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第1話 婚約破棄と従者の正体

今回は、書きやすいキャラ がとても多かった

自分でも驚くほど筆が進みました!


キャラ同士が勝手に動いてくれるような感覚で、書いていて本当に楽しかったです。

読んでくださる皆さんにも、この楽しさが少しでも伝われば嬉しいです!

シャンデリアの光が、磨き上げられた床に突き刺さるように反射している。

王城の大広間は、むせ返るような香水の匂いと、数百人の貴族たちが発する熱気で満ちていた。

オーケストラが奏でるワルツの調べが、耳の奥で不快に反響する。

優雅な旋律のはずなのに、今の私には、まるで神経を逆撫でする不協和音のように聞こえた。


私は、グラスを持つ指先に力を込めた。

周囲の空気が、私を中心にして円を描くように遠ざかっているのがわかる。


「……おい、あれを見ろよ」

「ヴァイセン公爵令嬢だ。またあの格好か」

「恐ろしい。目が合っただけで、背筋が凍るようだ」


ひそひそとした声が、さざ波のように鼓膜を叩く。

扇子で口元を隠した令嬢たちの視線。侮蔑と、隠しきれない畏怖を含んだ男性たちの視線。

それらが、見えない矢となって私の全身を射抜いていた。


私は唇を噛み締め、視線を床に落とした。

漆黒の騎士服に包まれた自分の体。

銀の刺繍が施されたそれは、戦場では誇り高い正装だが、この煌びやかな舞踏会においては、あまりにも異質で、無骨だった。


(……泥の匂いがする気がする)


戦地から直行し、泥を落とすのが精一杯だった。

髪は乱れ、肌は荒れ、古傷がズキズキと痛む。

ドレスの一枚も着ていない婚約者を、アルフレッド殿下はどう思うだろうか。

胃の腑が冷たく重い鉛で満たされていくようだった。

帰りたい。

今すぐこの場から逃げ出して、冷たい夜風に当たりたい。

でも、それは許されない。今日は殿下の誕生祝賀会なのだから。


「お水をお持ちしました、お嬢様」


背後から、柔らかな声がかかった。

張り詰めていた糸が、ふっと緩むのを感じた。

振り返ると、夜の闇を切り取ったような黒髪の青年が立っていた。

リアム。私の従者。

彼は銀の盆に載せたグラスを差し出しながら、いつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべている。


