第16話 祖国の危機と皇帝の提案
「……王国が、攻め込まれた?」
早朝の執務室に、衝撃的な報告が飛び込んできた。
ガルディア帝国が、私の祖国――サンクチュアリ王国への本格侵攻を開始したというのだ。
理由は「セレスティア嬢をたぶらかし、反乱を扇動した罪」。
もちろん言いがかりだ。だが、腐敗しきった王国軍に、帝国の精鋭を防ぐ力はない。
「滅びるわ。……時間の問題よ」
私は震える声で呟いた。
裏切られた国。私を捨てた国。
それでも、そこには私の家族が、友人が、罪のない民たちがいる。
彼らが戦火に焼かれるのを、ただ見ていることなんてできない。
「陛下! 帝国の使者が……いえ、皇帝陛下ご自身が到着されました!」
近衛兵の悲鳴のような報告。
リアムは眉一つ動かさず、「通せ」と命じた。
その横顔は、冷徹な王のものだった。
現れたのは、威圧感の塊のような男だった。
ガルディア皇帝。
彼が歩くだけで、空気が重く沈み込むような錯覚を覚える。
彼はリアムと対峙し、単刀直入に切り出した。
「単刀直入に言おう。……我々と手を組まないか?」
皇帝の提案は、残酷なほど合理的だった。
ロザリアの独立を認める。不可侵条約も結ぶ。
その代わり――サンクチュアリ王国への侵攻を黙認しろ、と。
「誤解しないでほしいが、余は無益な争いを好まぬ。できれば平和に治めたいのだ」
皇帝は芝居がかった仕草で肩を竦めた。
その瞳は笑っていない。獲物を追い詰める猛禽類の目だ。
「だが、かの国は信義に反する行いをした。……10年前、同盟国を見捨てたようにな。そのような不義の国は、正しく裁かれるべきだとは思わんか?」
皇帝はニヤリと笑った。
かつて王国がロザリアを見捨てた事実を持ち出し、私たちの復讐心を煽ろうとしているのだ。
「君たちも被害者だろう? 復讐の機会を与えてやろう」と。
甘い毒のような囁き。
私は拳を握りしめた。
リアムを見つめる。彼は、王として、国益のためにこの提案を受けるべきだ。
わかっている。わかっているけれど……。
私の心は、「助けたい」と叫んでいた。
「……良き提案です」
リアムが静かに答えた。
心臓が凍りついた。
彼は、王国を見捨てるの? 私の故郷を?
「ですが、一つだけ条件があります」
「ほう?」
「妻が……エリザベートが、実家に里帰りするのを黙認していただきたい」
「……里帰り?」
「ええ。彼女はヴァイセン公爵家の令嬢です。実家が戦火に巻き込まれるとなれば、心配で居ても立ってもいられないでしょう。……夫として、妻の里帰りを止める権利はありませんから」
リアムは涼しい顔で嘯いた。
その瞳が、一瞬だけ私を見て、悪戯っぽく瞬いた。
(……そういうこと!)
