11【後】執行者フレイザー
「退くぞ」
それでもなおフレイザーの決断は迅速だった。
雪輝龍が受付嬢の味方らしいという非現実をひと呼吸で飲み込んで、最短の言葉で退却を配下に伝える。
改めて恐ろしい相手。だからこそ、このまま退かせたら次はもっと確実な手段で潰しに来るだろう。
「待って、フレイザー!」
呼び止めるベアトリスの目には、ここに担ぎ込まれたあの日と同じ、生きるための意志が宿っていた。
けれどフレイザーは、その声を振り払うように背を向ける。
「──あのう、すいません」
そこに唐突に、あまりにも場違いで緊張感のない声が響いた。見れば開けっ放しの入口に人影が立っている。逆光で顔はわからないが、細身の体型に腰の長剣のシルエットから、軽装備の冒険者のよう。
「なんか、お取り込み中ですか?」
遠慮がちに一歩踏み入る彼の方へと、復活したばかりの巨漢も含めて、三人の執行者が同時に殺到する。
「おいバカ、逃げろ!」
アルバートが警告しつつ巨漢の足にしがみつくも、あっさり蹴り飛ばされて入口右側の壁に叩きつけられた。
それを真横に見て、目をまん丸に見開き呆然とするのは、栗色の短髪に素朴な顔立ちの青年──先日このギルドから初めての依頼に送りだした、トーマスだった。
よりにもよって最悪のタイミングで、その依頼から帰還したらしい。
「どけ邪魔だ、殺すぞ!」
先頭で彼に迫る蛇男が、クロエの投じたナイフをぬるりとした動きでかわしつつ恫喝。その手の短剣はすでに彼の喉元に向けて奔っていた。いけない、このままじゃ。
「トーマスくん!」
名を呼ぶ。我に返った彼の表情が、一瞬で鋭く研ぎ澄まされる。
「セシルさんの前で、そんな言葉を使うな」
眼前に迫った短剣の切っ先を手の甲で跳ね上げ、抜刀しながら長剣の柄頭を胸に叩き込む。蛇男は「ぐえ」と呻いて床に転がった。
続いて猛進してくる巨漢の股下を、屈んでするりと潜り抜ける。立ち上がりざま後ろ手で背中に柄頭を叩き込む。前のめりに倒れる巨漢の腰を踏みつけ、床に抑え込んだ。
「やれやれ、ここはびっくり箱か?」
心底から呆れた様子のフレイザーは、床からアルバートの剣を拾いあげた瞬間に、予備動作なしで突きをはなつ。頬にひとすじ傷を付けながらそれを避けたトーマスは、同時に一閃した長剣の刃をフレイザーの首筋でぴたり寸止めする。
三人の手練れを刹那に無力化。これが、クロエとヨモギさんが認めた彼の実力なのか。落差がすごすぎて、ちょっと理解が追い付かない。
「──あれはもう十年以上も前でしたね」
張り詰めた空気を破ったのは、穏やかなベアトリスの声だった。
「許嫁だったあのひととの面会の日。行きたくないと駄々をこねて書庫に閉じこもったわたくしの元に、遣いとして来たのがフレイザー卿、あなた」
「まったく、よく覚えておいでだ」
ため息を吐いて、応じるフレイザー。その声もまた、諦めたように穏やかだった。
「急かすでも脅すでもなく、わたくしの開いていた本を横から覗き込んで、一緒に読んだのを覚えています」
ベアトリスは続ける。
「雪の妖精という別名を教えてくれたのもあなた。お城の書庫にはもっとたくさんの蔵書がある。そして知識だけは絶対に裏切らない、味方になってくれると……」
「そんなことを言いましたか。なんとも子供だましの台詞ですな」
「いいえ。今でもおっしゃる通りだと思います。感謝していますわ、フレイザーおじさま」
彼はその言葉に、何も答えなかった。
それからベアトリスは、クロエにナイフを突き付けられた蛇男に視線を向ける。
「サイモン。あなたの肉料理がとっても美味しくて、大好きでした。お城に行く日はそれがいちばんの楽しみだったの」
続けて、トーマスに片足一本で抑えつけられている巨漢にも。
「ジョッシュ。あなたの花壇はほんとうに素敵で、いつもうっとりと見ていたの。辛いことがあった帰りに、わたくしを癒してくれました」
フレイザーが大きくため息を吐いた。続いてサイモンとジョッシュ、そう呼ばれた彼らが、絞り出すように口にする。
「……なんで、俺らの名を……」
「……おぼえて……おいでなのか……」
ベアトリスは答えない。答えようがないのだろう。だって感謝すべき相手の名前を憶えていることなど当前だから。泣き落としでもなんでもない、ただ追放される前に伝えられなかったことを伝えているだけ。
それが貴族社会のドロドロを熟知しながら、自分自身はそれに染まることなく、傷付いた大地龍に貴重な魔法薬を使い切るベアトリスという人間だ。
「──やれやれ」
首筋に刃を添えられたまま、フレイザーが首を横に振る。刃先が微かに肌に食い込んで血がにじみ、驚いたトーマスが剣を少し引いた。
「歴戦の執行者ともあろうものが、すっかり腑抜けてしまった」
そして肩をすくめながら続ける。
「ずっと不思議だったのです。我が主は、なぜあんなにも貴女の存在を恐れるのか。その理由が、今になってようやく理解できた気がする」
戦意を喪失した様子でぼやいた──次の瞬間、トーマスの剣は彼の手に移っていた。速すぎて何が起きたかわからない。取られた本人も口をぽかんと開けている。
「──さて、とんだ茶番だな」
冷たく言い捨てると彼は、剣の切っ先をトーマスの喉元に突き付け、巨漢を踏みつける片足を退けさせる。
「やはり、あの女は『龍の庭』で野垂れ死んだ。ここには、顔が少し似ているだけのただの受付嬢しかいなかった」
ベアトリスが、小さく息を飲む。
そしてフレイザーは、奪ったばかりの剣の向きをくるりと反転させ、柄の方を持ち主に差し出していた。
「その力を他人のためにばかり使うなよ。強い力は、他人のために使うほど歪んでいくものだ」
呆けた顔で剣を受け取る若き冒険者に何を見たのか、フレイザーはそう語りかける。剣を鞘に納めながら、トーマスは遠慮がちに答えた。
「でも僕は、僕の力で誰かを助けられるなら、それを見過ごせないと思う……」
「ならその誰かのためじゃなく、助けたいと願う自分のために使え」
言葉を噛みしめるように黙ってから、若者はゆっくりとうなずく。
それを見届けると、フレイザーはよろめく巨漢に手を貸して立ち上がらせ、クロエから解放された蛇男の肩を叩く。
彼らは最後にベアトリスに向かって深々と礼をしてから、ギルドを後にした。
蛇男──サイモンだけは、少し躊躇ったあと、私にも同じくらい深々と礼をしていった。
愛しの毛玉ちゃんも、扉が閉じる寸前の隙間から、きらきらを残して空に飛び去る。
──遠ざかる足音、落ちる沈黙。
「さてと」
私は足元のリボンを拾い上げ、ポニーテールをきゅっと結び直した。
「ベアトリスはアルバートさんの手当をお願いできる? 売店の魔法薬、いくらでも使っていいから」
「ええ、任せて」
「クロエちゃんは軽くお掃除ね」
すでに箒を手にしていた彼女は指二本で答える。
「よし、それじゃあトーマスくん。まずは」
難しい顔で剣の柄を握ったままの彼に、私は微笑みかけた。
「──おかえりなさい」