「ありがとう、リアム」


グラスを受け取ると、冷たい水滴が指を濡らした。

一口飲むと、乾いた喉に冷水が染み渡り、少しだけ生き返った心地がした。

周囲の突き刺さるような視線の中で、彼だけが、凪いだ湖面のように静かだった。

その紫色の瞳に見つめられると、強張っていた肩の力が抜けていく。

彼がいる。それだけで、私はまだここに立っていられる。


「顔色が優れませんね。少し休まれますか?」

「いいえ、殿下がまだいらしていないもの。ご挨拶もしないで帰るわけにはいかないわ」


私は気丈に振る舞った。

でも、本当は足が震えていた。

リアムはそれに気づいているのかいないのか、何も言わずにただ傍にいてくれた。


その時、ファンファーレが高らかに鳴り響いた。

大広間の扉が大きく開かれ、儀礼官の声が響く。


「アルフレッド殿下の御成り!」


空気が一変した。

金髪の青年――アルフレッド殿下が現れる。

輝くような金髪に、碧眼。絵に描いたような王子様。

だが、その腕には、見知らぬ少女がしっかりと寄り添っていた。

ふわふわとしたピンク色の髪をした、小柄で可憐な少女。

私とは正反対の、守ってあげたくなるような存在。


心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。

殿下が壇上に立ち、私を見下ろす。その碧眼には、氷のような冷たさが宿っていた。

嫌な予感がする。

逃げたい。耳を塞ぎたい。

でも、体は金縛りにあったように動かなかった。


「エリザベート・フォン・ヴァイセン! 貴様との婚約を、今この時をもって破棄する!」


王子の声が、静まり返った広間に響き渡った。

時間が止まったようだった。

周囲の貴族たちが息を呑む音が聞こえる。

私の手から、グラスが滑り落ちそうになる。それを、リアムの手が下からそっと支えた。

彼の手の温もりが、冷え切った指先に伝わる。

それがなければ、私はその場に崩れ落ちていたかもしれない。


「理由はわかるな? 貴様には華がない。可愛げもない。ただ剣を振り回すだけの野蛮な女だ!」


殿下の言葉が、鋭利な刃物となって胸を抉る。

華がない。可愛げがない。野蛮。

わかっていたことだ。何度も自分に言い聞かせてきたことだ。

でも、面と向かって、しかもこんな大勢の前で言われると、心が砕け散る音がした。


「それに比べて、このミナは素晴らしい。優しく、可憐で、私の心を癒やしてくれる。貴様のような『鉄の女』とは大違いだ!」


隣の少女――ミナが、扇子で口元を隠しながら、勝ち誇ったように目を細めたのが見えた。

その瞳は笑っていた。

「ざまあみろ」と言っているようだった。


「……承知いたしました、殿下。今までお世話になりました」


喉の奥が張り付き、声が掠れそうになるのを必死で堪えた。

これ以上、惨めな姿は見せられない。

泣いて縋ることも、怒鳴り散らすこともできたかもしれない。

でも、私には騎士としての誇りがあった。

最後の矜持だけは、守りたかった。


私は深く頭を下げ、踵を返した。

足が鉛のように重い。視界の端が滲み、シャンデリアの光が乱反射して見えた。

背中に浴びる嘲笑と、同情の視線。

一秒でも早く、ここから消え去りたかった。


「行きましょう、お嬢様」


リアムが、私の隣に並んだ。

彼は何も言わず、ただ私の歩幅に合わせて歩いてくれる。

その足音だけが、今の私にとっての救いだった。


*


大広間を出て、長い回廊を歩いていた時だった。

背後から、金属が擦れる荒々しい音が近づいてきた。


「待て! ヴァイセン公爵令嬢!」


振り返ると、数名の近衛騎士たちが立ちはだかっていた。

彼らの手は、すでに剣の柄にかかっている。

王子の取り巻きたちだ。普段から私を目の敵にしている連中。


「殿下の御前で、あの態度はなんだ! 不敬であろう!」

「謝罪しろ! さもなくば……」


殺気。

肌が粟立つ感覚。

私は反射的に腰の剣に手をかけた。

戦う? ここで?

いや、そんなことをすれば、公爵家に迷惑がかかる。

でも、彼らは本気だ。私を傷つけるつもりだ。


私は一歩前に出た。

リアムを守らなければ。

振り返り、彼にパチリとウインクを送る。

震える唇を無理やり上げて、余裕のある笑みを作る。


「大丈夫よ、リアム。私に任せて」


いつものように。

私が盾になればいい。私が傷つけばいい。

そうすれば、全て丸く収まる。


だが。


「お嬢様」

「え?」

「その綺麗な手を、こんなゴミ掃除で汚す必要はありませんよ」


リアムの手が、私の肩を掴んだ。

優しく、けれど抗えない力で、私は彼の背後へと引き寄せられた。

耳元で甘い声が響いたかと思うと、彼が私の視界を遮るように前に出た。


ドサッ、ドサッ。


鈍い音が響いた。

え?

私が瞬きをする間に、騎士たちが床に崩れ落ちていた。

まるで糸の切れた人形のように、白目を剥いて泡を吹いている。


「え……?」


私は目を丸くした。

リアムは指一本動かしていないように見えた。ただ、彼らを見ただけだ。

それなのに、屈強な騎士たちが一瞬で意識を失っている。

何が起きたの? 魔法? それとも……?


「リ、リアム? 一体何をしたの……?」

「いえ? 彼らが勝手に転んだようですね」

「そんなわけないでしょう!?」

「あるいは、日頃の不摂生が祟ったのかもしれません。……さあ、行きましょう」


リアムは何事もなかったかのように微笑み、私の手を取って歩き出した。

その手は大きく、温かく、微塵の震えもなかった。

私は倒れた騎士たちを振り返りながら、狐につままれたような心地で彼に従うしかなかった。

(気絶……? まさか、殺気だけで? でも、リアムにそんな力が……?)


