第6話 古都の蜂起と二人の戴冠式
「お嬢様は、ここで待っていてください」
地図が広げられたテーブルの前で、リアムは静かに、けれど断固とした口調で言った。
彼の指が指し示しているのは、地上にある古都『アルカディア』。
かつては王国の第二都市として栄え、戴冠式も行われる聖地だった場所。
今は――帝国の旗が翻る、占領地だ。
「今回の作戦は、このアルカディアを一気に制圧し、我々の拠点とすること。……血が流れます。汚い仕事は、すべて私が片付けます」
リアムの紫色の瞳が、私を気遣うように揺れている。
彼はいつだってそうだ。私を綺麗な場所に置いて、自分だけ泥を被ろうとする。
でも、今日の彼はどこか様子が違った。
迷いがある。何かを恐れているような、そんな脆さが垣間見える。
「……実は、この作戦は何年も前から準備していました」
「え?」
「レジスタンスたちは、ずっと私の号令を待っていた。武器も、仲間も、すべて整っていたのです」
リアムは少し寂しげに微笑んだ。
その笑顔を見て、私は悟った。
彼が今まで動かなかった理由を。
「……ですが、私は決断できませんでした。この作戦を実行すれば、私はもう、あなたの『ただの従者』ではいられなくなる。……それが、怖かったのです」
「リアム……」
「ですが、もう迷いません。あなたを守るためには、私は王にならなければならない。……だから、お嬢様はここで待っていてください」
彼の言葉に、胸が締め付けられた。
彼は、私のために国を取り戻すのを遅らせていたのだ。
自分の復讐よりも、王としての責務よりも、私との穏やかな日々を選んでくれていた。
その愛の深さと、彼が抱えていた葛藤の重さに、涙が出そうになる。
だからこそ。
私は、ここで待っているわけにはいかない。
彼が「従者」という仮面を捨てて戦うのなら、私も「守られるお姫様」のままではいられない。
「いいえ。私も行くわ」
「お嬢様」
「リアム、聞いて。……私は、逃げ出しただけの裏切り者として終わりたくないの」
私は拳を握りしめた。
爪が掌に食い込む痛みが、私の決意を支えてくれる。
「かつて私の国――サンクチュアリ王国は、あなたの国を見捨てて裏切った。私はその罪を、ただ嘆くだけで終わらせたくない。……その汚名を、私自身の剣で雪ぎたいの」
私は彼を見つめた。
真っ直ぐに。逃げずに。
「あなたが私のために『従者』を捨ててくれるなら、私もあなたのために『公爵令嬢』を捨てるわ。……今度こそ、あなたと共に戦わせて。あなたの剣として」
リアムは息を呑んだ。
数秒の沈黙。
やがて、彼はふっと力を抜いて微笑んだ。
それは、守る対象を見る目ではなく、共に歩むパートナーを見る目だった。
「……敵いませんね、私の女王には。承知しました。背中は預けますよ」
*
古都アルカディアの中央広場。
そこは、帝国の衛兵たちと、うつむいて歩く市民たちで溢れていた。
重苦しい空気。支配される者の沈黙。
石畳を踏む足音が、やけに大きく響く。
私たちは、旅の商人を装って広場の中央へと進んだ。
フードを目深に被ったリアムが、噴水の縁に立つ。
私はその隣で、腰の双剣に手を添えて周囲を警戒した。
心臓が早鐘を打つ。
ここから始まるのだ。私たちの、本当の戦いが。
「……時が来た」
リアムが呟き、フードを脱ぎ捨てた。
夜の闇のような黒髪が風になびき、隠されていた紫色の瞳が露わになる。
王家の証。
その瞳が、広場を行き交う人々を射抜いた。
「顔を上げろ、我が同胞よ!」
よく通る、凛とした声が響き渡った。
雑踏がピタリと止まる。
市民たちが顔を上げ、リアムの姿を凝視する。
驚愕。困惑。そして――歓喜。
彼らは知っていたのだ。いつか、この日が来ることを。
「あ、あの方は……!」
「まさか、生きておられたのか……!」
「我らの、王だ……!」
ざわめきが波紋のように広がる。
帝国の衛兵たちが慌てて槍を構えた。
「き、貴様! 何者だ!」
リアムは衛兵を一瞥もしなかった。
ただ、民衆に向かって、力強く片手を掲げた。
「待たせたな。……本当に、長く待たせてすまなかった」
その謝罪の意味を理解したのは、私と、彼を待ち続けていた民衆だけだっただろう。
そして、次の言葉が合図だった。
「ロザリアは、今この時より蘇る!」
「うおおおおおおっ!!」
地鳴りのような咆哮が上がった。
信じられない光景だった。
ただのパン屋に見えた男が、花売りの少女が、杖をついた老人が。
一斉に、服の下や荷車から武器を取り出したのだ。
錆びついた剣、農具、隠し持っていたナイフ。
彼らは恐怖をかなぐり捨て、帝国の衛兵たちに襲いかかった。
「な、なんだ貴様ら!? やめろ!」
「俺たちの国を返せぇぇ!!」
たった一人の王子の言葉が、街一つを武器に変えたのだ。
いいえ、違う。
彼らは準備していたのだ。何年も、何年も、この瞬間を待ちわびて。
王が帰還し、号令を下すその時を。
私は震える体でその光景を見ていた。
彼は、私だけの従者じゃなかった。
本当に、この国の人々の希望そのものだったんだ。
そして彼は、その希望を背負う覚悟を、私のために決めてくれたのだ。
「行きますよ、エリザベート!」
「っ、ええ!」
リアムの声に弾かれ、私も剣を抜いた。
愛用のショートソード。その重みが、手に馴染む。
「そこをどきなさい!」
私は石畳を蹴った。
風になる。
帝国の重装歩兵が立ちはだかるが、遅い。
私は彼らの大振りの攻撃を紙一重で躱し、鎧の隙間――関節や腱を正確に斬りつけた。
「ぐあっ!?」
「は、速い……!」
殺しはしない。戦闘不能にするだけで十分だ。
私は舞うように戦場を駆け抜けた。
緑色の髪がなびき、水色の瞳が敵の動きを捉える。
体が軽い。リアムの魔力が満ちているおかげか、以前よりも速く、鋭く動ける。
「ふっ!」
隣では、リアムが暴れ回っていた。
彼は杖も剣も持っていない。素手だ。
だが、その拳は凶器だった。
ドゴォッ!!
