◆それが僕等だ
「いいにおい…」
シフォンケーキを焼くオーブンの傍で、蒼ちゃんが感嘆混じりでつぶやいた。
仕事も半日を終えて、だいぶ緊張が解けたのか、その表情はとてもナチュラルな感じに見える。
「焼けたら味見してみる?」
蒼ちゃんに視線を向けると、頬を緩ませてしっかりとひとつ頷いた。
厨房の中、時折すれ違いざまに僕の腕と彼女の肩が触れたりしたけど、心配したようなパニックには繋がらずにしっかりと業務をこなす姿を見て、僕はこのまま順調にいけばいいなと小さく安堵した。
そんな順調そうな蒼ちゃんとは反して、シフォンケーキが焼ける時間が迫りつつあると共に、徐々に表情が強ばっていく葉月が気になった。
シフォンケーキが焼けるという事は、言わずと知れた彼――はじめ君が来店するという事に繋がるわけで…。
(やれやれ…)
僕は床に小さく息をひとつこぼした後「蒼ちゃん、ちょっとごめん。5~6分厨房から離れるね」と声をかけた。
蒼ちゃんは「はい」とひとつ返事をして、少し表情を引き締めた。
「大丈夫だよ、ちょっとフロアに行くだけだからね」
蒼ちゃんがひとり不安にならないようにと言葉を足すと、僕に小さく笑みを向けてひとつしっかりと頷いてくれた。
厨房から少し歩き、フロアの入り口。右隣のテーブル席の出窓に並んだ小さな硝子鉢のポトスを見つめて、葉月は険しい表情を浮かべている。
フロアに充月君の姿がない。しかし化粧室から物音がするということは、ティータイムが始まる前に、トイレ掃除に向かったんだなと理解できた。
「葉月、看板娘がそんな顔してたらお客様の居心地が悪くなるから」
僕は葉月の肩に手を乗せて一言、なるべく蒼ちゃんに届かないように声をかけた。
「…わかってるよ…わかってる…」
葉月は僕を見ることなくつぶやいて、深く息を吸い込み、ゆっくりと吐いて深呼吸をした。
「わかってるんだけど…」
軽く握られた右手を口元へ添えて、少し視線を上げて窓の外を見つめた。
「…はじめ君が来る時間だけ、二人に休憩って名目で散歩に出掛けて貰うって…ダメかな…?」
どうやら葉月は充月君達とはじめ君を会わせないようにすることを考えてるようだ。
だけどそれは…。
「それをここにくる毎日、彼らにさせるのか?」
僕は葉月に問いかけた。
「だって…」
「それは、彼女にとって良い事なんだろうか…。何か良からぬ事が起こるんじゃないかって憶測だけではじめ君と敢えて距離を取ることは、僕は正直賛成できないよ」
加えて過度な防衛意識は、時として悪い方向へと作用するということを葉月に諭すと、
「でも…もし…」
葉月は不安げな表情で振り返って僕を見上げて言葉を詰まらせた。
「もしもの時は、僕がいるから。頼りないかもしれないけど、守りたい人くらいはちゃんと守る気持ちでいるよ」
何となく浮かんでしまった苦笑いを見て、葉月は、
「ごめん…。私、また…」 1人で気負い過ぎてると言いたげな苦しげな顔を見せた。
「お願い、洋二…。私、せっかく見れた蒼ちゃんの笑顔を消したくない。だから一緒に…」
弱気な瞳で僕を見上げて、微かに唇を震わせる葉月を見ると、やれやれ…とため息混じりの笑みが落ちた。
葉月は本当に感情が豊かで真っ直ぐな女だ。だけど、時々ネガティブに走って収拾がつかなくなることがある。
それはいつだって、自分の為ではなく、誰かを想ってのことばかりで。
でも僕はそんな葉月の優しいお節介が好きだったりもして。
「大丈夫だよ。僕を信じて。僕もちゃんと葉月を信じてる」
僕は葉月の両肩に手を乗せて、精一杯の笑顔で一言告げた。
『僕に全て任せろ』なんて決して言うつもりはないし、僕には1人で何もかもを万全に背負う力はまだない。
何より葉月の考えや事運びを否定なんて僕にはできないし、互いの主張を誇示してぶつかり合うなんて性格上無理だってわかってる。
だから、1人ではなく2人で。
互いに信じあい進みゆく僕等でいたいから。
勿論、ここぞという時は全力で大事なものを守るって気持ちは楚としてあることは言うまでもない。
「1人で頑張るな。ちゃんと傍に僕がいる」
普段は中々真っ直ぐに視線を合わせることなんてできない僕だけど、本当に伝えたい気持ち、伝えたい想いを届けたい時にだけ。
僕は葉月と瞳を合わせて小さく笑みを向けた。
「洋二…」
葉月は目を見開き、一言しっかりと「うん、信じてる」と言葉と笑顔を返してくれた。
「…二人きりなら…、この流れで遠慮なくギュッてできるのに…」
口を尖らせてつぶやく葉月を見て、僕は思わず照れ笑いしてしまった。
「よし…家に帰ったら、思い切り甘えてやるんだからぁ…」
葉月はにししっと笑って、
「よし、頑張ろっ♪」
と気合いを入れた。
「…すみません。お手柔らかにお願いします」
何となく謝ってしまった僕の後ろで、
「はい~、イチャイチャタイム終~了~♪」
掃除を終えた充月君がクスクスと笑って声を上げた。
「…チッ、お邪魔虫がきた」
葉月は憎らしそうに、しかし笑みを携えて充月君を見たけど、僕は赤面混じりの苦笑い…そして無言で厨房へと早足で戻った。
フロアからケラケラと姉弟の笑い声が響く。
「…」
「…」
ふと蒼ちゃんと視線が合った。
蒼ちゃんは口角の片側を小さく上げて「ふっ…」となま暖かい笑みを向け、
「全く…イチャイチャと…」
とつぶやいた。
「…すみません…」
何だろう…。ついつい謝ってしまった僕だった。




