3.もう一つの顔
その後、何度か那波と一緒に食事に行った。
また県庁で声を掛けられて食堂で一緒に昼食を食べることも何度かあった。
LINEでのメッセージも毎日何通も届く。
『次会えるの楽しみだな~』とか『次こそ二人だけでゆっくりお話ししたいね』などいかにも期待を持たせるメッセを読むと思わずニヤけてしまう。
一方で志乃との関係は微妙だ。たまに甘えたように電話をかけて来るかと思えば、しばらくはこちらにいると伝えると急に不機嫌になって連絡を絶たれたり・・・。やっぱり東京を離れたくない志乃との復縁は難しいかもしれない。
正直、今の那波の外見は僕のタイプだし、那波の積極的な好意に応えてもいいかも・・・と自分でも心が傾きかけていることを感じる。
でも、気になることもある。
那波は、いつもは朗らかで優し気だけど突然興奮して政策に関する持論をまくし立てたり、周囲に攻撃的になることがしばしばあった。また、県庁内で那波と一緒にいると、他の職員が明らかに避けようとしたり、こちらを見てヒソヒソと話している様子も見られるような・・・。
こういった違和感があったので、僕は那波への好意を感じながらも、関係を進めることには少しだけ慎重になっていた。
ーー
すっかり暑くなり、夏休みが待ち遠しくなったある日、僕は上機嫌だった。
出向元である本省の人事課長とリモートで面談したのだが、「勝田知事と話したんだけど、矢島くんの仕事ぶりをべた褒めだったよ。知事は私が新人ころの上司だったんだけど、仕事に厳しくて褒められることなんかなかったよ。矢島くんは期待されてるのかな」と言ってもらえたのだ。
「知事に気に入られれば、十年後には副知事、いや知事の後継者として戻って来られるかもしれないぞ・・・。」
そんな夢想をしながらデスクに戻ると、決裁箱に決裁用紙と2冊のファイルが入れてあった。
「今時、紙の決裁なんて珍しいな・・・。」
決裁用紙を見て、1冊目のファイルを読むとすぐに違和感に気づいた。
このファイルは決裁と関係ない。取り違えたのか・・・?
しかし、僕はそのファイルから目を離せなかった。そのファイルは那波の人事記録だったのだ。
『那波陽子 評価D』
『(上司評価1)協調性がなく指示通り仕事をしない。業務時間中に担当外の仕事について意見書を書いたり、勝手に本庁へ行ったりして担当の仕事をしない。注意すると反抗的な目でまくしたてるように非難してくる。また他の職員の仕事の進め方を批判するが、仕事を手伝うことはなく、むしろ周りに仕事を押し付けている。』
『(上司評価2)直属の上司に対して抗命し、しかも上司から指導を受けると揚げ足をとるような批判を繰り返している。まだ口頭での批判にとどまっているが、彼女には前歴もあり、直属の上司がいつ直接的な危害を加えられるのかと怯え精神的にまいっている。職場の和を乱す存在。』
ファイルのページをめくった。そこには異動前の部署やその前の部署での評価が記載されておりおおむね似たような評価だったが、初任部署での評価が特に目を引いた。
『(上司評価1)当初はメンターである先輩の指導を受けて熱心に仕事に取り組んでいたが、メンターと不倫関係になっていたことが明らかとなったため配置を変更したところ、上司に対して連日のように執拗に抗議を繰り返し業務に支障をきたすような状況になった。その後、パワハラ、セクハラを受けたと主張するようになり、人事部の調査の結果ハラスメントの事実が認められないと判断された後も、しつこく同じ主張を繰り返している。内部通報を理由に処分できないことに味をしめたのか、業務上の注意をすると、すぐに人事に通報する、内部通報すると上司を脅すようになった。他のメンバーも戦々恐々としている。早急な異動を望む。』
「う~ん・・・これは・・・。」
僕は嘆息しながらもう一冊のファイルを開くと、こちらは内部通報に基づく調査記録のようだった。
匿名で記載されていたが、おそらく那波であろう『通報者』が、初任部署の先輩であろう『被通報者』からセクハラを受けたと内部通報窓口に通報した事実が記載されていた。
通報を受けた人事部による調査では職場の関係者に対する聴取や職場メールでのやり取りなどを分析し、以下のとおり結論付けていた。
