とある男爵令嬢のありきたりで幸せな一生の真実
とある男爵家に生まれた娘アナベルはごく普通の男爵令嬢。平凡な子爵令息と結婚して子供を産んで子爵家で生涯を過ごすというありきたりな人生を送った。
他の令嬢たちとの違いは母を早くに亡くしたことくらいだ。
アナベルの母マリーナは貴族らしくない人だった。アナベルの世話を使用人任せにすることなく、夜の寝かし付けはいつも母がしてくれた。
歌の上手な人だった。男爵夫人が歌を披露する場などないのだが、母が歌ってくれた子守唄はよく覚えてる。
「星が流れる間にお眠りなさい」
早く寝なさいと言われてもアナベルは目をぱっちり開いていた。
「アナベル? なんで寝ないの?」
「だって、寝たらかーさまお部屋から出て行っちゃうでちょ?」
そう言うと母は「かわいいことを言うのね」と柔らかな笑顔をアナベルに向ける。
「それなら一番だけ一緒に歌ってから寝ましょう」
四番まである子守唄の一番だけを一緒に歌う。歌い終えたら母の温かい手を握り、反対の手でトントンと優しく肩を叩いてもらって毎晩眠りに就くのだった。
マナーや教養は女家庭教師を付けて学ばされたが、刺繍だけは母が教えてくれた。
針が当たって指が痛いからもうやりたくない、と言えば、「母様の指ぬきを貸してあげるからもう少し一緒に頑張りましょう」とぶかぶかの指ぬきを貸してくれた。
父は母を大切にしていて、両親の夫婦仲は良かったと思う。
お互いの誕生日に贈り物を贈り合い、視察などで父が数か月屋敷を離れるときは門の前で抱き合って別れを惜しむ、そんな夫婦だった。
父もアナベルを可愛がってくれて、アナベルは愛情いっぱいの幼少期を過ごした。
七歳のとき、アナベルに弟ができた。名前はジョアン。爵位のある家に男児が生まれることは待望で、生まれた子が男の子だと聞いたときアナベルに緊張が走った。自分は女の子。待望された男の子とは違う。
これからアナベルの世界はどう変わるのかと不安を覚えた。
だが、父も母も使用人でさえもアナベルに対しては今まで通り何も変わらず、アナベルにはただ可愛い弟ができただけだった。
秋──雨冷えのする日。母マリーナが病に倒れた。アナベルが十歳のときのことだった。
父からもう長くないと聞かされたときはいっぱい泣いた。
父は悔しそうに拳を震わせアナベルから視線を逸らす。
母が元気になるように、と毎日ジョアンと庭で摘んだ花を母の部屋に届けたが、母は春の花を見ることはできなかった。
冬の末──。母の部屋の窓から枯れ野を眺めて母を想う。
『アナベル、ガヴァネスの用意した課題は終わったの?』
使用人たち以上にいつも細かなことを言う母だった。そんな母を面倒だと思うことがなかったわけではない。
誰だって小言なんて言われたくない。
『わからないからやりたくない』
不貞腐れたように言う。母は次の授業で先生に聞きなさいとは言わなかった。
『一緒に考えてあげるから課題と教本を持ってらっしゃい』
そう言って本当に一緒に考えてくれるのだ。答えは教えてくれないが、教本からヒントになりそうなページを一緒に探してくれた。
刺繍もそう。「できない」と言えば「こうしてみたらできるかもしれないわよ」とアドバイスをくれる。
あれは済ませたの? ここができていないわ。ちゃんとしなさい。と、うるさく言われることも多かったが、それでも母が好きだった。
『あら、こんなに難しい刺繍までできるようになったの? すごいわ』
アナベルから見せに行かなくても、母は気づいて褒めてくれた。アナベルのことを常に気にかけてくれる母が大好きだった。
