『発酵』って何ですの?
「ありましたわ、殿下。『伝統的フランスのパン作り』これに間違いありません」
二人は肩で息をしていた。異常な状況下で必死に冷静でいたのだが、パン作りの手掛かりが見つかったとたん、緊張の糸が切れてしまっていた。
ルイ・オーギュストは床にへたり込み、「水、水」と泣きそうな声を出していた。マリー・アントワネットもまた床に座り込み、コルセットに辟易していた。彼女は立ち上がって甕の水をグラスに入れようとした。手が滑り、グラスは甕の中に沈んでいく。
「あああ……あー」
王太子妃は17歳という年齢にふさわしい愛らしさで甕を茫然と見つめていた。仕方がない、今まで給仕されるばかりで、誰かのために自ら水を汲むなどしたことがない。それはルイ・オーギュストも同じかと思われた。
が、彼は水差しを甕に入れてたっぷりと水を確保したうえで、新たなグラスに水を湛えた。
「さあ、妃よ。休憩したらまた良いことがあるだろう」
「……はい、殿下」
二人は水を飲んだが、甕の底のグラスを拾い上げようとはしなかった。それよりもパンだ!
ルイ・オーギュストは本を膝に乗せ、頭を抱えていた。
「酵母とは何であろう。妃は存ぜぬか?」
「それがないとどうなりますの?」
「パンが発酵しないのだ」
「殿下、発酵とは何ですの?」
「ぶどう汁がワインに変わることと同じらしいが、パンの場合は膨らむことを発酵とみなす。実に神秘的だ」
残念なことに、この時代にまだ「発酵」の概念はない。
ルイ・オーギュストは宮廷服アビ・ア・ラ・フランセーズで身を固めていたが、大きく息を吐くと美しく刺繍されたコートを脱いだ。
「本によると、小麦粉を塩と水とでこねるとある。少し身軽になりたくてね」
「殿下、は、はしたなくございませんか?」
衣服を正しく整えることは王侯貴族の義務であった。ましてや王太子が上着であるコートを脱ぎ、ウエストコート(ベスト)にブリーチズ(半ズボン)になれば、身分にふさわしからぬスタイルである。
しかし、理性的かつ合理的な精神が「身軽になれ」と言えば、素直にそうするのがルイ・オーギュストだ。彼は首をうるさく飾るクラバットを取り去り、手首のレース飾りも外すと丁寧にコートの上に置いた。
マリー・アントワネットのドレスは脱ぎようがない。ローブ・ア・ラ・フランセーズは差し詰め衣装の名を借りた鎧だ。人の手を借りて武装したドレスは人の手を借りずに武装解除はできない。いったい何本のピンで留めてあるのか、アントワネット自身が知らないのだ。
棒立ちになった妃にルイ・オーギュストは材料を分量どおりに計り、焼き上げるまでを滔々と説明した。やはり問題は「発酵」だった。
「小麦粉、塩、水。ここまではいい。そこに何かを加えなくてはならない。本によると『種』とあるのだが。とりあえず、小麦粉を塩と水でこねてみよう。そこから後はまた考えよう」
豪華な衣装に身を包んだマリーは力なく頷いた。
ああ、なんてことかしら。政略結婚が成立するのは私が懐妊し、フランス王国の世継ぎを産むこと。なのに王太子殿下は私を放置したまま、3年が過ぎたわ。決して魅力的な殿方ではないけど、私は彼がその気になるよう、お誘いもしたし、寝室にショコラを持ち込んだけど効果なし……。
私に何か落ち度があるのかしら。それでこんな部屋に閉じ込められたのなら罰かしら。ああ、お腹が空いたわ。早くパンが焼けないかしら……。
無発酵パンで最も有名なのは、おそらく南アジアのロティか中南米のトルティーヤだろう。いわゆる種なしパンと言われる無発酵のフラットブレッドの仲間である。
ルイ・オーギュストとマリー・アントワネットが何とかして焼き上げたのは、まさに無発酵のフラットブレッド、硬いお好み焼きだった。説明書を読み込んだルイがオーブンを使ってみたものの、膨らまないパンはキャベツとおたふくソースのないお好み焼きであり、扉は閉ざされたままである。
疲労と空腹のため、苛立っていたマリーは「お食事はまだですの?」と言ったきり、オーブンの前で泣き出してしまった。
「理不尽ですわ、私たちになかなか子供が授からないからって、変な部屋に閉じ込めたのは一体誰なの! 随分と手の込んだいたずらですこと! 殿下、何か言ってください、お願いです」