第2話 地下宮殿と甘い目覚め
目覚めた時、最初に感じたのは「柔らかさ」だった。
背中を包み込む羽毛のような感触。頬を撫でる上質なシルクの肌触り。
そして、鼻腔をくすぐる甘い花の香り。
戦場の土埃や、鉄の錆びた臭いとは無縁の世界。
(……ここは?)
私は重い瞼をゆっくりと持ち上げた。
視界に飛び込んできたのは、見覚えのない天井だった。
高いドーム状の天井には、星空を模したような美しいフレスコ画が描かれている。
窓はないはずなのに、部屋全体が柔らかな光で満たされていた。
魔法の照明だろうか。眩しすぎず、暗すぎず、心地よい明るさだ。
「お目覚めですか、お嬢様」
聞き慣れた、そして何よりも安心する声。
首を巡らせると、ベッドサイドにリアムが座っていた。
彼は慌てて手元の手帳を閉じ、背後に隠した。
いつものように穏やかに微笑んでいるが、少しだけ耳が赤い気がする。
「……何をしていたの?」
「い、いえ。執務日誌をつけていただけですよ。……お嬢様の寝顔があまりにも可愛らしかったので、その記録を……コホン」
彼は咳払いをして誤魔化した。
真面目な彼のことだ、私の体調記録でもつけていたのだろう。
「リアム……? ここは……?」
「私の隠れ家ですよ。……いえ、これからは『私たちの城』と呼ぶべきでしょうか」
リアムは立ち上がり、サイドテーブルから水差しを取った。
私は体を起こそうとして、自分の体の異変に気づいた。
軽い。
まるで背中に羽が生えたように体が軽いのだ。
戦場帰りの鉛のような疲労も、古傷の鈍い痛みも、婚約破棄された時の胸のつかえさえも、嘘のように消え失せている。
その代わりに、体の奥底から、温かくて力強い「熱」が溢れてくるような感覚があった。
指先まで力が満ちているのがわかる。
「私、どれくらい眠っていたの?」
「丸三日です」
「三日!?」
私は驚愕に目を見開いた。
「そんなに……! どうして起こしてくれなかったの?」
「旅の疲れを癒やすには、深い眠りが必要でしたから。……それに、移動の辛さをあなたに味わわせたくなかった」
リアムはグラスを差し出しながら、悪びれもせずに言った。
「その間、私がずっと付きっきりで魔力を――生命力を分け与えていました。おかげで、あなたの体は今、全盛期以上に活性化していますよ」
「魔力を……?」
私は自分の手を見つめた。
血管の中を、自分のものではない熱い血が巡っているような感覚。
そして何より、目の前にいるリアムを見ると、胸の奥がキュンと締め付けられるような、甘い切なさを感じるのだ。
心臓が、トクン、トクンと、彼のリズムに合わせて脈打っている気がする。
「……変ね」
私は頬が熱くなるのを感じて、俯いた。
「体が元気になったのはわかるわ。でも、心が……変なの」
「変、とは?」
「なぜかしら、リアムあなたがとても……その、愛おしく感じてしまったの」
私は上目遣いでリアムを見た。
視界が潤んで、彼が少しぼやけて見える。
リアムの動きが一瞬止まった。
彼はグラスを持つ手に力を込め、喉仏をゴクリと動かした。
何かを必死に堪えるように、短く息を吐く。
「……それは光栄です。私の魔力が、あなたの魂に馴染んだ証拠ですね」
「魔力のせいなの?」
「ええ。今のあなたは、私の魔力で満たされていますから。……私の一部になったようなものです」
リアムは妖艶に目を細めた。
その言葉に、背筋がゾクゾクと震えた。
怖いような、でも嬉しいような、甘い痺れが全身を駆け巡る。
ふと、不安がよぎった。
これは、私の本心なのだろうか?
それとも、魔力によって強制された感情なのだろうか?
「……ねえ、リアム。これって、洗脳じゃないわよね?」
「まさか」
リアムは即座に否定した。
「魔力はあくまで『繋がり』を強めるだけです。元々ない感情を作り出すことはできません。……あなたが私を愛おしいと感じたなら、それはあなた自身の心が、素直になっただけですよ」
彼は優しく微笑んだ。
その瞳に嘘はないと、私の本能が告げていた。
そうか。私は、彼を……。
その時だった。
扉がノックされ、低い男の声が響いた。
「失礼します。ご報告が」
「入れ」
リアムの声色が、瞬時に冷徹なものに変わった。
扉が開き、一人の兵士が入ってきた。レジスタンスの制服を着ている。
見慣れない顔だ。新入りだろうか。
「申し上げます。地上の方で、王国の捜索隊と思われる動きが……」
兵士は恭しく頭を下げながら、ゆっくりとベッドに近づいてくる。
私は緊張に身を硬くした。
(王国の追手……! もうここまで?)
シーツを握りしめる手に力が入る。
ここがバレたら、リアムにも迷惑がかかる。
だが、リアムは動じなかった。
彼はグラスをサイドテーブルに置くと、退屈そうに兵士を見下ろした。
「……おや。私の部下は、そんなお粗末な敬礼はしませんよ」
「え?」
兵士が顔を上げた瞬間。
リアムが指をパチンと鳴らした。
ズンッ!