母の葬儀で弟ジョアンもアナベルと一緒にたくさん泣いていたが、ジョアンの方が母の死を受け入れるのは早かった。
そしてジョアンが毎日めそめそ泣く姉を心配して庭で摘んだ花を持ってきてくれたが、母の部屋に飾った花を思い出して余計に泣く始末だった。
母を大切にしていた父は葬儀のときも涙は見せなかった。
ある夕方──。斜陽が屋敷の廊下に差し込む。どこかへ行く父の後ろ姿が見え、アナベルは後を追った。
屋敷の裏手へ向かっていることがわかるとアナベルの心臓がドクリと脈打つ。
父は恐らく墓地へ向かっている。きっと母のお墓へ行くのだろう。
アナベルはこっそりと父を追う。
やはり母のお墓の前に辿り着いた。
「う……うぅ……」
聞こえてくる呻くような声と洟を啜る音。
母のお墓の前で蹲る父。見ているだけでアナベルの胸が痛みを訴える。
母の葬儀のときの悲しみとはまた違ったつらさを覚える。父の母に対する深い愛がひしひしと感じ取れてアナベルも涙が止まらなかった。
「アナベルか?」
泣いてしまったものだからこっそり見ていたことを父に気づかれてしまった。
「おいで」
アナベルはおずおずと足を踏み出す。父の目元は赤くなっているが、もう泣いてはいなかった。
父は「ここにマリーナが眠っているんだよ」と葬儀のときと同じ説明をしてくれた。
アナベルのせいで泣くタイミングを失わせてしまったのかもしれない。
「父さま……母さまが死んじゃって、かなしい?」
アナベルが聞くと父は切ない笑みを浮かべ「ああ」と言う。
「私も母さま死んじゃってかなしい。一人じゃ泣けないの。父さまも一緒に泣いてくれる?」
「っ……ああ」
アナベルはずっと泣いたままだったが、父はそれを否定せず、アナベルをきつく抱きしめ肩口に顔を押し付ける。
肩がとても熱かった。
◇
それからアナベルが泣くことは減った。母は心の中で生きている。父の中にも母はいる。
父は母と同じように、家庭教師から出された課題でわからない箇所があると一緒に考えてくれた。
だからアナベルも同じように、ジョアンのことを使用人任せにせず、彼が課題でわからない箇所があると言ったときは一緒に教本を見て考えた。
母を亡くしても、家族で手を取り合って前を向いて歩んだ。
「お前は本当にマリーナによく似てきたな」
父はアナベルによくそう言う。そして「お前ももう十七だ。そろそろ結婚相手を探さなければいけないな」と続けるのだ。
そのたびにアナベルはドキリとする。
幸せな結婚がしたい──。
それは誰もが思うことだがアナベルには譲れないことが一つある。
——なだらかな道を穏やかな人と歩いていきたい。
紆余曲折、波乱の末に結ばれるような大恋愛は素晴らしいものなのかもしれないが、そこに至るまでには大変な苦悩や苦労が付いてくると容易く想像できる。
アナベルはそんな思いをしたくはなかった。
地味で良い。ありきたりで良い。波乱などなくて良いのだ。
「そんな顔をしなくてもいい。お前の性格はよく理解しているつもりだ。良い相手を見つけてやるから」
父はそう言ってアナベルの頭をぽんぽんと撫でた。
◇
王都のとある伯爵家で開かれる夜会に出席することになった。
ドレスを着て髪の毛を結ってもらったアナベルは憂鬱な顔で父の前に出た。
「地味だな」
「派手なドレスは似合わないのでこれで良いのです」
「そうだろうか? アナベルなら何を着ても可愛いと思うが」
「父様? そういうのを親ばかというのですよ。人前ではご注意ください」
令嬢たちの間では鮮やかな発色のドレスが流行っているらしいが、アナベルはくすんだ水色のシンプルなドレスを選んだ。