『通報者と被通報者が不倫関係にあった事実は認められるが、セクハラ又はパワハラと評価できる事実は認められなかった。
むしろ、通報者は被通報者が既婚者であることを認識しながら、通報者から被通報者に対して積極的に関係の進展を求めた事実が認められる。被通報者が安易に誘いに応じて不貞関係を結んだことは十分に非難されるべきであるが、これをもってハラスメントとまでは評価できない。』
またファイルにつづられた通報事案は、この1件にとどまらず、合計で18件もあった。
その内容はいずれも那波らしき『通報者』が内部通報窓口へ通報したもののようだ。その内容も、当時の上司や同僚がハラスメントを行っている、外部業者と癒着している、機密情報を漏洩しているといったものだったが、いずれも丁寧に調査されたうえで通報事実は認められないと結論づけられていた。
それにもかかわらず、那波は何度も同じ相手に対し手を変え品を変え、しつこく通報を繰り返している・・・・。
これらの調査結果を見るだけでも、那波が上司や同僚を攻撃する目的で、事実無根の通報を繰り返していたことは明らかだった。
「山本さん、ちょっといいですか。このファイル違うようなので・・・。」
「すみません。うっかりしていました。」
僕は美香に声を掛けて、決裁箱に入っていたファイルを手渡した。
美香はそのファイルの中身を確認することなく、またまったく慌てる様子も見せないまま僕からファイルを受け取り、すぐに別のファイルを手渡してきた。
あの態度を見ると、おそらく美香があえて僕があのファイルを見るように仕向けたのだろう。那波が僕に近づいていることに気づいて警告するため・・・?
さてどうするか・・・?
中学時代の僕だったら、美香に反発してあえて那波と距離を置かないという判断をしたかもしれない。
だけど、相応の社会人経験を経た今の僕にはわかる。いくら見た目が好みでも、僕の前では優しげでも、那波は絶対に関わってはいけないタイプだ。
周囲に強制されるまでもなく自分の意思で距離を置くべきことは明らかだ。
とりあえず僕は、来週末に那波と約束していた予定を仕事が忙しいからとキャンセルした。
那波からは『仕事が忙しいならしょうがないね。またご飯に行こうね。楽しみにしてるね。』と返信があったが、もう次の約束をするつもりはなかった。
『いつでも時間を合わせるよ』
『どんなに遅い時間でも大丈夫だよ』
『30分だけでもいいよ』
その後も那波からは何度もお誘いのメッセージが届いたが、僕は断り続けた。
そのうち携帯に電話がかかってくるようになったが電話には出ないようにした。
「矢島さん、県立図書館の那波さんからです・・・。」
職場で外線電話に出た鈴木君が緊張の面持ちで伝えてきた時、僕は一瞬沈黙してしまった。まさか職場の電話に私用で電話してくるとは・・・。
「先ほど矢島さんが会議に出ていた際も那波さんから何度も電話がありまして・・・。」
鈴木くんも困惑している。僕が電話に出るしかないか・・・。
その時、美香が「あっ、私が対応するから、私に回して。」と素早く引き取ってくれた。鈴木くんもホッとした様子で受話器を置いた。
「はい。お電話変わりました、山本と申します。矢島は手が離せないので私が代わりに用件をおうかがいします。」
美香が事務的な口調で話している向こうで、大きな声でまくし立てる那波の声が聞こえてくる。内容まではわからないが、どんどん早口になり興奮している様子が伝わってくる。
「すみませんが、職場に業務以外の件でお電話いただいても取り次ぐことはできませんので、ご了承ください。」
そう言って美香はガチャンと電話を切った。僕は美香にありがとうという意味を込めた視線を送りながら手を合わせたところ、美香は声を出さずに唇だけを動かした。
「気をつけなさいよ」
そう言っているように見えた。
次の日、通用口から庁舎を出ようとすると、物陰から急に腕をつかまれた。
「矢島くん・・・。」
そこにはすがるような目をした那波がいた。
「えっ?ええっ?」
「全然連絡取れないから心配になって・・・。この後時間ある?5分だけでもいいから・・・。」