見えない重力が部屋を支配したかのように、兵士の体が床に叩きつけられた。
「ぐあぁっ!?」
「変装魔法ですね。……どこのネズミですか? お嬢様の目覚めを邪魔した罪は重いですよ」
リアムの瞳が、凍てつくような紫色に輝いている。
床に這いつくばる兵士の姿が揺らぎ、見知らぬ男の姿に変わった。帝国の密偵だ。
新入りの志願兵に紛れ込んでいたのだろうか。
「な、なぜバレた……!」
「匂いです。あなたからは、ドブネズミのような悪意の匂いがする」
「王国の捜索隊というのは……?」
「ハッタリでしょう。私を動揺させるためのね」
リアムは冷酷に言い放つと、再び指を振った。
男の姿が影の中に飲み込まれ、悲鳴と共に消え失せた。
一瞬の出来事だった。
魔法の詠唱すらしていない。ただ指を振っただけで、人を消し去ってしまった。
「リ、リアム……?」
私は呆然と呟いた。
今の冷酷な男は、本当に私の知る可愛い従者なのだろうか。
背筋に冷たいものが走る。
しかし、振り返ったリアムの顔には、いつもの穏やかな笑みが戻っていた。
「お見苦しいところを。すぐに片付けましたから、ご安心ください」
「い、今のは……魔法?」
「ええ。少しばかり得意なんです。……さて、邪魔者も消えましたし、大事な話をしましょうか」
リアムはベッドの縁に腰掛け、私の手を取った。
その手は温かく、先ほどの冷酷さが嘘のようだ。
「お嬢様。あなたはご自身の『魅了』の魔法を、制御できるようにならなければなりません」
「制御……?」
「はい。今のままでは、無差別に周囲を不快にさせるだけです。……ですが、正しく使えば、それは最強の武器になる」
彼は私の指先に口づけを落とした。
唇の感触に、指先が跳ねる。
「私が練習台になります。……さあ、私を誘惑してみてください。意識的に、あなたの魅力をぶつけてみるのです」
「ええっ!? そ、そんなこと……!」
「できますよ。今のあなたは、私の魔力で満たされている。……私を『落とす』つもりで、やってみてください」
リアムの瞳は真剣だった。
冗談やからかいで言っているのではない。それがわかるからこそ、私の心臓は早鐘を打ち始めた。
(誘惑なんて、したことないわよ……!)
顔が熱い。耳まで真っ赤になっているのが自分でもわかる。
でも、不思議だった。
恥ずかしいという気持ちと同じくらい、「やってみたい」という衝動が体の奥底から湧き上がってくるのだ。
これはリアムの魔力の影響なのだろうか。それとも、私自身の……。
私は一度だけ深く息を吸い込み、覚悟を決めた。
目の前にいるのは、私の可愛い従者。
でも今は、一人の「男の人」として、私を見つめている。
(……落とすつもりで、か)
私は震える指先を伸ばし、リアムのシャツの袖をそっと掴んだ。
それだけで、指先からビリビリとした痺れが伝わってくる。
彼の体温。彼の匂い。
その全てが、今の私には甘い毒のように感じられた。
私はゆっくりと顔を上げた。
視線を、彼の形の良い唇から、鼻筋、そして紫色の瞳へと這わせていく。
意識したのは、瞬きをゆっくりにすること。そして、唇を少しだけ湿らせること。
誰に教わったわけでもない。ただ、本能が「こうすればいい」と囁いているようだった。
「……リアム」
名前を呼ぶ声が、自分でも驚くほど甘く、掠れていた。
私は掴んだ袖を、くい、と弱々しく引いた。
逃げないで。私を見て。私だけを見て。
そんな、言葉にできない想いを、魔力に乗せて彼にぶつける。
「……どうかしら、そのぉ、うまくあなたを魅了することできたのかしら?」
吐息混じりの声が、静かな寝室に溶けていく。
私は上目遣いで彼の反応を待った。
心臓がうるさい。破裂しそうだ。
けれど、リアムは何も言わなかった。
ただ、石像のように固まって、私を見つめているだけだ。
その瞳の色が、一瞬だけ濃く、暗く沈んだように見えたのは気のせいだろうか。
(……だめ、だったのかしら?)
(怒っているの? それとも、呆れている?)
沈黙が怖い。
私は焦燥感に駆られ、掴んでいた彼の袖をさらに強く握りしめた。
もっと、伝えなきゃ。
私の気持ちを。覚悟を。
今の私なら、彼のすべてを受け入れられる気がするから。
私はもう一歩、彼に身を寄せた。
吐息がかかるほどの距離で、彼の瞳を覗き込む。
「リアム、あなたは私をどうしたいと思っていらっしゃるの?」
彼の肩が、びくりと震えた。
でも私は止まらない。言葉が、熱を持って溢れ出してくる。
「大丈夫です。……わたくし、あなたのすべてを受け止めますから」
その瞬間。
リアムが、ガタリと音を立てて顔を背けた。
耳まで真っ赤になっているのが見て取れる。
彼は口元を手で覆い、苦しげに呻いた。
「……っ、はぁ……」
「リ、リアム?」
「……エリザベート様。今日は、ここまでにしましょう」
リアムは顔を背けたまま、絞り出すような声で言った。
「え? でも、まだ……」
「制御はされていませんでしたが……私でも、抵抗し続けることが難しいくらいの強度でした」
「え……?」
「これ以上は、私の身が持ちません」
彼はようやく私の方を向いたが、その瞳は熱っぽく潤み、どこか切羽詰まった色を帯びていた。
いつもの余裕たっぷりの従者の顔ではない。
一人の「男」の顔が、そこにあった。
「……続きは、また明日にしましょう。お休みください、私の女王」
彼は逃げるように立ち上がり、足早に部屋を出て行った。
バタン、と扉が閉まる音が響く。
残された私は、呆然と扉を見つめていた。
心臓が、さっきとは違うリズムで高鳴っている。
(抵抗するのが難しい、って……)
(それって、少しはドキドキしてくれたってこと……?)
自分の放った言葉と、リアムの反応を反芻して、私は遅れて顔を沸騰させた。
地下宮殿の寝室で、甘く危険な生活は、まだ始まったばかりだった。