髪型も流行を狙うのならハーフアップで行くべきだが、アナベルは一つにまとめて結い上げてもらった。
天井に吊るされた大きなシャンデリアから光が降り注ぐ煌びやかなホールを父にエスコートしてもらって歩く。
「ローキャスト伯爵、本日はお招きいただきありがとうございます」
父に促されて今宵のホストに挨拶をする。
「フロイスト男爵家の娘アナベルと申します」
「フロイスト家には妙齢のご令嬢がいたんですね。どうでしょう、息子と一曲。ヴィクター」
名を呼ばれたことに気づいてやってきたのはキラキラした美しい青年だった。
「こちらが息子のヴィクターです」
「ヴィクター・ローキャストです。どうぞお見知りおきを」
紹介された伯爵子息は緩い癖のある金色の髪に甘い顔、華やかな装いをした男性で、向こうから秋波を送る女性が何人もいた。
伯爵子息は挨拶のあとアナベルのそばかすのある顔をちらりと見て、上から下まで静かに視線を送ったあと「ダンスカードを」とアナベルのカードに名前を書いた。これはあとでダンスを踊りましょうという予約のようなものだ。
彼の視線はとても淡々としたもので、ダンスカードに名前を書いたのも社交辞令に過ぎないと察してホッとした。
ヴィクターとは特に会話が弾むようなこともなく、無難に踊り終えた。
彼はアナベルとのダンスを終えるとすぐに他の令嬢の元へと向かい、アナベルもその場を離れた。
「アナベル、紹介したい人がいるんだ」
アナベルが胡乱な目を父に向けると「安心しろ、お前にぴったりな相手だ」と自信ありげに眉を上げる。
「トライディー子爵家長男のシリルと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
焦げ茶の髪にグレーの瞳の子爵令息を紹介された。父が紹介するというのは結婚相手にどうだろうと考えているということだ。
派手ではない。夜会ということできっちりとした装いをしているが、他の貴族たちと大差ない格好で、どちらかというと地味な方に分類される。
少し重たい前髪のせいで顔が良く見えないが、不器量というわけではなさそうだ。
彼はアナベルを見止めたあと、柔らかく笑った。
「できればダンスを……と言いたいところですがお疲れでしたらお話だけでも……」
「では、お話を」
父は空気を読むようにスッと立ち去り、彼は給仕からグラスを二つ受け取り「バルコニーにでも出ようか」と静かになれる場所へと誘導してくれた。
「卑下しているわけではないが、子爵家といってもトライディー家の家格は男爵家に近いものだから、気後れしないでくれるとうれしいんだけど」
「お気遣いいただきありがとうございます」
彼がグラスを差し出し、アナベルが受け取りながら微笑むと彼も微笑む。
それからシリルは自分のことや家族の話をしてくれた。家族の話をするときのシリルは穏やかで、でも少し楽しそうで家族仲の良さが窺え、アナベルは心がぽかぽかと温かくなった。
アナベルより五歳年上の子爵令息。ぱっと見は地味だが悪くない。真面目そうで気遣いもできる。家格は男爵家より上になるが、父が紹介をしてくれるくらいだから無謀な相手というほどではないのだろう。良い家に嫁ぐことができれば実家のためにもなる。
たしかに父はアナベルのことを考えた相手を選んでくれていた。
たった一度、夜会で少し会話をしただけで彼のことを好きになった、ということはないが、できれば彼がアナベルを気に入ってくれると良いな、と密かに思う。
