4.執着と復讐
翌週、月曜日から3日間だけ夏休みを取り、木曜日に出勤すると職場の空気が少し張り詰めていた。
「おはようございます。」
「あ、ああ。はい。おはようございます。」
美香も少し緊張している。鈴木くんも緊張した面持ちで近づいて来た。
「おはようございます。先ほど国土交通省の人事課長からお電話がありました。折り返して欲しいそうです。」
「ああ、ありがとう。」
こんな早い時間に珍しいなと思いながら、僕はすぐに人事課長あてに電話を折り返すと、ワンコールで電話がつながった。
「おはようございます。矢島です。」
「ちょっと困ったことがあったんだけどね。実は知事の秘書から君にも関係する通報が匿名で届いたと連絡があったんだ。それで調べてみたら本省宛にも似たような文書がファクシミリで届いててね。」
「えっ?どんな内容なんですか?」
「何通か来てるんだけど、君が職場でセクハラ、パワハラをしてるとか、既婚者の山本さんという人と不倫をしているとか、そのための費用を大手通信業者に肩代わりさせてるとかそういう内容だな・・・。」
「いえ、そんなことはまったくありません。事実無根です!!」
「まあそうだとは思うけどな。だけど知事はこういう通報をされること自体を気にされている。来年は選挙もあるしな。何か心当たりはないのか?」
心当たりはある。もちろん通報したのは那波だろう。だが那波との関係を人事課長に説明したら誤解を招くかもしれない・・・。
「いえ・・・ありません。」
「わかった。本省の方に届いたファクシミリは怪文書扱いでいいと思うが、県の方には正式に通報がなされているみたいだから、この後事情を聞かれると思う。大事にならないようすぐに火消しをするんだぞ!その手腕も問われてるからな。」
「はい・・・。」
覚悟はしていたが、いよいよ那波の攻撃が始まったか。
ただ特に後ろ暗いところはないし、ちゃんと説明すればわかってもらえるはずだ。
「矢島さん、部長がお呼びです。会議室へ行っていただけますでしょうか。」
電話を切るなり今度は部長に呼ばれた。おそらく通報の件だろう。あらかじめ人事課長から話を聞いておいてよかったと思いながら、心配そうな顔の鈴木くんにお礼を言って会議室へ向かった。
「すまないね、矢島さん。もしかしてもう聞いているかもしれないけど、矢島さんに関係した通報があってね。事情を聞かせてもらいたいんだ。」
50代後半くらいの部長は、いつもは温厚で好々爺といった感じだが、今日は少し表情が厳しく声も硬い。明らかに困惑しているようだ。
「はい。どのような通報があったのでしょうか。」
「うん・・・ちょっと言いにくい話なんだけどね・・・。その・・・君が山本さんと不倫をしてて・・・、それでその費用を業者から受け取っているっていう・・・。」
「もちろんそんなことはありません。山本さんとは実家が近所で小さい頃から知っていますので、そんな関係になることはありません。」
「うん・・・。実は山本さんにもそう聞いたんだけどね・・・。ただ、最近、退庁する時に、いつも山本さんと一緒に帰ってるような気がするんだけど・・・。」
「あれは・・・。」
「それにそれぞれ日付は違うんだけど、山本さんと一緒にタクシーに乗り込んでいる写真データも何通も送られてきていて。君は確か歩いてすぐの官舎に住んでたよね。」
なるほど。那波を避けるために美香に助けてもらったことが裏目に出たか。そうだったら部長には正直に話すしかない。
「誤解を与えてすみません。実は・・・。」
僕は部長には事実を話した。中学の同級生の那波から、こちらに来た際に誘われて何度食事に行ったが、その後しつこく付きまとわれて県庁の前でも待ち伏せされたりしたため、美香に助けてもらったことを。ただ、那波が県知事になろうとしており、その協力を求められたことは黙っておいた。
「なるほど・・・あの那波さんか・・・。そうだとすれば腑に落ちるが、これからが大変だな。那波さんは同じ手口で上司や同僚を何人も潰してきてるからな・・・。」
「明らかに濫用的な通報ですけど、なんとかならないんですか?」
「う~ん・・・。一応、内部通報という形を取っているから、内部通報要綱の規定で通報を理由に処分したりすることはできないんだ。困ったな~。」