私は息を呑んだ。
彼は、国交を保ちつつ、私を「個人の資格」で送り出そうとしているのだ。
皇帝は目を細め、私とリアムを交互に見た。
張り詰めた沈黙。
やがて、彼は愉快そうに笑った。
「……なるほど。公爵令嬢としての私的な行動なら、ロザリアという国は関知しない、ということか」
「ご賢察の通りです」
「よかろう。……精々、親孝行をしてくるがいい」
皇帝は踵を返した。
交渉成立だ。
私はへなへなと座り込みそうになるのを、必死で堪えた。
「……リアム」
「行ってらっしゃい、お嬢様。……いいえ、エリザベート」
彼が私の手を取り、強く握りしめた。
その手は温かく、震えていた私の心を包み込んでくれる。
「あなたの剣で、あなたの誇りを取り戻してきなさい。……物資と人員は、裏ルートで送ります」
「ありがとう……! 必ず、帰ってくるわ」
「あ、私も行きますよー!」
ひょっこりと顔を出したのは、白魔道士のローブを着たシルヴィアだった。
彼女は大きなリュックを背負い、遠足に行くような軽装だ。
「お義姉様の里帰りに付いていきます! 観光気分で!」
「シルヴィア……」
「兄貴から厳命されてるのよ。『傷一つつけたら承知しない』って。……だから、背中は任せて」
彼女はニカッと笑い、杖を掲げた。
頼もしすぎる義妹だ。
彼女がいれば、百人力だわ。
*
数日後。
私たちはヴァイセン公爵領の最前線にいた。
王都はすでに包囲され、公爵領だけが孤立無援で抵抗を続けている。
焼け焦げた大地。黒煙を上げる砦。
かつての美しい故郷は、見る影もなかった。
「……よく戻った、エリザベート」
陣幕の中で、父――ヴァイセン公爵が私を迎えた。
厳格で、無口な父。
婚約破棄された時も、何も言わずに私を送り出した父。
その顔には、深い皺が刻まれていた。
「お父様。……勝手な真似をして、申し訳ありません」
「謝る必要はない。……お前は、自分の道を選んだのだから」
父は私の腰にある双剣と、隣にいるシルヴィアを見て、微かに目を細めた。
「あの少年は……リアム王は、息災か?」
「ええ。……立派な王になりました」
「そうか」
父は安堵したように息を吐いた。
そして、驚くべきことを口にした。
「……賭けに勝ったな」
「え?」
「10年前。お前があの少年を拾いたいと言った時、私は反対しなかった。……いや、そうするように仕向けた」
「……どういうこと?」
「私は、お前を避けていた。……冷たい父親だと思っただろう」
父は苦しげに顔を歪めた。
その瞳には、後悔と、深い愛情が宿っていた。
「お前の『魅了』の魔法に、気づいていたからだ」
「えっ……」
「そばにいればいるほど、魔力の影響で、お前に対して生理的な嫌悪感が募っていくのがわかった。……怖かったのだ。いつか、愛する娘を憎んでしまう日が来るのが」
父の声が震えていた。
彼は、私を嫌っていたわけじゃなかった。
私への愛を守るために、必死で距離を置いていたのだ。
孤独に耐え、誤解されることを選んでまで。
「だが、あの少年は違った。底知れない魔力を持っていた。……あやつなら、お前の魔法に影響されず、ずっとそばにいてやれるかもしれないと」
父は遠くを見るような目をした。
「私にはできない『そばにいて守る』という役目を、彼に託したのだ。……賭けは、私の勝ちだな」
私は言葉を失った。
あの出会いは、偶然じゃなかった。
父が、不器用な愛で、私の未来をリアムに託してくれていたのだ。
ずっと、愛されていた。
その事実に、涙が溢れて止まらなかった。
「……お父様」
視界が滲む。
私は涙を拭い、顔を上げた。
「ええ。彼は私を守ってくれました。……だから今度は、私が彼と共に、この地を守ります」
「……うむ。頼んだぞ、我が娘よ」
父の手が、私の肩に置かれた。
その重みは、かつて感じたどんな重圧よりも、温かく、そして誇らしかった。
「へえ〜、いい話ですね〜」
そこで、空気を読まない声が響いた。
シルヴィアだ。彼女はニヤニヤしながら、父と私を交互に見ていた。
「でもさ、お兄様も大概よね」
「え?」
「『俺が公爵家に受け入れられているのは、やはり俺が品行方正な男だからだろうな』って、ドヤ顔で日記に書いてたわよ」
「……ぶっ」
父が吹き出した。
厳格な父が、肩を震わせて笑っている。
「……違いない。あやつは、そういう男だ」
「もう、リアムったら……」
私も堪えきれずに笑ってしまった。
湿っぽい空気は吹き飛んだ。
ここにはもう、悲劇のヒロインも、孤独な父親もいない。
ただ、愛すべき家族がいるだけだ。
「総員、戦闘配置! ヴァイセンの誇りを見せてやるのよ!」
私の号令と共に、公爵領軍が鬨の声を上げた。
ロザリアの女王としてではなく、一人の娘として。
私は、私の大切な場所を守るために剣を抜いた。




