第9話 執行者フレイザー 前篇
──その日は、朝から嫌な予感がしていた。
ギルドマスターのヨモギさんが、本部からの急な呼び出しで不在なのも拍車を掛ける。
しかも今朝の混みあう時間帯はいつも以上に来客が多く、店番不在の売店からも呼び鈴が鳴り響き、もはや殺人的な忙しさだった。
どうも最近、東の新人が美人で優しく有能だとか、依頼が妙に上手くいって縁起がいいとか、そんな噂が流れているらしい。
ベアトリスが鬼神の如き処理能力で縦横無尽に捌きまくったおかげでどうにか乗り越えられた。彼女がいなければきっと破綻していただろう。
「ふう。お客様も落ち着いたし、二人はお茶でも飲んで来たら?」
両手を頭上に組んで背筋を伸ばしながら、クロエとベアトリスに声を掛ける。
嫌な予感は相変わらずだけれど、だからこそ万全の状態にしておきたい。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
ゆるく波打つ銀髪をかきあげ、ベアトリスが答える。
ここで変に遠慮しないのも彼女のいいところ。クロエも無言で指二本を見せ、椅子から腰を浮かす。
そこで入口の扉が開き、冒険者らしき三人連れがギルド内に足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ。ご用件はこちらでお伺いします」
片手を上げて声を掛ける。けど先頭の長身痩躯の男は、無視してまっすぐベアトリスのカウンターに向かった。仕立てのいい黒の革鎧を着て、腰には細剣を佩く。
「──お久しぶりです、ベアトリス様。ご息災で何より」
彼はベアトリスの窓口前に立つと恭しく礼をした。年齢は四十歳手前か。頬骨の目立つ顔立ちに、穏やかな笑みの形で細められた両目。
「誰かと思えば、フレイザー卿。ええ、元気にしていますわ」
特に驚いた素振りもなく答えるベアトリス。知り合いらしい。
「少々、お時間をいただけませんかな」
「ちょうど、お茶をいただくところです。──少し外に出て良いかしら、セシル?」
彼女はフレイザー卿と呼んだ。冒険者の中にも貴族はいるので、それ自体はおかしくない。ただ「お久しぶりです」に関しては、彼女がここで働いてまだ二カ月──初日の客としても違和感が残る。
「あら、休憩所を使ってもらって構いませんよ。セルフですがお茶もありますし」
売店の反対側、カウンターから向かって右の休憩用スペースを手で示す。この時間は、ほとんど利用者がいないはず。
「すまんがお嬢さん、こちらは込み入った話でね」
しかし私に一瞥さえくれず、案内を却下するフレイザー。物腰は柔らかいけれど、底には有無を言わさぬ圧がある。──もしかして、これが嫌な予感の正体?
「いいの、セシル。わたくしの個人的事情だから、ギルドに迷惑はかけられません」
「さすがベアトリス様、賢明なご判断だ」
このやりとりで私は確信する。彼らは北の隣国──ベアトリスを追放した祖国の関係者だろう。だとすれば目的は、想定外に『龍の庭』を生きたまま踏破してしまった彼女を……
「おい待てよおっさん。ベアトリスは俺とお茶する約束だ」
休憩所側から声と共に、肩をすくめた男が姿を見せる。長いまつ毛と割れ顎がトレードマークの冒険者、アルバートだ。先日の鑑定にまつわるひと騒ぎで、入れ込んでいた西ギルドの受付嬢プリシラのご機嫌を損ねた彼は、どうやらベアトリスに乗り換えたらしい。
今日は依頼も受けずに休憩所で時間を潰していたけど、彼女の休憩を待ち伏せしていたのか。しかし、今回に限っては良いタイミング。
「だろう、ベアトリス?」
「いいえ」
即答で拒絶する、彼女の目を見る。
あの日、ここに担ぎ込まれた瀕死の彼女の碧の瞳はまっすぐに、どうしても生きたいと語っていた。
いまの彼女の瞳は変わらず凛と真っ直ぐで、でも何かが違う。どこかで、よく似た目を見た記憶がある。あれは、確か……
「ということで、お下がりいただこう」
フレイザーの言葉と同時に、彼の背後に控えていた二人の片方がアルバートの前に進み出た。
それまでほとんど存在感がなかったのに、そこに突然そびえ立ったような巨漢で、決して小柄ではないアルバートを頭二つぶんも見下ろしている。
黒い革鎧はフレイザーと同じだけど、武器は帯びていない。代わりに鎧から剥き出しの腕が、はちきれそうに太く鍛え上げられている。
「そうは行かないな。ベアトリスは照れてるだけ、女ってのはみんなそうさ」
さすがアルバート、ここで引き下がるほどデリカシーのある男じゃない。片手を剣の柄に添えて威嚇するその姿が、今日だけは心強い。これでも彼は上級冒険者のはしくれ、決して弱くはない。
「まあ、ちょうどいい。皆さまにもおわかりいただいておこう」
「やめて! わたくしは行くと言ってるじゃない!」
カウンターを両手で叩き抗議するベアトリス。その目を見て、私は思い出した。あれは自分の使命を──何よりも優先すべき、命の使いみちを見つけた人の目だった。そして、その人が私の前に戻ることはなかった。
さっき彼女は、ギルドに迷惑をかけられないと言った。つまり自分が行かなければギルドに迷惑──危険が及ぶ、という意味か。
ギィンと激しい金属音が鳴り響く。
アルバートの剣撃を、巨漢は片手で受け止めていた。その指先から肘付近までを金属製の手甲が覆っている。刃を掴んだまま男の腕の筋肉が盛り上がり、必死に抵抗するアルバートの手から剣を無造作に取り上げて、後方に投げ捨てた。
彼が弱いわけじゃない。相手が格上すぎた。
「あ……」
呆然とするアルバートに、巨漢は鉄拳を振り上げる。その豪腕で殴られたら、彼の自慢の顔面は跡形もなく粉砕されるだろう。そうなったらどんなに強力な治癒魔法でも、たとえ聖女の奇蹟でも、手遅れかも知れない。
「やめてお願い! わたくしの命なんていくらでもあげる!」
ベアトリスの叫びも虚しく彼の脳天に振り下ろされた鉄拳は、しかしなぜか鼻先すれすれを空振っていた。腰が抜けたのか、その場にへなへなと座り込むアルバート。
「どうした、潰して構わんぞ?」
フレイザーの怪訝な問いに答えはない。一拍置いて巨漢は、ゆっくりと背後に倒れ込んでいた。受け身も取らず床に盛大に背中を叩きつけ、そのままぴくりとも動かない。白目を剥いて気を失っている。
──その向こう側。こちらからは巨体に隠れて見えなかった、細身のシルエットがひとつ佇む。
白のブラウスに紺のコルセット付きフレアスカートは、私やベアトリスと同じ制服。ショートボブの黒髪から獣人族の証の三角耳がぴんと立ち、掲げた右手は二本指でなく、手刀の形にまっすぐ揃えられている。
その無感情な灰色の瞳の奥で静かに燃える炎には、彼女をよく知る者しか気付けないだろう。
「ベアがいなくなったら、ぼくの仕事が増えて困る」
受付嬢クロエ。かつて『王都の黒い悪夢』と恐れられた、元暗殺者である。




