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パンを焼かないと出られない部屋

5月中旬に降ってわいた小説家・十三不塔先生と翻訳者・大恵和実先生のトンデモ同人企画「脱出歴史SFアンソロジー〇〇しないと出られない部屋たち」に触発されて、素人の私も短編を書きたいと頑張った小説です。

タグは #脱出歴史SF で行きます!

 フランス王太子妃マリー・アントワネットは囁くように言った。

「私は『パンがなければお菓子を食べればよろしいことでは?』などと言うつもりはございませんが、これは何事でしょう」

 傍らで棒のように突っ立っているフランス王太子ルイ・オーギュストの眼は、窓のないこの部屋のドアノブに釘づけだ。

「鍵穴がない。そしてこの張り紙を見なさい、妃よ」

「何度も読みましてよ。『パンを焼け。さすれば部屋から出られよう』

 何かの冗談ですの? 殿下、私たちは閉じ込められたのですか?」


 ルイ・オーギュストはドアノブに手をかけた。押しても引いてもだんまり決めた扉と格闘せず、本来あるはずの鍵穴の場所を撫でた。

「鍵穴を付ける予定のない作りだ。最初から人を閉じ込めるものとしてこの部屋は存在する。さて、妃よ、パンを焼くしか方法はないようだ」


 マリーは憮然とした。

 夫と王室礼拝堂で朝のミサに出席した。そこからヴェルサイユ宮殿中央翼1階の自室に戻る途中のことだ。こともあろうに自室に繋がる廊下で誰かが急にもよおしたらしく、排泄物が転がっていた。公共トイレが皆無状態のこのヴェルサイユ宮殿は廊下則ちトイレになりがちだ。王太子と王太子妃の居間の前だろうが、例外ではない。ましてそこは1階、王の居住区である2階より遠慮がない。

 ヴェルサイユ育ちのルイ・オーギュストはまだしも、清潔なシェーンブルン宮殿育ちのマリー・アントワネットは忍耐の限界にいた。

「殿下、回り道をいたしましょう。今日はヴェルサイユは堆積物が多すぎます」

「では、こちらの扉へ」

 そこまでは覚えている。そして二人は閉じ込められたのだった。


 耐えがたい堆積物のあとは、出られない部屋ですって!?

 マリーは呑気に構えている夫に苛立ったが、ぐっとそれを飲み込んだ。

『仮に鍵穴があれば、殿下ご趣味の錠前作りが役立ちましたのに!

 パンを焼くですって!

 私はオーストリア皇女として育ち、3年前にフランスに嫁いで王太子妃となった身! パンを食べてもパンを焼くことは一度としてありませんでした! 

 パンは王室御用職人が用意するものであり、私のこの手は儀礼でぎゅうぎゅう詰めの陰険な宮廷のためにあるのです!』


 その通りだった。王太子夫妻は百年前にルイ14世が定めた儀礼に則って一日を過ごさねばならなかった。朝の着替えに始まり、ミサに出席し、祖父ルイ15世に挨拶し、週に二日は公衆の面前で昼餐を取り、夜は社交と舞踏に明け暮れる。そして国王と王太子を取巻く王侯貴族たちの勢力争いが続く生活にマリーは苛立ちを覚えていた。

 何より国王ルイ15世と母国オーストリアの女帝マリア・テレジアは一日も早いマリーの懐妊を持ち詫びている。王子が生まれない限り、マリーの王太子妃の称号などあってなしのようなものだ。だが、肝心の夫は積極的でないうえ、マリーも夜の営みは不器用だった。

 唯一の楽しみはお忍びで行くパリ・オペラ座の仮面舞踏会だ。


 一方、ルイ・オーギュストはさして広くない部屋を探検していた。

 天井から落ちるぼんやりと明るい光。

 白い壁に豪華絢爛な壁紙も装飾品もなく、石に似た冷たい感触が広がる。床も同様である。部屋の中央に金属の台が並び、大きな甕に水が満ちていた。

 彼の眼が突然輝いた。

「妃よ、ご覧。機械のようだ。ドイツ語で何か書いてある」

 ドイツ語と聞いて、マリー・アントワネットは一瞬14歳のマリア・アントンに戻り、四角い箱状の機械にがぶり寄った。

「Mikrowellenofen? ofenはオーブンのことでしょう。

 姉のマリア・カロリーナ、今のナポリ王妃とお菓子作りをした時に、厨師が教えてくれましたの。でも、Mikrowellenはさっぱりお手上げです。この箱は触らない方が良いと思いますわ」


 ルイ・オーギュストの母方はドイツの血で、彼自身真面目なドイツ気質の一面がある。彼は妻の言葉に頷きながらも、機械の動く部分を一つ一つ丁寧に確認していった。機械のこととなると口の重い彼は豹変する。

「このダイヤルは目盛りだ。おそらく時間か重量か何かの加減を示すものだ。妃よ、菓子作りの思い出を生かしてくれないか」


 王太子妃はお菓子の味以外覚えていなかった。

「それよりも殿下、こちらの扉や引き出しも開けませんと」 

 マリーは壁面収納の扉を開けていった。

「こちらの扉はいとも簡単に開きますのに。本当にパンを焼かねばあちらの扉は開かないのでしょうか」

「妃よ、扉が開く際に恐ろしい仕掛けがあなたを傷つけないか心配だよ」


マリーは意外そうに厚い下唇を開いた。

「ご心配なく、殿下。

 私、近々のオペラ座仮面舞踏会を楽しみにしていますの。早くここを出て、ドレスや靴を整えたいのですわ。ご一緒してくださいね。

 あら、この扉の中は随分と冷たいです。果物とワイン、チーズがあります。この袋は小麦粉じゃありませんこと?」


 ルイの眉が少々曇る。

『妃よ、私はオペラ座に行っても木偶の棒だ。宮廷の儀礼舞踊が精一杯の私は羽のように舞うあなたが遠くへ飛んでいきそうで切ないのだ。

 しかし、今は何とかしてパンを焼かねば。いつ何時、不測の事態になろうとも王太子は妃を守らねばならない』


 彼は金属の台を回って壁に並ぶ扉を用心しつつ開けた。

「ボウル、へら、棒、ナイフ、刷毛、粉篩、丁寧に名前を付けてある。おや、本がある。ドイツ語だよ、マリア・アントン」

ちゃめっ気を出してみたルイだが、妻は本と聞いただけで顔をそむけた。

「私、フランスに嫁いだ身です。ドイツ語は話さないと決めております」


 ルイはそそくさと本のタイトルをフランス語に訳した。

『Mikrowellenofenの使用説明書』

「これを読めばさっきの機械が使えるわけだね」

「肝心のパンの本はありませんの?」

二人は壁の扉と引き出しを全部開けた。もう危険だ何だと言っている場合じゃない。

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