第8話 魔力枯渇と魂の共鳴
「……魔力枯渇だ。限界を超えている」
レジスタンスの医師が、重々しく告げた言葉が頭の中で反響していた。
リアムが倒れた。
執務中に突然、糸が切れたように崩れ落ちたのだ。
その瞬間、私の世界から色が消えたような気がした。
広い寝室のベッドで、彼は浅い呼吸を繰り返している。
いつもは涼しげな顔が、今は高熱で赤く染まり、苦しげに歪んでいる。
額には脂汗が滲み、うわ言のように何かを呟いている。
「彼自身の魔力は、底をついている。……いや、正確には『誰か』に与えすぎて空っぽなんだ」
医師の視線が、私に突き刺さる。
わかっている。私のせいだ。
私が眠っていた三日間、彼は自分の生命力を削って私に注ぎ続けていた。
その上で、結界の維持や古都の統治まで一人でこなして……。
私の体には、彼がくれた力が溢れているのに。彼はこんなに弱っている。
自分が許せなかった。
「外部から魔力を補給しないと、命に関わる。……頼めるか、姫様」
「……ええ。もちろんよ」
医師たちが退出し、部屋には私とリアムだけが残された。
静寂が怖い。彼の呼吸音が、今にも止まってしまいそうで。
私は震える手で、水に濡らしたタオルを彼の額に乗せた。
「リアム……」
私はベッドの縁に座り、彼の手を握った。
熱い。火傷しそうなほどの高熱だ。
いつも私を守ってくれた、大きくて温かい手。
それが今は、力なく投げ出されている。
「死なないで……。お願い、私を置いていかないで……!」
恐怖が、胸の奥から溢れ出した。
嫌だ。彼がいない世界なんて考えられない。
私の騎士。私の従者。私の……愛する人。
彼を失うくらいなら、私が代わりに死んだ方がマシだ。
「リアム!!」
私は叫び、彼の手を強く握りしめた。
その瞬間。
ドクンッ!!
心臓が、破裂しそうなほど大きく跳ねた。
視界が白く弾ける。
体の中から、制御できないほどの熱い奔流――「魅了」の魔力が、ダムが決壊したように溢れ出した。
感情の爆発が、魔力の暴走を引き起こしたのだ。
「あっ……!?」
しまった、と思った時には遅かった。
無自覚な、けれど過去最大級の「魅了」が、無防備なリアムを直撃したのだ。
空気がビリビリと震える。
そして、私の頭の中に、ノイズのような音が響いた。
ザザッ、ザザザッ……。
『……あぁ……』
声?
いいえ、違う。これは、直接脳に響いてくる……。
次の瞬間、私の視界が暗転した。
いや、違う。
「誰かの目」を通して、別の景色が見えているのだ。
*
(……寒い)
(お腹が空いた……)
泥の味。雨の冷たさ。
私は――いいえ、「彼」は、路地裏のゴミ捨て場にうずくまっていた。
体は小さく、ボロボロの布切れを纏っている。
視界は灰色で、世界中のすべてが敵に見える。
誰も信じられない。誰も助けてくれない。
(死にたい……。でも、死ねない……)
復讐しなきゃ。あいつらを殺すまでは。
そんな暗い炎だけが、凍えた体を動かしている。
孤独。絶望。憎悪。
それらが黒い泥となって、「彼」の心を塗りつぶしていく。
その時だった。
「……あら? こんなところに」
頭上から、鈴を転がすような声が降ってきた。
「彼」は顔を上げた。
そこには、女神がいた。
燃えるような夕日を背に、新緑の髪を風になびかせた少女。
泥だらけの「彼」を見ても、その水色の瞳は少しも曇らなかった。
ただ、真っ直ぐに、優しく、「彼」を見つめていた。
(……綺麗だ)
「彼」の思考が、その一色に染まる。
復讐も、憎しみも、空腹さえも吹き飛んだ。
ただ、その圧倒的な「光」に目を奪われた。
世界に、こんなにも美しいものが存在したなんて。
「お腹、空いてない?」
少女が差し出したのは、固いパンの欠片。
でも、「彼」にはそれが、どんな宝石よりも輝いて見えた。
彼女が笑った。
その瞬間、灰色の世界に色が戻った。
雨音が音楽に変わり、泥の臭いが花の香りに変わった。
『……ああ、僕は』
『この人のために生きよう』
『この笑顔を守れるなら、僕は悪魔にだってなってやる』
熱い。
重いほどの愛が、奔流となって私の中に流れ込んでくる。
これは、リアムの記憶。
彼が私に向けていた、狂気的なまでの崇拝と、恋心。
(私、こんな風に見えていたの……?)