部長との話はこれで終わった。ただ、その後も那波からの通報は止まらず、毎日のようにあることないことが通報された。
『30歳そこそこのくせに中央官庁の威光で幹部用官舎に住んでふんぞり返っている』
『恋人に会うために公務と称して頻繁に東京に出張している』
『県民の個人情報を大手通信会社に渡して賄賂をもらっている』
どれも事実無根であり、部長には丁寧に説明すればわかってもらえたが、通報があるたびに事情聴取が行われるため仕事が進まない。
また、通報と前後して、同じ内容の中傷ビラが県庁の幹部宛に匿名で送られるようになり、僕に関する事実無根の通報はあっという間に県庁に広まった。
良識のある職員は黙殺していたようだが、中にはニヤつきながら「モテると色々大変だね~」なんて皮肉っぽく話しかけてくる職員もいた。
また、「火のないところに煙は立たないだろ。どうせ中央の役人なんてろくなもんじゃないんだよ!」なんて聞こえよがしに噂話をしている場面に出くわしたこともある。
もともと中央官庁から出向を受け入れることを面白く思っていない勢力がいることは知っていた。そういう人たちに格好の噂話の種を与えてしまったようだ。
しかも、通報やよくない噂はあっという間に面白おかしく拡散されるが、調査の結果、事実無根であったことは誰も広めてくれない。
そのため自然と僕への疑惑に関する噂だけが残ることとなり、毎日好奇の視線やヒソヒソ声の噂話に囲まれて針のムシロのようだった。
秋になり、残暑が落ち着いてきても通報やビラの勢いは止まらなかった。
この間、美香は別部署に異動になり、数少ない僕の味方もいなくなった。
また、ビラにとどまらずネットへも僕と絡めて勝田知事の政策を批判する内容の書き込みが始まり、それを取り上げたSNSのつぶやきが田舎の県にしては、そこそこにバズッた。
それが選挙が近い知事の逆鱗に触れてご機嫌も悪くなっている。
知事に案件の報告に行っても、そっけない態度であからさまに目をそらされるようになった。
「まだ対処できないのか?昨日知事から直接苦情の電話を受けたぞ!」
本省の人事課長からも毎日のように電話がくる。しかも、痺れを切らしたようでいつもイラついており、電話越しにプレッシャーを受けた僕の胃も痛くなる。
思い余って那波に電話して直接話をすることにした。いくら那波でも人の心があればちゃんと説明して、謝罪すればわかってくれるはずだ。そんな一縷の望みを持って・・・。
「あら珍しい。もしかして私を手伝う気になってくれたの?」
「違う・・・。中学の頃の話は謝るからもうやめてくれないか?」
「なんのこと~?」
「通報とか、ビラとかネットの書き込みとか・・・那波さんでしょ?」
そう伝えると、那波は「え~?」と言いながら電話口でケラケラ笑った。
「私がそれをやったって証拠があるのかな~?言いがかりはやめてよね。」
那波はそう言って一方的に電話を切った。
内部通報については、通報者保護のため誰が通報したのかは一切教えてもらえない。
ビラも匿名の郵便で送られてくる。
ネットへの書き込みについては、発信者情報開示を試みたが、巧みに名誉毀損等とならない表現となっており、裁判所に開示請求が認められることは難しいと弁護士に言われてしまった。
「何か打つ手はないものか・・・。」
そうつぶやきながら県庁に登庁すると、庁舎の前で複数人の男女がビラを配っていた。ぼんやり歩いていたので思わず受け取ってしまうと、そこにはこう記載されていた。
『糾弾せよ!! 勝田知事は中央省庁から送り込まれた官僚の言いなりになって県民の個人情報を大手事業者へ売り渡そうとしている!!』
とうとう那波がここまでやり始めたのか!一瞬そう思ってビラを配っている男女を振り返ったところ、左派候補を支援する労働組合系の政治団体の旗が立っており、どうやら那波のシンパではないらしい。
しかし、那波が拡散しているデマが左派系団体にも波及し始めていることも看過できない。何とかしないと・・・。
そう思いながら手元にある青みがかったビラに目を落とすと、あることに気づいた。もしかして・・・?