那波は、一応僕の意思を確認するように言っているが、両手でがっしりと僕の腕をつかみ放してくれそうになかった。どうしよう・・・。
「矢島さん、まだ出てなかったんですか?」
後ろから声を掛けられ振り返ると美香がいた。那波はキッと美香をにらんだが、美香は意に介することなく僕に話し続けた。
「今日は部の送別会ですよ。一緒に会場に行きましょう。」
「えっ?そうだっけ?・・・うんそうだったね。そういうわけなので那波さん、また今度。」
そう言って那波の手を振りほどき、美香と一緒に歩き出した。さすがに那波はそれ以上追いかけては来なかった。
「ごめん。助かった・・・。」
「まだこっちを見てるから、もう少しこのまま歩いてタクシーを拾いましょう。」
僕は那波の方を振り返らないようにはしていたが、確かに視線を感じたので、大通りに出てタクシーを呼び止め、二人で乗り込んだ。
「助かったよ。」
「あの子はしつこいからまだ安心できないわよ。ほら。」
美香に指をさされバックミラーを見ると、立ち尽くしたまま僕たちが乗ったタクシーをじっと見つめ続ける那波の姿があった。
「後をつけられて自宅を特定されるとやっかいよ。嘘か真かわからないけど、不倫相手の家の前で毎日待ち伏せたって話も聞くし・・・。」
僕は身震いするしかなかった。
次の日から、僕は退庁する時はなるべく美香と時間を合わせるようにした。
どうしても美香と時間が合わない時は、なるべく団体に紛れて素早く通用口を出るようにした。そして、後をつけられないよう、すぐにタクシーを拾って遠回りして帰った。
このままではいけない。那波だって急に距離を置かれて戸惑っているだろうし、きちんと話してケジメをつけなければいけないことはわかっている。
だけど、那波はこれまで僕には優しかったけど、他の人に対して逆上する姿を何度も見せられているので、なかなか二人で話し合いを持つ勇気が出ない。下手をしたら刃傷沙汰も覚悟しないと・・・。
そう思いながら、大人なんだし何とか察してくれないだろうかと期待しながら那波を避けていたのだが、僕は那波の執念を少し甘く見ていたようだ。
「おかえり・・・矢島くん。」
「うっ、うわ~!!」
ある日、深夜近くまでの残業を終えて一人で住んでいる集合住宅まで戻ると、その入口近くの階段で那波が座って待っていたのだ。
「ど、どうして僕の家が・・・?」
「ああ、東京から転勤してきたし、きっと幹部用の官舎にいると思って、めぼしい官舎を毎日順番に回って待ってたんだよ。5つ目で当たりだったね・・・。」
事も無げに言う那波の表情は暗闇でよく見えなかったが、目だけはギラっと光ったように見えた。
「二人でお話したいことがあるから、部屋に入れてくれないかな?」
「いや、もう遅いし・・・。」
「ふ~ん・・・。暑い中、蚊に刺されながら、ず~っとけなげに待ってた私を、そんな風に扱うんだ・・・。あ~あ、ここで叫んじゃおうかな~・・・キャ~ッ!!ってさ。」
那波は一瞬、金切声をあげて叫んだ後、僕に向かってニッコリと笑いかけてきた。
僕は観念し、それでも何とか説得して部屋に上げることは許してもらい、代わりに近くのバーへ場所を移すことになった。
バーのカウンターに横並びに座りカクテルを注文すると、僕は意を決して那波の方へ向き直って頭を下げた。
「ずっと黙っていたけど、僕は東京で学生時代からずっと付き合っていた恋人がいるんだ。こっちへ来る際に少し疎遠になったんだけど、今でも大事に思っている。だからもう那波さんとは会えない。」
「・・・・。」
おそるおそる頭を上げて那波の表情を見ると、意外にも那波は冷静そうで、むしろ口元に微笑を浮かべていた。そして、まるで何事もなかったかのようにカクテルに手を伸ばしている。
「そうなのね。でも、そんなこと関係ないよ。」
「いや・・・さすがに決まった恋人がいるのに異性と二人で会うのは・・・。」
「そうじゃなくてさ!」
那波は急にイラついて、指でカウンターをトントンと叩いた。
「もちろん、私も矢島くんが公私ともにパートナーになってくれればいいなって思ってたよ。でも、プライベートの方のパートナーを先に見つけちゃったんだったら仕方ないよね。私は公の方のパートナーでいいよ。」