*


王城を出て、迎えの馬車に乗り込んだ瞬間、張り詰めていた糸が切れた。

私はシートに深く沈み込み、両手で顔を覆った。

指の隙間から、熱い雫が溢れ出してくる。

止まらない。

悔しさも、悲しみも、安堵も、全てが涙となって流れ落ちていく。


馬車が動き出す。

石畳を叩く蹄の音が、静かな車内に響く。

窓の外を、王都の灯りが流れていく。

遠ざかっていく。私の居場所だった場所が。私が守ろうとした国が。


「……笑えるわね」

「お嬢様?」

「可愛げがない、か。……わかっていたけれど、面と向かって言われると堪えるわ」


声が震える。

リアムは向かいの席から、静かに私を見つめていた。

慰めの言葉なんていらない。今はただ、放っておいてほしかった。

でも、彼は口を開いた。


「お嬢様。一つ、お伝えしなければならないことがあります」

「……慰めならいらないわよ、リアム」

「慰めではありません。事実です。……あなたが周囲から恐れられ、疎まれている本当の理由をご存知ですか?」


私は顔を上げた。涙で濡れた視界に、彼の真剣な表情が映る。

その瞳には、嘘偽りのない光が宿っていた。


「あなたは無意識に魔法を使っているのです。『魅了』の魔法を」

「……は?」

「例えば、先程のウインクです」

リアムは楽しげに目を細めた。

「『私に任せて』と仰った時、あなたは無自覚に強力な魅了を放っていました。相手を安心させ、自分に依存させるための精神干渉を」


「う、嘘よ! あれはただの合図で……!」

「ええ、意識の上ではそうでしょう。ですが、制御できていない魔力は垂れ流しです。その過剰な干渉が、周囲の人間――特に魔力抵抗の低い男性たちに、本能的な恐怖と生理的な嫌悪感を与えているのです」


頭を殴られたような衝撃だった。

私が、魔法を?

私が剣を振るうたび、誰かを不快にさせていた?

殿下が私を嫌ったのは、私の性格のせいだけじゃなく、私が撒き散らした毒のせい?


「そんな……」


血の気が引いていくのがわかる。指先が冷たくなる。

自分の存在そのものが、周囲を傷つけていたなんて。

それは、「可愛くない」と言われるよりも遥かに残酷な真実だった。


「じゃあ、私は……誰からも愛されることはないの? 誰からも、嫌われて……」


絶望に染まる私の瞳を、リアムは真っ直ぐに見つめ返した。

そして、ふわりと微笑んだ。

それは従者の仮面を少しだけ外した、妖艶で、どこか危うい笑みだった。


「いいえ。一人だけ、例外がいます」


リアムがそっと手を伸ばし、私の震える手に触れた。

その熱だけが、今の私を繋ぎ止める唯一の現実だった。


「僕には効きません。あなたの魔法も、その副作用も」

「……え?」

「僕だけが、魔法というフィルターを通さずに、ありのままのあなたを見ている。……あなたがどれだけ美しく、気高く、可愛い人かを知っているのは、世界で僕だけです」


リアムの手が、私の手を強く握りしめた。

その熱が、冷え切った私の心にじわりと染み込んでいく。


「ただ、これだけは真実です。……僕だけは、いつだってあなたの味方です。世界中があなたを否定しても、僕だけはあなたを必要としています」


「リアム……」


涙が溢れて、彼の顔が滲む。

私は縋るように彼の手を握り返した。

彼だけだ。

世界中でたった一人、彼だけが私を受け入れてくれる。


「ありがとう。……でも、そんな物好きな男性、世界中探してもあなたくらいよ」

「いえ、いますよ。私はそういう男性を知っています」

「まぁ、誰かしら?」

「灯台下暗し、と言いますからね」


リアムの意味深な言葉に、私は首を傾げた。

ふと、窓の外の闇を見つめる。

もう、何もかも忘れてしまいたい。

このまま、どこか遠くへ行ってしまいたい。


「そうね……。もし本当にそんな人がいるなら、その方が私をどこか夢の国にでもさらってくれればいいのに。もう、何もかも忘れてしまえるような場所に」


それは、疲れ切った心が漏らした、ほんの些細な願望だった。

叶うはずのない、お伽噺への逃避。


だが。


「――承知いたしました」


リアムの声が、深く響いた。

まるで、主君からの絶対的な命令を受諾するかのように。


「え?」

「お望みとあらば、どこへでも」


「だから、今は少しお休みください。……目が覚めたら、きっと新しい世界が待っていますから」


その言葉は、甘いシロップのように耳に溶けていった。

リアムの手の温もりに包まれていると、急激な眠気が襲ってくる。

瞼が重い。

意識が泥のように沈んでいく。


(私は、疲れていたのだろう……)


いつしか、私は安心して眠りに落ちていた。

リアムの隣なら大丈夫だという、絶対的な信頼に身を委ねて。


目を覚ますと、そこは夢の国――なんてことが、本当にあるのだろうか。

もしあるのなら、そこにはきっと、優しい王子様が待っていて……。


馬車は闇夜を切り裂き、公爵邸への道を外れ、深い森の奥へと向かって走っていく。

その行き先を知っているのは、御者台に座る男と、愛しい主を腕の中に抱きしめたリアムだけだった。

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