第3話 さらば、開かずのパン焼き部屋よ
ルイ・オーギュストは静かだった。彼はマリーにハンカチを握らせると、コートの上にウエストコートを脱いで置き、そこにマリーを座らせた。
「これでは、で、殿下の御召し物が……」
「非常時ゆえこれでいいのだ。あの冷たい棚にリンゴとワインがあった。食べて元気になろう。私も食事にしたい」
王太子は妻のために、お盆に果物と飲み物を持ってきた。ついでにカチカチのお好み焼きも。
彼はへこたれておらず、いささか楽しげでもあった。
「狩りに行くと、休憩時はいつもこんなものだ」
二人はリンゴを齧り、硬いお好み焼きをワインで飲み下した。ワインが硬い焼きパンに沁みこむ。
「こんな硬いもの、パンとは言えませんわ。まるで煉瓦のよう」
ルイ・オーギュストは例のパンをワインによく浸してから、妻に渡した。ゆっくり噛んでいると、白ワインの芳香がパンに移り、少しずつ胃の腑に落ちていく。
「少なくとも殿下は私を案じてくださる。泣いてヒステリーを起こすなんて恥ずかしいことを、私は……。んん、眠いですわ」
ウトウトしていたマリーはハッとした。胸当て用のピンが小さな皿に積んであった。
「で、殿下。私のドレスを……」
「し、失礼……あまりに疲れていたようなので、コルセットも緩めてある……」
夫婦になって3年、懐妊こそ王族の義務と周囲の圧力の下、ぎこちなさの残る関係だが、マリーは夫がやる時はやるのだと少し思い直した。彼女は齧ったリンゴを手の中でもてあそんだ。
「パンの『種』があれば膨らんで、丸いブール(大ぶりの丸パン、この時代にまだ細長いバケット類はない)になるのでしょうね。リンゴの『種』で奇跡は起きないかしら」
「入れてみよう!」
「殿下、いくら何でもそれは……」
ルイ・オーギュストの眼は輝いていた。
「ここにある材料を全部使い、どれが『種』になるか実験しよう。妃の舞踏会の楽しみが早く叶うように」
マリー・アントワネットは夫の頼もしさを初めて知った気がした。
二人共に下着に近い恰好で、冷たい棚から食材を出し、パン生地をこねた。
「これは赤ワイン種、それから白ワイン種、リンゴ種、リンゴジューズ種、ブドウ種、ブドウジュース種、山羊チーズ種、梨種、梨ジュース種、砂糖種、最後にハチミツ種だ」
「さすが殿下ですわ。果物の実と汁を別々に使うなんて素敵です」
「11種類あれば、どの種がパンを最も膨らませるか分かるだろう。これで駄目なら種を混ぜることも考えている。まだ小麦粉はたくさんあるからね」
そう言ってみたものの、ルイ・オーギュストに自信があったわけではない。もし小麦粉が底をついた時点でパンが膨らまなければ……いいや、悪い未来を考えるのはいけない。彼は妻と共にいるのだ。彼は粉だらけの彼女の腕を取り、労わった。
「女性の力で生地をこねるのは大変だったでしょう」
マリー・アントワネットの頬に微笑があった。
「けっこう楽しいものでしたわ」
『発酵』を待つ間、二人は壁を背にして座り、肩を寄せ合った。無作法に投げ出した足先を互いに見た。マリー・アントワネットは靴を脱ぎ、ストッキングで包んだ足指を伸ばして言った。
「殿下もこうすると気持ち良いですよ」
ルイ・オーギュストも靴を脱いだ。彼のブラウスの肩あたりに妃の頬が乗って、いい香りがする。
「マルセイユ石鹸の香り?」
「昨日の午後にバスタブを使いましたの。殿下もいかがですか」
「私も工房で過ごしたあとに使うことがある。あれはいい、体がすっきりする」
マリーは軽く歌を口ずさんだ。
「パン種も歌を聴いたら、機嫌よく『発酵』するかもしれませんよ」
ルイは微笑んだ。閉じ込められているとはいえ、なんて幸せな一瞬だろう。妻が義務的に夫に寄せる尊敬とは別の顔を見せた気がして、王太子は満ち足りていた。
果たして11種類のうち、リンゴ汁を加えた種が最もよく膨らんでいた。
「大成功ですわ、殿下!」
妻の声援を受けて、ルイ・オーギュストは本格的なブールをこね、かくしてパンは焼きあがった。試食してみた。王室の食卓に出せるくらいに美味しく感じる。若い夫婦は「やった!」「やりましたわ!」と快哉をあげ、互いを抱擁した。
扉が静かに開いた。そのとたん、二人は王太子と王太子妃に戻らねばならなかった。装いを隙なく整えるのに数十分をかけた。ルイ・オーギュストは名残惜しそうにMikrowellenofen を振り返った。王族でなければ、妻とパンを焼き続けるのも悪くない。が、それは夢物語だ。彼のかたわらのマリー・アントワネットの心はもうパリ・オペラ座に飛んでいた。
二人は姿勢を正し、堂々と部屋を後にした。焼き上げたパンは部屋に置かれたままだった。
その後も続いたヴェルサイユの儀礼は即位したルイ・オーギュスト、即ちルイ16世によって多少簡略化されたものの、大部分は儀礼の権利を手放さない大貴族によって踏襲された。
マリー・アントワネットは王妃になってからの数年、放蕩に溺れるギャンブル依存症に陥ったが、第一子が生まれると全快した。だが、夫からプレゼントされた離宮の改装にストレス解消を求めると今度はそちらに没頭した。離宮には農村の暮らしを王宮仕様で再現した一角があり、パンも焼かれたが、マリー・アントワネット自身は田園趣味を楽しむだけだった。
王も王妃もパンを焼いた開かずの部屋を忘れてしまっていた。もし、二人が自らパン作りの趣味を持って、パンを焼き続けていたら歴史は変わったかもしれない。パンを食べられないパリ市民の声に耳を傾けたかもしれない。開かずの部屋は転機だったかもしれない。
が、運命はそれを許さなかった。
王と王妃はその位に就いて十数年後、革命によってヴェルサイユ宮殿からパリのテュイルリー宮殿へ連行された。その時、パリの女たちは「パン屋の主人と女将を連れてきた」と罵声を浴びせた。
革命は次第に急進的になり、恐怖政治の元で多くの人命が死刑器具ギロチンで失われた。ルイ16世と王妃マリー・アントワネットも例外ではなく、ギロチンの刃で命を落とした。
そして哀れな王妃は「パンがなければお菓子を食べればよろしいのでは」の発言者と誤解され続けている。なお、真の発言者はルイ14世の王妃マリー・テレーズ説が有力である。