◆厨房内2
「よし、これで一通りの仕込みは終わりです。後は開店を待つだけだよ」
僕は蒼ちゃんに小さく笑みを送った。
「…はい」
俯き加減で安堵の息をつき、ほんの少しだけ緊張した表情を緩ませて、蒼ちゃんはぽつりとつぶやいた。
「初日だから、きっとわからないことだらけだと思うけど、気が付いたことは何でも遠慮なく聞いてね」
そんな僕の声掛けに、
「…メモ…を…取りたいのですが…」
蒼ちゃんはジーパンの後ろポケットから小さなメモ帳を取出して、恐る恐る僕にかざした。
「残念だけど厨房内でのメモは禁止です」
笑みを絶やさずに一言告げると、
「…メモしなきゃ、忘れちゃう…」
口を少し尖らせて、蒼ちゃんに上目遣いで僕に目力をむけるけど、
「厨房の仕事は頭ではなく、体で覚えることが大事なんだよ。段取りや調理にはマニュアルはないから、体にたたき込まなきゃいけないことばかりだからね」
僕は、大事なことをしっかりと伝える為に真顔で真っ直ぐに蒼ちゃんを見た。
「段取りの時間配分、目安とする調理の時間。厨房の全てに於いて、体内時計を正確に動かすことができないと、お客様にご迷惑をかけることになるんだよ」
僕はカウンター側調理台のステンレスの引き戸をスライドさせて、ゴールドドリンク用のグラスを4つ取出し、厨房出入口にある製氷機へ歩き、グラスに氷を入れる。
「体内時計…。体にたたき込む…ですか…」
ちょっと難しがった顔を見せて、そうつぶやく蒼ちゃんに、
「たとえばさ、蒼ちゃんは夕飯を作る時…そうだなぁ、煮物なんかする時は支度時間や煮る時間、調味料の配合量などを量り考えて作ってるかな?」
僕は蒼ちゃんに尋ねた。
「…そういう時間…気にしたこと…ないです。調味料も目分量だし…」
「そうだろうね。それが『家庭の料理』の醍醐味でもあるから」
僕はひとつ頷き、呼吸を置いた後、
「でもね、僕らがお客様に提供するのは、たとえ小さなカフェとはいえ、目分量の家庭の料理ではなく、お金をいただくプロの料理です」
いつでも変わらぬ味の提供と、お客様をなるべくお待たせしない、無駄な時間を省いたスピーディーな調理や事運びに加えて、どんな些細なことでも気配りのできるゆとりと視野を持つこと。
これが、厨房での大切な仕事なんだって心構えを、僕は蒼ちゃんに身を持って知って貰いたいと思う。
それは、決して短時間では身につけることができないことが当たり前なんだって事を、しっかりと自分に言い聞かせながら蒼ちゃんに向き合う。
僕にとっても新しい学びの時だ。
普段通り仕事を進めながら、彼女のメンタルも伺いながら、ゆっくりと確実に教え込む作業に緊張しないわけがないけど、そんな感情を前に出しては彼女が大なり小なり不安になるだろう。
なるべく平静に。いつでも変わらぬ味を提供するには、調味料の配分をちゃんと覚えなければいけないし、ゆとりある視野を持つ為には、しっかりと段取りや時間配分を身につけて、頭ではなく、体で備えることが大切だってことを蒼ちゃんに伝えた。
僕も父から、時には厳しく、時には笑いを交えてしっかりとそれらをきっちりと体にたたき込まれたからだ。
(申し訳ないけど僕には笑いを入れるゆとりがないけどね…)
「メモに頼ると、メモを追う時間のロスが生まれるんだ。この仕事は実地経験を重ねないと、身につけられないことの方が多いしね」
僕は、冷蔵庫からアイスコーヒーと業務用のアイスティーを取り出し、
「こうしたドリンクを注ぎ入れる量だって、メモをするより、ひとつでも沢山自分で作ったほうが分量の感覚を早く覚えられると思うよ」
氷の入ったグラスのひとつにアイスコーヒーを注ぎ入れた。
「お客様に出すドリンクの量は基本グラスの8分目です。見た目もそうだけど、ウェイターが運ぶ時にも難の少ないない適した量ってやつだよ」
僕は、蒼ちゃんに残り2つのグラスにアイスコーヒーを注ぎ入れるよう促した。
「…8分目…8分目…」
ゆっくりと丁寧にグラスに注ぎ入れる蒼ちゃんの慎重さと真剣な顔を見て、思わず顔が綻びそうになるのをこらえた。
「ぁ! 入れすぎたっ!」 僕の入れたグラスとの僅かな量の違いに、思わず力のこもった悔しそうな声を上げた蒼ちゃん。
(…なるほど…これが、素の彼女の声か)
ちらりとだけど、漸く見えた蒼ちゃんの素の感情に、僕は心の中で安堵した。
「簡単そうで…中々難しいですね…」
そうつぶやきながら、もうひとつのグラスに再度アイスコーヒーを注ぎ入れる。
「ぁうっ! また入れすぎたっ!」
落胆してグラスを見つめる蒼ちゃんに、
「これから、僕らの休憩のドリンクは蒼ちゃんが入れてください」
僕は笑みを向けて、
「それに慣れたら、お客様用のドリンクを蒼ちゃんに任せます。しっかり練習してね」
そう告げると、
「よし、じゃあ、カウンターにドリンクを出して」
僕はアイスティー作りを教えた後、蒼ちゃんに声をかけた。
カウンターには楽しげに厨房でのやり取りを見つめる葉月が、蒼ちゃんが注ぎ入れたアイスコーヒーのグラスを待ちわびてる。
「あっ! しまった! 水やりしてる充月のことすっかり忘れてたっ!」
葉月はフロアに不在の充月君を思い出し、
「ちょっと声かけてくるから待っててねっ♪」
眩しい笑顔の後、軽やかな足取りで、店の出入口のドアの向こうに消えた。
「ひまわりだ…」
葉月の背中を見つめてそうつぶやく蒼ちゃんに、僕は思わずはっとした。
その顔は、とても柔らかで楽しげな笑みを浮かべていた。
(ひまわり…か)
蒼ちゃんが感じた葉月のイメージが僕と同じことに嬉しさを隠せなくなり、思わず口元が緩む僕を横目で一瞬ちらりと見た蒼ちゃんは、
「…つくし…」
ひとつにやりとした笑みを浮かべて、つぶやいた。
…つくし???
ぇ? つくしって…なんだろう…?
僕は、小さく咳払いと苦笑いをして、出入口を見つめた。




