第4話 地下に眠る亡国の記憶
その部屋は、地下宮殿の中でも一際異質な空気を放っていた。
重厚な扉を開けた瞬間、冷たく澄んだ空気が肌を撫でる。
そこは、まるで時が止まったかのような静寂に包まれていた。
高い天井まで届く巨大なステンドグラス。
地下に太陽はないはずなのに、どこからか引かれた光が透過し、床に極彩色のモザイク模様を描き出している。
壁一面には、美しいフレスコ画が描かれていた。
咲き乱れる花々。豊かな水を湛えた湖。そして、その湖畔に佇む白亜の城。
描かれている風景は、どこか懐かしく、そして切ないほどに美しかった。
それは、ただの隠れ家やアジトと呼ぶには、あまりにも荘厳で、歴史の重みを感じさせる場所だった。
ここにあるもの全てが、長い時間をかけて守られ、磨き上げられてきたことがわかる。
「……リアム」
私は、壁画に描かれた美しい湖を見上げながら、震える声で問いかけた。
「ここは、一体どこなの? ただのレジスタンスのアジトじゃないわよね。……まるで、王城のよう」
「お気に召しませんでしたか?」
「違うわ。綺麗すぎて……怖いのよ。私が知っている『王国』の歴史に、こんな場所は存在しないもの」
私の鋭い指摘に、リアムは静かに微笑んだ。
彼は私の隣に並び、同じように壁画を見上げた。
その横顔は、いつもの従者のものではなく、どこか遠い世界を見つめる王の顔をしていた。
「……昔話をしましょうか」
「昔話?」
「ええ。とても古くて、ありふれたお伽噺です」
リアムの声は、地下の静寂に溶け込むように、優しく響き始めた。
「昔々、あるところに、水と花に愛された美しい小国がありました」
「その国の人々は穏やかで、争いを好まず、隣の大きな国――『王国』とは固い友情で結ばれていました。……少なくとも、彼らはそう信じていました」
私は息を呑んだ。
その設定に、聞き覚えがあったからだ。
そして何より、壁画に描かれた湖の色は、私自身の瞳の色と同じ、透き通るような水色だった。
まさか、ここは……。
「しかし、ある日突然、西から鉄と炎の軍隊――『帝国』が攻めてきました。小国は必死に戦いました。そして、盟友である『王国』に助けを求めたのです」
リアムの声が、少しだけ低くなる。
そこには、隠しきれない悲しみと、静かな怒りが滲んでいた。
「ですが、王国は扉を閉ざしました。『帝国を刺激したくない』。ただそれだけの理由で、長年の盟友を見殺しにしたのです」
「……っ」
「それに加えて、国内にも裏切り者がいたのです。宮廷魔術師長ガブリエル。彼が結界を解除し、帝国軍を手引きしたと言われています」
「ガブリエル……?」
「ええ。かつては尊敬されていた男でしたが……今では『破戒僧』と呼ばれ、帝国で堕落した生活を送っているそうです」
リアムは悔しげに唇を噛んだ。
裏切り。見捨てられた絶望。
想像するだけで、胸が押し潰されそうになる。
「小国は三日で滅びました。王も、王妃も、民も、皆殺しにされました。……たった一人、敵の刃に囲まれて震えていた、幼い王子を除いて」
リアムは壁画に手を伸ばし、描かれた「燃える城」の絵を指先でなぞった。
その指先が、微かに震えているように見えた。
「王子は絶望しました。国を奪った帝国を憎み、裏切った王国を憎み、無力な自分を呪いました。……彼は復讐のためだけに生きようと誓い、泥水をすすって国境を越え、裏切り者の国へと逃げ延びました」
そこで、リアムはふと表情を緩めた。
氷のような冷たさが消え、春の日差しのような温かさが瞳に宿る。
「そこで、王子は出会ったのです」
「……え?」
「復讐の炎に焼かれ、心が死んでいた少年の前に、一人の少女が現れました」