それから彼とは昼間にもう一度だけ会って、正式に縁談を申し込まれて婚約が決まった。
父も「良い相手だと思う」と張り切っており、とんとん拍子に話は進む。
何度か招待された夜会にシリルと二人で参加した。
シリルは学友と会うたびにアナベルを婚約者だと紹介してくれる。
そして必ず彼らはアナベルを一瞥し「お似合いだね」と言って、すぐに興味を失ったようにシリルと会話の続きをするのだ。
疎外感はない。むしろこれでいい、とホッとした。
そしてシリルはいつもアナベルに気を遣って「婚約者と一緒だから、また今度ゆっくり話そう」と学友との会話は早めに切り上げてくれる。彼がアナベルを大切にしてくれているのが良く分かる。
ひと月後に結婚式を控えたころ、シリルがアナベルに一つ提案をした。
そして、うららかな春のある日──。
「マリーナ、見ているか? アナベルが結婚するからと夫を連れて来てくれたんだよ」
父が母のお墓に語りかけ、婚礼の衣装を着たアナベルとシリルは父の後ろに立った。
シリルの提案は実家のお墓に眠るアナベルの母に花嫁姿を見せよう、というものだった。
「アナベル。実はマリーナから手紙を預かっているんだ」
「え……」
アナベルがシリルを見るとシリルは視線を合わせて頷いた。知っていたかのような顔をしているので、事前に父から聞かされていたのだろう。
渡された手紙はぴっちりと封がしてあり、アナベルはその場で封を開けた。
母からの手紙ということは八年前からの手紙である。病床で書いたのだろうか。文字が震えて滲んでいる箇所がある。
《親愛なるアナベルへ
アナベル結婚おめでとう。
あなたはいくつになったのでしょうか。
刺繍は上達しましたか? 「できない」と言っていたチェーンステッチはできるようになったかしら?
あなたはどんな女性になったのでしょう。きっと素敵な淑女になっていることだと思います。
あなたの旦那様はどんな方でしょう。娘をどうぞよろしくお願いします。
結婚式に参列することが出来なくてごめんなさい。寂しい思いをさせてしまってごめんなさい。
結婚式には出られないけど、小さなあなたがお嫁に行けるほどの立派な女性になったこと、とても嬉しく思います。
空からあなたたちの門出を祝福します。
アナベル、お幸せに。》
ここまで読んでアナベルは瞳を滲ませた。
そしてゆっくりと息を吸ってから震える声で母に語り掛けた。
「母様。私は十八になりました。刺繍は上達して、チェーンステッチどころかサテンステッチまでできるようになったのですよ。目立つことの苦手な大人になってしまいましたが、それでも夜会で旦那様となるシリル様に出会うことができました。私のことを大切にしてくださる、とても素敵な旦那様です。母様はずっとずっと私の心の中にいました。私を想って手紙を残してくださりありがとうございました」
アナベルがお墓に花を供えるとシリルが一歩前へ出る。
「義母上、初めまして、シリル・トライディーと申します。縁あってアナベル嬢と結婚できることを幸せに思います。どうぞ末永く見守ってください」
後ろの方で控えていた弟ジョアンのぐずくずと鼻を鳴らす音が聞こえてる。
シリルが同様に花を供えたあと、アナベルは父の方を向いた。微笑ましいものを見るような表情をしていた父は、自分の方を向くアナベルに不思議そうな顔を向けた。
「?」
「父様、母様からの手紙には父様への伝言もありました」
「えっ!?」
「読みますね」
《クロード様へ伝えてください》と書かれた後の文章を読み上げる。クロードとは父の名だ。