僕は自分のデスクに走ると、急いで引き出しから、以前部長のところに届いた中傷ビラを取り出した。
「やっぱり・・・。なんでこれまで気づかなかったんだ。」
部長のところに届いた紙は藁半紙が使われていた。那波が勤務する図書館で使っているものと同じだ。
これだけでは証拠としては弱いが、もし那波が職場の紙を中傷ビラに使うほど公私混同しているとすれば、他にも似たようなことをしているかもしれない。
僕は急いで本省の人事課で課長補佐をしている同期に電話した。
「もしもし?竹内?そっちにファクシミリで届いてる中傷ビラだけどさ?発信元はどこになってる?」
「ああ矢島か。話は聞いてるよ。大変だな。でもだいたいそういうのは発信元が表示されないようにしているか、又はコンビニとかから送信して出元がわからないようにしてると思うよ。さすがに自分を特定できる自宅とか職場から送ったりするバカはいないだろ。」
「まあ一応見てくれよ。敵は意外に脇が甘いかもしれない。」
「それじゃあ見てみるけど・・・ああやっぱり足がつかないように公共施設から送ってるみたいだよ。」
「そうか・・・。ごめん。ありがとう。」
「うん・・・どれも発信元『ケンリツトショカン』ってなってる。」
この県立図書館を発信元とするファクシミリと那波の出退勤記録から、那波が職場である県立図書館の複合機を使って国土交通省に中傷ビラを送信していたことが裏付けられた。
これを県庁の人事部に伝えたところ本腰を入れて調査をしてくれて、那波が職場の紙を使ってビラを印刷するだけではなく、公用切手を使って送付していた疑いが強いことも分かった。
これらの事実を突き付けられた那波は、あっさりと疑いを認めて依願退職した。その後、事実無根の通報や中傷ビラの送付はピタリと止まった。
やっと那波を撃退できたが、僕も無傷では済まなかった。
そもそも那波に付け入られる隙を作ったことが不注意であると本省の人事課長から叱責され、県知事からも県庁に混乱をもたらしたと責められ、任期途中で本省へ返されることになったのだ。
これで僕が生まれた県の県庁に戻れることは二度とないだろうし、本省での人事評価でも大きな減点となってしまった・・・。
もっとも悪いことばかりではない。
「昂輝が月曜の朝にうちから出勤してくれるなんて嬉しいな♡」
「はは・・・まあ結婚したらずっと同じ家から出勤することになるけどね。」
東京に戻ったことをきっかけに志乃とは完全に復縁できた。無事にプロポーズも成功し、春には結婚式を挙げる予定だ。
「あっ、待って。朝刊で開票結果を見ないと。」
昨日は出向していた県の県知事選の投開票日だ。勝田知事が当選確実であることは、昨日の速報で既に知っていたが僕の関心は別のところにあった。
「那波の得票数は5万2121票か。しかしよくあんなのに5万人以上も投票したな・・・。」
県知事選には、県庁を退職した那波も出馬していた。もちろん泡沫候補だし順当に落選したが、予想以上に票を集めていて驚いた。
「でも落選は落選だし、これで那波も現実を知って、人に迷惑をかけないように堅実に生きてくれればな・・・。」
そうつぶやいた僕はまだ気づいていなかった。僕のスマホに那波からメッセージが届いていたことを。
『思い切って立候補して良かった!今回は準備不足だったけどそれでも5万2121人が私の理想を支持してくれたんだよ。これも矢島君が後押ししてくれたおかげだね。次は当選できると思うから矢島君も協力してね。私だけ辞めさせて、自分だけ公務員を続けるなんて絶対許さないよ~。協力しないと私どうしちゃうかな~?』