彼は私の方を向いた。
その瞳に映っているのは、今の私だけではない。
10年前の、あの日の私だ。
「彼女は、公爵家の令嬢でした。何不自由ない身分でありながら、なぜかいつも傷だらけで、泥だらけで。……誰かのために、必死に剣を振るっているような、不器用な少女でした」
心臓が、ドクンと跳ねた。
10年前。
屋敷の裏路地で、ボロボロの少年を拾った日の記憶が蘇る。
雨の日だった。
ゴミ捨て場の陰で、獣のように鋭い目でこちらを睨む少年。
でも、その瞳の奥には、助けを求めるような寂しさが隠れていた。
「少女は、薄汚れた浮浪児だった王子を見ても、顔をしかめませんでした。それどころか、『お腹、空いてない?』と、自分のパンを差し出したのです」
「……リアム、それって……」
「王子は最初、彼女を利用してやろうと思いました。このお人好しの令嬢に取り入れば、復讐の足がかりになるだろうと。……ですが」
リアムは一歩近づき、私の手を取った。
その手は、震えていた。
「彼女は、無自覚に王子にも『魅了』の魔法をかけていました。……王子は魔力が強かったので、最初はそれを拒もうとしました。そして実際、魔法はかからなかったのです」
「……え?」
「魔法を弾いた王子は、『なんだ、下らない』と嘲笑おうとしました。……けれど」
リアムは苦笑した。それは、過去の自分への愛おしさと、降伏の表情だった。
「魔法を弾いた後も、胸の高鳴りは消えなかった。彼女を目で追うのをやめられなかった。……その時、王子は気づいてしまったのです」
「……気づいた?」
「ええ。『ああ、これは魔法じゃない。僕自身の心が、どうしようもなく彼女に恋をしてしまったのだ』と」
魔法がかからなかったからこそ、証明された本心。
不純物が一切ない、純度100%の恋心。
彼は、魔法なんて関係なく、ただの私を見てくれていたのだ。
「それ以来、王子の望みは『復讐』ではなくなりました。『この人を守りたい』。『この人の笑顔が見たい』。……『この人に、失われた私の国の全てを捧げたい』」
リアムは、私の手の甲に、恭しく口づけを落とした。
それは従者の礼ではなく、騎士が姫に捧げる、忠誠と求愛の儀式だった。
「ここは、旧ロザリア公国。……私の、故郷です」
「ロザリア……。じゃあ、あなたは……」
「はい。私はロザリアの正統なる後継者。……そして、あなたの永遠の従者です」
彼は顔を上げ、紫色の瞳で真っ直ぐに私を射抜いた。
「この地下宮殿は、かつての王たちが愛した場所。……そして今、私があなたのために蘇らせた、あなただけの城です」
「エリザベート様。……どうか、ここをあなたの新しい居場所にしていただけませんか? 王国があなたを捨てたというのなら、私が、私の国の全てを懸けて、あなたを女王としてお迎えします」
それは、プロポーズだった。
国一つをプレゼントするという、あまりにも重く、壮大な求愛。
私は言葉を失った。
ただの従者だと思っていた。
弟のように可愛い存在だと思っていた。
けれど、彼は最初から、私なんかよりもずっと高貴で、ずっと強い覚悟を持って、私のそばにいてくれたのだ。
私のために、復讐すら捨てて。
「……馬鹿ね」
私は涙声で呟いた。
「そんな……国一つなんて、重すぎるわよ……」
「重いですか?」
「ええ、重いわ。……でも」
私は泣き笑いのような表情で、彼の手を握り返した。
「……嫌いじゃないわ。その重さ」
リアムが、パァッと花が咲くように笑った。
それは、10年前、パンを分け与えた時に少年が見せた、あの無垢な笑顔と同じだった。
地下に眠る亡国の記憶の間で、二人の新しい歴史が、静かに動き出そうとしていた。




