんは、萎れた小さな声でそうつぶやいた。
「北村が言ってくれたのです。ここで色々な人に触れたら、怖いとか、気持ち悪いとか…きっと大丈夫になるって」
蒼ちゃんの言葉で何となく察しがついた。
充月君は、僕らを頼ってここへ訪ねて来てくれたということを。
「洋二さん…、あの…」
充月君は椅子から立ち上がり、僕に真っ直ぐな視線を向けて、
「夏休みの間、蒼と俺に店を手伝わせてもらえませんか?」
と言い、頭を深々と下げた。
「…手伝ってくれるのは、本当にありがたいよ。これから忙しくなるから、葉月と僕と二人じゃ、ちょっと不安だしね…」
僕は充月君をしっかりと見つめて、言葉を続けた。
「でもね、僕は一応遊びで店をやってるわけじゃないから」
本当はこんな事、言いたくない。でも、僕は充月君の心構えと意志が知りたかったから、僕の店に対する気持ちもちゃんと伝えようと思った。
「このお店は、お客様が来てくれることで成り立ってる。お客様が、この場所で僕の作る料理や葉月が作るこの場所の空気を好きだと思ってくれてるからこそ、足を運んでくれてるわけだ」
勿論、先代である父から受け継いでる大切な常連さんもいるし、心構えだってある。決して僕だけの力ではなくこの店は色んな『思い』で成り立ってる。
でも、そんな難しい話まではするつもりはない。
「俺も蒼も遊びで手伝うつもりはないです。やらせて貰えるなら、一生懸命やります」
充月君の瞳は、とても真っ直ぐで、僕は思わずうちの店に初めてバイトに来た頃の葉月を思い出した。
流石というかなんというか…。やっぱり姉弟、顔の作りはちょっと違うけど、纏うものは良く似てるなと感じて、思わず笑みが漏れそうになった。
「蒼ちゃんは?」
僕は、蒼ちゃんに視線を向けて様子を伺う。
「ちゃんと頑張ると決めたから、頑張ります」
気合いがこもるというよりは、何だか僕に果敢に挑もうとするような瞳だった。
大きな二重瞼に少し色素の薄い茶色の瞳。
ふうわりとした葉月のセミロングとは対照的な真っ直ぐで黒いショートヘア。
淡いブルーのキャミソールの下の肌は驚くほど細く、まるで日の光を一切受け付けないような、透けるような白い肌だ。
見ただけであまり外気にふれていないことがよく理解できる。
(きっと、ここに来るにまで気持ちを持ってくるのは容易ではなかっただろうな…)
先刻から彼女が僕に放つ殺気にも似た空気で、何となくそう思った。
僕は、厨房からフロアに移動して充月君と蒼ちゃんの前に立った。
充月君は蒼ちゃんに椅子から立つよう促して、二人揃い僕に体を、視線を向けた。
「明日から、朝八時に店に来てください」
僕は二人にそう告げた。
「出来れば今日から――」「今日は無理だよ」
充月君の言葉を遮って言葉を放ったのは僕ではなく葉月だった。
「残念だけどね、蒼ちゃんの格好は『働く』に適してないから」
葉月は小さく笑みを浮かべて、蒼ちゃんの足元を指さした。
「サンダルはアウトなんだよね。あとね、露出の高いキャミソールもね」
蒼ちゃんの頭をそっと撫でて、
「カフェの仕事ってね、服装も大事よ。お客様相手にサンダルは失礼だし、何より厨房とフロアを行き来する時、危ないんだよね」
葉月は「ちょっと来て」と蒼ちゃんの手を引き厨房へと入った。
厨房の奥には小さなシンクと食洗機が設置されていて、床は水に濡れた状態だ。
「ここで作業をして、フロアに出ることも当たり前にあるんだよ。よし、フロアに行こう♪」
葉月は少し説明した後に、さいど蒼ちゃんとフロアへ戻る。
厨房とフロアの境目にはマットが置いてあり、そこを踏む形になるわけだが、
「あっ!!」
マットからフロアに足を置いた瞬間、蒼ちゃんはツルリと足を滑らせて声を上げた。
勿論、そうなることを知っている葉月は蒼ちゃんの体を支えて「ねっ? 危ないでしょ?」と笑いかけた。
「よくわかりました」
蒼ちゃんは俯いてほんのり顔を赤らめてつぶやいた。
「キャミソールがダメな理由はね…」
葉月は、コーヒーを運ぶトレイにお冷やとおしぼりを乗せて蒼ちゃんに渡して、
「充月、ちょっとそこのテーブルに座って」
充月君に指示を出した。状況がイマイチ飲み込めないという顔色を伺わせつつも、充月君はテーブルに腰を下ろして様子を探るような視線を葉月に向けた。
「蒼ちゃん、このトレイを持って、充月をお客様だと思ってお水とおしぼりを出してみて♪」
「は…い…」
蒼ちゃんは戸惑いを見せながらも、葉月に言われた通りにお冷やとおしぼりを充月君に出した。
「!!!」
充月君はその蒼ちゃんの前屈みの姿勢にギョッとした後に顔を赤らめて、
「ダメだっ! キャミソール絶対ダメっっ!!」
立ち上がり蒼ちゃんに激しく言い放った。
「???」
蒼ちゃんは状況が理解できずに訝しげに首を小さくひねった。
「蒼ちゃんはどうしてかわからないみたいだね。さぁ、充月君、説明してあげなさ~い♪」
葉月はにひひっと楽しげに充月君に笑いかけた。
そんな葉月を憎々しげに睨み付け、
「…………」
蒼ちゃんの耳元で小さく状況をつぶやいた。
「!!!」
蒼ちゃんは真っ赤になり、トレイで胸元を隠して充月君に向かって「こ、この変態…」とつぶやき、わなわなと震えた。
「ちょっ! 誤解すんなよ! 俺だってわざと見たいわけじゃなくて! ちょうど目線の先にっ! そのっ!」
慌てて弁解する充月君を見て、
「ね? キャミソールは働くにふさわしくないでしょ?」
葉月はクスクスと笑って蒼ちゃんの肩を叩いた。
「肝に命じます…」
蒼ちゃんは充月にフンッと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
そんなやり取りを見て、僕はまた思い出す。
(葉月も最初、同じ失敗をしてたよなぁ…)
四年前、十七歳の葉月も、蒼ちゃんのように顔を赤らめてあたふたしていた。
この四年で葉月はすっかりこの店のフロアの主になり今、目の前の若い二人にレクチャーしてる。
何となく時間の流れをいつもよりはっきりと感じて、嬉しいやら少し切ないやら…。
僕の胸の中に言い表わしようのない不思議な気持ちが込み上げた。