ただの浮浪児を拾ったつもりだった。
でも、彼は私を「世界を照らす光」として見ていたのだ。
10年間、ずっと。片時も忘れずに。
その想いの深さに、涙が溢れて止まらなかった。
*
「……はっ!」
意識が、現実に引き戻された。
目の前のリアムが、うっすらと目を開けていた。
その瞳は熱に潤み、焦点が合っていない。
けれど、私を捉えた瞬間、そこに強烈な「熱」が宿った。
「……エリザベート……」
甘い、とろけるような声。
心のパスが繋がっているせいだろうか。彼の声が、鼓膜だけでなく、直接魂を撫でるように響く。
「……欲しい……」
「え……?」
「あなたの全てが……欲しい……」
リアムが、私の腕を引いた。
抵抗する間もなく、私はベッドに引き倒された。
熱い吐息が顔にかかる。
普段の理性的な彼はどこにもいない。
私の「魅了」に当てられ、本能を剥き出しにした一人の男が、そこにいた。
彼の瞳の奥で、理性が揺らいでいるのがわかる。
『だめだ……お嬢様に手を出すなんて……』
そんな弱々しい理性の声が聞こえる。
でも、それじゃダメなの。
彼を救うには、もっと深いところで繋がらなきゃ。
私は彼の頬を包み込み、真っ直ぐに見つめた。
「リアム、私は、あなたにすべてを捧げます」
「……っ」
「ええ、身も心もすべてを込めて、あなたを救いたい。……お願い、私を受け入れて」
私は彼の唇に、自分の唇を寄せた。
「私は全部、リアムのものだよ」
その言葉が、引き金だった。
『……姫……ッ!!』
頭の中に、爆発的な感情が流れ込んできた。
それは、理性なんて吹き飛ばすほどの、強烈で、ドロドロとした欲望。
『欲しい、食べたい、犯したい、僕の中に取り込みたい』
『その肌も、声も、心臓の音も、全部僕だけのものにしたい』
彼の頭の中が、私へのエッチな願望で埋め尽くされているのが、手に取るようにわかる。
普段の涼しい顔の下に、こんな獣を飼っていたなんて。
普通なら恐怖するかもしれない。
でも、今の私には、その「貪欲さ」こそが頼もしかった。
それこそが、彼を死の淵から引き戻す「生への執着」そのものだから。
「ん……っ、ぁ……!」
唇が触れ合った瞬間、彼の欲望が掃除機のように私の魔力を吸い上げ始めた。
私の生命力が彼に流れ込み、彼の渇望と快感が私に流れ込んでくる。
(……すごい、気持ちいい……)
頭が真っ白になる。
彼の舌が、私の口内を貪るように侵略してくる。
魔力を吸い取られているはずなのに、奪われる感覚が快感に変わる。
彼が私を求めている。
その事実が、嬉しくて、愛おしくて、たまらない。
『愛しています……私の女王……』
『私だけの、エリザベート……』
直接響いてくる彼の心の声。
重くて、甘くて、独占欲にまみれた本音。
私は彼の首に腕を回し、それに応えるように深く口づけを返した。
「……んっ、私も……好きよ、リアム……」
魔力の譲渡が終わる頃には、私たちは汗だくになって、互いの体温を確かめ合うように抱き合っていた。
彼の欲望を受け入れ、肯定したことで、私たちは本当の意味で一つになれたのだ。
*
翌朝。
小鳥のさえずりで、私は目を覚ました。
隣には、安らかな寝息を立てるリアムがいる。
顔色はすっかり良くなっていた。
私は安堵の息を吐き、彼の寝顔を見つめた。
昨夜のことは、夢じゃなかった。
唇に残る感触が、それを証明している。
「……ん……」
リアムの睫毛が震え、ゆっくりと紫色の瞳が開かれた。
彼はぼんやりと天井を見つめ、それから隣にいる私を見た。
「……おはよう、リアム。気分はどう?」
私が微笑みかけると、彼は数秒間、ポカンとしていた。
そして。
昨夜の記憶――暴走したこと、キスをしたこと、そして何より、「心のパスで自分の過去と本音がダダ漏れだったこと」を思い出したのだろう。
彼の顔が、瞬時に沸騰したように赤くなった。
「あ……あぁ……」
彼は両手で顔を覆い、ベッドの上で丸まった。
耳まで真っ赤だ。
「……見ましたね?」
「え?」
「見ましたよね!? 私の……あの、恥ずかしい記憶を! 心の声を!」
いつもの冷静沈着なリアムはどこへやら。
彼は指の隙間から私を見て、消え入りそうな声で呻いた。
「……『女神』だの『光』だの……あああ、忘れてください! お願いします、一生のお願いです!」
「ふふっ」
「笑い事ではありません! 穴があったら入りたい……いや、埋めてください……」
枕に顔を埋めてジタバタする彼が、あまりにも可愛くて。
私は彼の背中に抱きついた。
「忘れないわよ」
「お嬢様ぁ……」
「だって、嬉しかったもの。……私、あんな風に思われてたなんて、知らなかった」
私は彼の耳元で、昨夜のお返しのように囁いた。
「……私も、あなたのこと『王子様』だと思ってたわよ? ……10年前から、ずっと」
リアムの動きが止まった。
彼は恐る恐る顔を上げ、真っ赤な顔で私を見つめた。
「……本当ですか?」
「ええ。……だから、おあいこね」
私たちは見つめ合い、そしてどちらからともなく笑い出した。
朝日が差し込む寝室で、二人の新しい朝が始まった。