「クロード様、早くに空へと旅立ってしまうこと、本当にごめんなさい。子どもを育てるという大変な役をあなた一人に押し付けてしまってごめんなさい。アナベルを他家へお嫁に出せるほど立派な女性に育ててくれてありがとうございます。私を妻に、母に、してくれて、ありがとうございます……。短い生涯でしたが……とても……とても……幸せでした」
しっかり伝えなければと思うのだが、涙がとめどなく溢れて視界が滲む。それでも言わなければと声を震わせ父に伝える。
「クロード様、私を愛してくれて……ありがとうございます。私も……ずっと愛しております。いつまでも……ずっと……」
母の手紙に途切れた部分はなかったが、言葉に詰まってすらすらと読むことはできなかった。
最後に「マリーナより」と母の名前で締めくくると、ううーっと泣き出す声が聞こえてくる。声の主はジョアンだった。
父が俯き目頭を押さえていたので、アナベルは両目からぽろぽろと大粒の涙を溢して父に問う。
「父様っ……今日も……一緒に、泣いてくれますか?」
「っ……ああ」
すると父はアナベルをそっと抱き締め「マリーナ……」と呻くような声を漏らす。
アナベルは嗚咽を漏らして泣きじゃくった。
ひとしきり泣いたところで、見ていたシリルがポツリと「素敵な家族だ」と呟き、父はアナベルを離して「そうだろう。私の自慢の家族だ」と笑った。
「シリル殿、娘を頼む」
父が言うとシリルは「はい」としっかり頷く。
「マリーナからはジョアンへの手紙も預かっているからな」
父がジョアンに向かって言うとジョアンは「俺、結婚相手の前では泣きたくないよぉー」とまた泣くので、皆で笑ってしまった。
それからひと月が経ち、若葉が萌える良く晴れた日──。
トライディー子爵領の一番大きな教会でアナベルはシリルと結婚式を挙げた。
親族一同から盛大に祝福され、しきりに「姉上……姉上ー……!」と泣くジョアンが印象的な、とても幸せな式だった。
◇
アナベルはずっと幸せだった。
シリルの両親も妹もアナベルを可愛がり慕ってくれて、アナベルは期待に応えるよう子爵家の屋敷の管理を補佐し、夫人らしく振舞った。
結婚後も招待された夜会にはシリルと二人で参加をしたのだが、お互い目立つような行動はせず、ごく普通の子爵令息夫妻だった。
トライディー子爵がシリルに爵位を継がせ、シリルがトライディー子爵となっても、アナベルとシリルはただの子爵夫妻だった。
結婚して十年も経つと「あのおしどり夫婦の」と言われるほどにただの子爵夫妻の夫婦仲の良さは周知され、今さら二人の仲を裂こうとする者などは現れなかった。
アナベルはシリルに愛され三人の子宝に恵まれた。
子どもの世話は主に世話係がしてくれるが、アナベルも積極的に子どもと関わるようにした。
母のように、寝かしつけには子守唄を歌い、食事時にはフォークの持ち方や料理の好き嫌いを注意した。家庭教師から出された課題の進捗を確認して、時には一緒に考える。
そして、嫌いな食べ物を頑張って食べたとき、一人で課題を終えられたときはたくさん褒めた。
もちろん末の娘にはアナベル自ら刺繍を教えた。
上の息子二人は成長と共に、アナベルよりシリルに教えを乞うように変わっていった。
シリルもアナベル同様、子どもたちと一緒に考え取り組み、子どもたちはみな素直に、強かに成長した。
子どもたちが骨折などの怪我をしたり、突然役者になりたいと言い出したり、と大変なことはたくさんあった。
だが、それも過ぎれば良い思い出で、長男はトライディー子爵の爵位を継ぐつもりで執務に励み、次男は領地運営の補佐をしてくれている。末の娘はとある子爵家に嫁ぐことが決まっている。