「えっと・・・それはどういう・・・?」
「あのね、私、今の県政は間違っていると思うの。スマートシティ構想もそうだし、オーバーツーリズム対策もなってない。今の勝田知事の下では県はどんどん衰退してしまう。だから、私が県知事になって県政を立て直そうと思うの。出るとしたら次の次の選挙かな。矢島くんもそれをパートナーとして助けてくれるよね?」
そう言って那波は僕の方に向き直り、うふふっとと微笑みかけてきた。
これまでも那波の政治的野心が透けて見えたことはあったが、ここまで具体的に考えていたとは・・・。
しかし、僕の立場上、この話には到底協力できない。
「申し訳ないけど、今の勝田知事は国土交通省の大先輩だし、僕は勝田知事を助けるために本省から出向で来ている。だから那波が選挙に出るつもりでも助けることはできない。」
「うん・・・そういうしがらみはもう気にしなくていいんだよ。国土交通省なんか辞めて私と一緒にがんばろ!当選したら副知事に指名するからさ。二人の理想とする県政を一緒にやっていこうよ!!」
那波は、僕のシャツの肩のあたりを手を置きながら、キラキラとした目で見つめてきた。僕は体の向きを変えて那波から目をそらし、肩を揺らして那波の手も振りほどいた。
「そもそも僕と那波さんとは、理想とするところが違うと思う。ずっと話を聞いてたけど、那波さんの政策は非現実的だし、独善的で到底賛同できない。」
「えっ?ちょっと待ってよ・・・。中学の頃から一緒に話してたじゃない。こんな監視社会じゃなくて、個人がもっと尊重されて自由に生きられる世の中にしたいって。私が理想とする社会はあの頃と変わってないし、その考えは矢島くんも一緒だったでしょ・・・?」
急に那波の声に焦りの色が見え始めた。横目でチラッと見ると、カクテルを一気にあおっている様子が見えた。
「中学の頃の話を言っているんだったら誤解だよ。僕は那波さんの意見に賛同していたわけじゃない。」
「ウソよ・・・。だってクラスの誰もが私の意見を理解できなかったのに、矢島くんだけが私に話しかけてくれて、私の話をちゃんと聞いてくれたじゃない。きっと那波さんだったら実現できるよって励ましてくれたじゃない・・・。矢島くんが認めてくれたから私もこれまで自分の理想が正しいって信じられて・・・。」
「悪いけどあの頃の僕は・・・那波さんだけをのけ者にしようとするクラスの空気に反発して、彼らへの当てつけで、あえて那波さんに話しかけてただけなんだ。だから、相槌くらいはしたかもしれないけど、本心から賛同はしてない。那波さんの話にも関心はなかった。正直・・・あの頃の那波さんがどんな話をしていたのかもよく覚えていない。」
またチラッと那波の様子をうかがうと、顔面が蒼白になり小刻みに震えてい出している様子が見えた。視線も落ち着かず目が泳いでいる。
「私は・・・私は、矢島君の言葉がずっと支えだった・・・。地元の俗物たちが私の理想を理解できなくて・・・中学でも、高校でも、大学でも無視されて・・・それでも、あのずば抜けて勉強ができて優秀な矢島くんが褒めてくれたから・・・東大に行って中央でもどんどん出世していく矢島くんが認めてくれたんだから、きっと私は間違ってない、私の意見の方が正しいって信じられた・・・それが全部ウソだったってこと?」
その言葉に僕は黙ってうなずくと、那波はカウンターをバンッと叩いて立ち上がった。
「だ、だました、だましたなああぁぁ!ずっと騙してたんだなお前は!!それでまんまと騙された私を見て、山本美香とかあいつらと一緒にずっと笑ってたんだろ!?」
突然大声を上げた那波に驚き、バーテンダーが近寄って来た。
僕は「すみません。出ます」と断ってバーテンダーにカードを渡した後、那波に向き合ってきっぱりと伝えた。
「だから、那波さんの政治活動にも力を貸せません。申し訳ないけどもう会うこともできません。」
しかし、那波は僕の方を見ず、「だましたな」とか「許さない」という言葉を小声で繰り返すだけだった。僕が「もう帰るから」と伝えた時も、ギロリと恨みのこもった目でにらんできただけで、他に何の反応も見せなかった。