彼が拳を振るうたび、衝撃波のような魔力が炸裂し、敵が吹き飛んでいく。
魔法で身体能力を極限まで強化した、魔法格闘術。
武器を持たないのは、武器が邪魔になるほど彼自身が強いからだ。
「私の女王に指一本触れさせませんよ」
彼は優雅に微笑みながら、背後から迫った敵を裏拳で粉砕した。
強い。
魔法使いの常識を覆す、圧倒的な「暴力」。
私たちは互いの背中を守りながら、城へと続く大通りを駆け上がっていった。
*
数時間後。
古城の玉座の間は、静寂に包まれていた。
帝国の総督は逃げ出し、城はレジスタンスと市民たちの手に落ちた。
夕日が、ステンドグラスを通して玉座を赤く染めている。
リアムは、埃を払った玉座の前に立ち、私を手招きした。
「こちらへ、エリザベート」
私は剣を納め、彼の元へと歩み寄った。
戦いの高揚感がまだ残っている。心臓がうるさい。
足音が、広い空間に響く。
リアムは、どこからか持ってきた――おそらく宝物庫にあったのだろう――古びた、しかし美しい銀のティアラを手にしていた。
「まだ、正式な戴冠式ではありませんが」
彼は私の前に跪いた。
あの広場で民衆を熱狂させた王が、私一人の前で、恭しく頭を垂れている。
「私の女王。……ここから、私たちの国が始まります」
彼はそっと、私の頭にティアラを載せた。
ひんやりとした金属の感触。
それが、私たちが背負う「国」の重さなのだと思った。
「……リアム」
私は震える声で彼を呼んだ。
胸がいっぱいで、言葉が出てこない。
「ですが、一つだけ懸念があります」
リアムは少しだけ表情を曇らせた。
「10年前……国が滅びる直前に、帝国から無理やり決められた許嫁がいるのです。相手は帝国の高位貴族令嬢、セレスティア・フォン・ローゼンバーグ」
「えっ……?」
「実質的な人質としての婚約でした。国が滅んだ今、無効だと言いたいところですが……向こうは契約書を盾に、既成事実化しようとしてくるでしょう」
彼は申し訳なさそうに眉を下げた。
10年前の呪縛。それはまだ、彼を縛り続けているのだ。
でも、私は負けない。
彼が私を選んでくれたのだから。
夜風に吹かれようと、私たちはバルコニーへと出た。
眼下には、解放されたアルカディアの街が広がっている。
あちこちで篝火が焚かれ、勝利を祝う歌声が聞こえてくる。
「……ねえ、リアム」
「はい」
「そのぉ、正式な婚約者は……誰になさるの?」
聞いてしまってから、顔が熱くなった。
さっきの話があったから、余計に気になってしまったのだ。
リアムは驚いたように目を丸くし、それから意地悪く笑おうとして――。
「いいえ、私だってわかっています!」
私は彼の言葉を遮った。
自分で聞いておいて、自分で答えるなんて変だけれど。
でも、言わなくちゃいけない。
今のままの私じゃ、このティアラは重すぎるから。
私は真っ直ぐに彼を見つめた。
「……だから、ふさわしいお姫様になりたいんです!!」
あなたの隣に立っても恥ずかしくない、最強で、最高に可愛いお姫様に。
それが、私の新しい目標。
リアムは目を丸くして、それから優しく微笑もうとした。
だが、私はまだ言い足りなかった。
勢いに任せて、もっとアピールしなくちゃいけない気がしたのだ。
「そ、そのぉ……ええと……!」
「はい?」
「わ、私、身持ちは固いんです! 殿下とも手すら繋いでませんし!」
リアムがピクリと眉を動かした。
彼は私の手をそっと握り、悪戯っぽく目を細めた。
「おや? 私とは繋ぎましたよね? 夏祭りで」
「あ、あれは任務だったから! ノーカンです!」
「任務、ですか」
「そうよ! そのぉ……何を言わせるんですか! もう!」
私は顔を真っ赤にして、彼の胸をポカポカと叩いた。
墓穴を掘った。完全に掘った。
これじゃあまるで、「あなたとは任務じゃなくても繋ぎたい」と言っているようなものじゃないか。
「……信じてますよ」
リアムが、耐えきれないように吹き出した。
そして、衝動的に私を抱きしめた。
「……あなたは、どこまで私を夢中にさせれば気が済むんですか」
耳元で聞こえる彼の声は、甘く、熱く、震えていた。
私は彼の背中に腕を回し、ぎゅっとしがみついた。
街の歓声よりも、今はただ、重なり合う心臓の音だけが大きく聞こえていた。