山眠る、冬──。
アナベルはシリルとフロイスト男爵領に来ていた。
永眠した父を見送るため。
あんなに泣き虫だったジョアンは僅かに肩を震わせることはあったが、涙は流さず旅立つ父を見送っていた。
ジョアンの子どもたちは祖父である父を慕っていたのか、別れのときは皆大号泣で、ジョアンがフロイスト男爵としての務めを立派に果たした良い葬儀だった。
帰りの馬車の中は静かなものだった。
長く離れて暮らしていても、アナベルにとって大好きな父の死はつらかった。だが、父の想いを考えるとアナベルは上手く泣けなかった。
隣に座るシリルがアナベルの手を握った。
「つらいなら泣けばいい。僕も一緒に泣くから」
「っ……!」
アナベルはシリルの胸に頭を当てて涙を流す。
——父様……ありがとう……さようなら……
葬儀のときにはちゃんとできなかった別れをシリルの胸の中でする。そしてアナベルは泣きながら、恨めしそうな目を向けた。
「シリル様っ……泣いてないっ……!」
「泣いてるさ。心の中で大号泣してる」
シリルがアナベルを抱きしめると、堪えていた想いが溢れ出し、とうとう子どものようにわーっと強く泣いてしまった。
それから数日が過ぎ、アナベルは寝台の中で思い出したかのようにシリルに話す。
「父様は母様を愛していました」
「うん」
「母様もまた父様を……三十年越しにようやく二人が再会できるのだから、父様は喜んでいるかもしれません……」
「そうだね……」
愛し合う夫婦が三十年も離れて過ごすというのは想像するだけで胸が痛い。
「シリル様はずっと一緒にいてください」
「ああ。一緒にいるよ」
「もっともっと年を取って、白髪がいっぱいでしわくちゃになってもずっとですよ」
「ああ……すでに白髪は結構あるが、もっとしわくちゃになって、よぼよぼになってもずっと一緒だ」
アナベルはシリルの胸に顔を埋めて眠るのだった。
◇
それからも目まぐるしく日々は過ぎ、シリルは爵位を長男に譲り、アナベルと二人隠居生活を送った。
その間に、シリルの両親が亡くなったり、次々に孫が誕生したり、と悲しい出来事もうれしい出来事もたくさんあった。
老夫婦の朝は早い。
朝涼のなか、二人は手を繋いで散歩する。裏の森を見晴らしの良いところまで歩くのが最近の日課だ。
日中は暑くなるが、この時間はまだ涼しい。青々とした緑の合間に木漏れ日が差し、木々のあいだを土の香りと共に抜ける風が気持ちいい。
この時間は二人だけの世界だ。
ずっと幸せを噛みしめるように生きてきた。
平凡でありきたりだけど幸せな一生だったと言えるくらいにはなっただろう。
先に寝台から起き上がれなくなったのはシリルだった。
シリルの老い先が見えてくるとアナベルは泣いた。
「うそつき……」
「約束を守れなくてすまない」
「私はあなたと一緒じゃないと泣けないのに……でも……謝られたら許すしかないじゃないですか」
シリルが困ったように笑う。
どうしようもないことだった。
◇
アナベルは若かりし日々を思い返す。
人生の分岐点は学園に行くか、行かないかだった。
アナベルは自身が転生者であると気づいたのは母が亡くなってしばらくしてから。
前世日本人女性だったアナベルは、ピンクベージュの髪をしたテンプレ満載の学園モノの乙女ゲームのヒロインに転生したのだと気づいた。
父はアナベルに王都の貴族学園へ進むように言ったが、アナベルは家庭教師を付けてもらって領地で学びたいと願い出た。
——誰かの恋愛に横やりを入れたり、誰かに横恋慕されるような恋愛はしたくない……!
