◇まじないのように…
平坦な海沿いの旧道を家路に向かい自転車を走らせる。
鬱蒼とした草が茂る空き地を越えた小さな交差点を右に曲がり、数分走ると道の両脇に住宅街が広がる。その中に蒼の住む家がある。
蒼の家は元々この界隈の大地主で、この住宅街の土地も全て彼女の祖父のものだったらしい。
周りの民家とはちょっと違って、広い敷地を囲う黒い木造の塀がやたらデカくて、ちょっと格式の高そうな威圧感を感じる、立派な門構えの日本家屋が蒼の暮らす家だ。
塀から門までの距離に自転車がさしかかると、蒼は「とめて…」と、弱々しい声で俺のシャツの小脇を引っ張る。
左ブレーキをゆっくりと握り、自転車を停めると、
蒼はのそりと重い足取りで荷台から降りて、俯いて立ち止まってしまった。
「…大丈夫だよ…」
蒼は俯いたまま作ったように明るい声を発したけど、
「…んなわけねーだろ…」 明らかに震えた声や、震えを懸命に止めるために固く握りしめられた両手を見たら、どんな鈍感なバカでもわかるだろう…。
蒼の頭をそっと胸に引き寄せると、
「…北村ぁ…、シャツが磯くさい」
胸の中で微かに笑んだ。そんな蒼の声に、胸が軋んで、言葉が返せなくなってしまう、情けないな…。
「北村ぁ…」
蒼は俯いたまま再度俺の名前をつぶやいた。
「…がんばれって言って…」
震える両手で、俺のシャツを掴み、
「…お願い…。がんばれって言って…」
弱々しくも強い言葉。
それは、まるで自分を動かすまじないでも求めてるような、そんな切願を込めた言葉に感じた。
「がんばれ」
本当は、蒼にこんな言葉はかけたくない。
蒼はこんなに頑張って、自分の苦しい気持ちと戦ってるじゃないか…。
「がんばれ!」
あんな事件があって、家族から家の恥曝しだと疎外され、孤立する日々を続けて一年近く…。
悪いのは蒼じゃなく、全てアイツなのに!
蒼に付き纏い、苦しめた挙げ句、当て付けのように逝ってしまったあの男の顔を思い出したら、身体中の血液が沸騰する感覚に襲われる。
「がんばれ!」
俺には蒼の全てを守る力なんてない、中途半端で弱いガキだ。こうしてずっと辛い気持ちを背負う蒼に、こんな陳腐な言葉しか与えてやれない。悔しいよな…本当に。
胸の中に包み込んだ、細く小さな身体は、懸命に震えを止め、呼吸を整えようと、深く息を吸い込み、ゆっくりと吐くを数回繰り返している。
「がんばれ」
蒼の頭に頬を寄せて、込み上げる胸の苦しさを堪えながら、俺はまじないのように、何度も何度も繰り返す。
そうするうちに、蒼の呼吸は落ち着きを取り戻し、手や身体の震えも徐々に治まっていく。
「がんばるよ…」
小さなつぶやきに、力が宿った気がした。
「がんばるよ。もう逃げないって決めたんだから」
顔を上げた蒼の瞳は少し赤くなって潤んでた。
「明日から、新しいことが始まる。北村と一緒に始める、始めたい。だから、がんばりたい」
小さな光が宿ったかのように、蒼の色素の少し薄い茶色い瞳は真っ直ぐに俺の目を捕えた。
「ああ、一緒に頑張ろう」
楽しいことばかりではないだろうけど、少しでも蒼が笑顔で前に進めるようにと願いを込めて、俺は小さく笑みを贈った。
「よし、もう大丈夫っ」
蒼はまだ少しぎこちなさは残れど、笑みを浮かべて俺の胸から離れた。
「大丈夫っ! 歩けるっ!」
2、3、軽く足踏みをした後、ゆっくりと歩き出した。俺はゆっくりと自転車をひきながら蒼の少し後ろを歩く。
「…♪ …♪」
蒼が急につぶやくように歌ったのは、アイビーで流れてた姉の好きなバンドのポップなラブソングだった。
幼な子のような蒼のソプラノにつられるように、俺も自然と歌を口ずさむ。
門まであと数メートル。
二人でいられるその短い距離を惜しむように、しかし挑むように確実に、蒼は歌いながらも踏みしめるように門を目指して歩いた。
そんな蒼の小さな背中を見つめて、俺はやっぱり
『頑張れ』って言葉を心の中で唱えてた。