誰かを悪役にするのも、婚約破棄も断罪も嫌だ。
王女様の護衛をし四六時中束縛される自由のない婚約者や、病弱な幼なじみのいる婚約者なんていらないし、君を愛することはないなんて言われたくない。実は王子だった……や、冷遇に見せかけた溺愛、たくさんの高位貴族から求婚されて困っちゃう……なんて展開は求めていない。
人生に波乱などいらないから、誰からも邪魔されず幸せになりたかった。
だから、令嬢たちから羨ましがられるような身分が高く派手で綺麗な男性とは結婚したいとは思えず、父からごく普通の子爵令息であるシリルを紹介されたとき、父はアナベルのことを良く分かっていると思った。
夜会でシリルを紹介してもらい、それから数日後シリルから父の元へ手紙が届いた。
「アナベル、トライディー子爵家のシリル殿からお前に会いたいと手紙が来ているがどうする?」
「っ……! お会い……したいです。えっと……お気に入りのドレスで出迎えても……?」
「それが良いと思う」
ゲーム内でシリルという青年は登場しない。ゲームのシナリオとは別の人生を歩むのだ。
シリルとの再会の日、アナベルは鮮やかな色のデイドレスを纏い、髪型も美しく伸ばした緩やかな癖のある髪の毛が強調されるようにハーフアップに結ってもらった。
「フロイスト男爵令嬢、本日はお時間をくださりありがとうございます」
「いえ、こちらこそ、わざわざ足を運んでいただき──」
アナベルは玄関でシリルを出迎え挨拶の途中で固まる。
シリルの方もアナベルを見て、瞠目し固まっていた。
「父様……っ」
アナベルは助けを求めるような、あるいは、恨めしく思うようなそんな目を父に向けた。
「ははっ、だからぴったりな相手だと言っただろう?」
したり顔をする父を軽く睨む。
「応接間にお茶の準備をさせておくから、先に二人で庭を見て回ると良い」
父に促されてアナベルはシリルに庭を案内する。
「夜会のときも綺麗な子だなとは思っていたのだが……これほど美しい顔を隠していたとは……」
今日シリルを出迎えたアナベルの顔にそばかすはない。もともとそんなものは存在しないのだ。
ただ、人が集まる場では無関係な人に興味を持たれないよう地味な装いを心掛けていた。
「でも、それはシリル様も同じではありませんか……?」
この日のシリルは夜会のときとは明らかに見た目が違った。
重たい前髪は後ろへ撫でつけられ、顔がはっきり見える。そしてその顔は男らしく整った精悍なものだった。
装いも派手ではないが、どこか華やかさがあり、洗練されたまさに貴公子といった雰囲気だった。
「……そうだね……騙したようで申し訳ない」
「理由をお聞きしても……?」
「たぶん君と同じだと思う。そして今日この姿で現れた理由も君と同じだ」
シリルもアナベルと同様、誰かに恋路を邪魔されたくなく、それでいて自分の想う相手にだけ良く見られたかったという。
「君は僕のためにこの格好をしてくれたということで合っているかい?」
アナベルはカッと顔が熱くなる。顔は真っ赤に染まり、少しだけ泣きそうで、それは返事をしなくとも、彼の質問を肯定したと同意だった。
「ありがとう。僕もだよ。君にだけは良いところを見せたいと思った。僕は人前で自分を出すことはないけども、それでも良ければ」
彼はスッとアナベルの前で跪いて手を差し伸ばす。
「お願いだ、アナベル嬢。僕は君が良い。君と幸せになりたいと思う。僕と結婚してくれませんか?」
この人となら幸せになれる。誰からも邪魔されない恋ができる。
そう思って手を取った。
「っ……どうぞ、よろしくおねがいします……」
長い人生では色々あった。
一度だけ招待された王宮の夜会で国王と王妃に会ったことがある。子爵家当主とその夫人として挨拶をした。
だからと言って何もない。彼らの視線もすぐに次に挨拶をしに来た貴族の方へと向けられる。
もし学園に行っていたら国王の隣に立つのは自分だったかもしれないが、今ではそうならなくてよかったとしか思えない。シリルの隣に立つことができて良かった。
アナベルとシリルの間を裂くものは何もなかった。二人の時間はずっと幸せなものだった。
アナベルのピンクベージュの髪は真っ白になり、手も顔もしわくちゃになって、足腰ももうよぼよぼだ。
シリルが結婚式の日に言ってくれた言葉を反芻する。
『アナベル……、愛してる。ずっと、君だけを愛してる……』
死が二人を分かつまで……
共に過ごし、愛し、慈しみ、貞節を守った。
あれから五年、ようやくシリルの元へ旅立てそうだ。
——私も……愛してるわ……
アナベルは子どもとたくさんの孫に囲まれ最期を迎える。
——いま、いきます……
とある男爵令嬢のありきたりで幸せな最期だった。
拙い文章でしたがお読みいただきありがとうございました。
評価、感想いただけると嬉しいです。




