8話 血と汗と…時々、笑いの猛特訓
リリス役への挑戦を決意したものの、あかりの前には想像を絶する「茨の道」が口を開けて待っていた。その第一関門が、超本格的なアクション訓練である。指定されたのは、都心の一角にある、いかにも屈強な男たちが集っていそうな、汗と鉄の匂いが染みついたアクションジムだった。
「ここが…今日の戦場…」
お気に入りのパステルカラーのトレーニングウェアに身を包んだあかりは、ジムの重々しい扉の前でゴクリと息を呑んだ。中から聞こえてくるのは、野太い掛け声と、何かが激しくぶつかり合う轟音。清純派ヒロインのオーラは、この場所では完全に浮いていた。
ジムの奥で腕組みをしてあかりを待っていたのは、スタントコーディネーターの片山だった。陽に焼けた肌、猛禽類のように鋭い眼光、そして何よりも、その全身から発散される「生半可な覚悟なら叩き潰す」と言わんばかりの威圧感。噂に違わぬスパルタ親父だ。
「天海あかりか。…ったく、プロデューサーも酔狂なこった。お嬢ちゃん、準備運動は念入りにしとけよ。怪我しても、こっちは知らねえからな」
ジャージ姿の片山は、あかりを頭のてっぺんから爪先までジロリと一瞥し、吐き捨てるように言った。その声には、あからさまな侮蔑と「お手並み拝見」という棘が含まれている。
そして、訓練が始まった途端、あかりの運動音痴っぷりは、これでもかというほど白日の下に晒された。
まずは剣術。リリスが使うのは、フェンシングのエペのような細身の剣でありながら、時に鞭のようにしなり、時に相手の急所を的確に穿つ、華麗かつ残忍な剣技。片山が手本として見せる動きは、まるで舞踊のように美しいのに、恐ろしく鋭い。
「いいか、剣先は常に相手の喉元だ!そこから一切ぶれねえ集中力と、全身のバネを使うんだよ!」
片山の怒号が飛ぶ。しかし、あかりが剣を握ると、それはただの細長い棒きれと化し、手足はあらぬ方向へもつれ、挙句の果てには自分の足に剣を引っ掛けて派手に転倒。
「…何やってんだ、テメェは!そんなんで人が斬れるか!コントの練習じゃねえんだぞ!」
額に青筋を立てる片山。あかりは泥まみれのヒーローのように「すみません!」と立ち上がるが、内心は半泣きだった。
カーアクションの基礎訓練も悲惨だった。教習所以来、ほとんどペーパードライバーだったあかりにとって、巨大なシミュレーターで要求される精密なドリフトや、敵を欺くトリッキーなハンドル捌きなど、まさに異次元のテクニック。アクセルとブレーキを踏み間違え(そうになっ)ては、片山から「免許返してこい!」と雷が落ちる。
そんなあかりの「勇姿」は、いつの間にかジムの誰かが撮影していたらしく、あっという間にSNSで拡散された。
『#あかりまた転倒 GIF集』
『#運動神経ゼロ悪女 いや、もはや放送事故レベル』
『リリス様、そんなにドジっ子で大丈夫そ?w』
笑いと嘲笑がないまぜになったコメントが、あかりのスマホ画面を埋め尽くす。第一話の製作発表会見以上の炎上っぷりに、さすがのあかりも心が折れそうになった。
「あーら、あかりちゃん、またお肉ついちゃった? リリス様はもっとこう、シャープな感じなんだけどなぁ」
そんなある日、採寸のためにやってきたのは、衣装監督の三好だった。肩まである鮮やかなピンク色の髪を揺らし、指にはこれでもかと派手なリングをつけた三好は、メジャーをあかりの腰に巻き付けながら、悪戯っぽく笑う。
「でも大丈夫! この三好様にかかれば、どんな体型だってグラマラスな悪女にトランスフォームさせちゃうんだから! 見てなさい、この最新デザインのドレス! これを着れば、あかりちゃんだって、夜の闇に君臨するリリス様に…キャハッ!」
三好は、どこからともなく取り出したデザイン画をあかりの目の前に広げた。そこには、黒を基調としながらも、深紅のレースや煌めく宝石があしらわれた、妖艶で力強いドレスが描かれていた。それは、ただ美しいだけでなく、着る者に自信と力を与えてくれそうな、特別なオーラを放っていた。
「リリスの衣装はね、彼女の鎧であり、彼女の牙なの。あかりちゃん、この衣装に負けないくらい、強く、美しくなるのよ!」
三好の底抜けに明るい声と、衣装に込められたプロフェッショナルな情熱は、落ち込みかけていたあかりの心を少しだけ軽くしてくれた。
その三好が帰った直後、ジムの隅でストレッチをしていたあかりの耳に、聞き覚えのあるクールな声が届いた。
「…随分と無様な姿を晒しているようだな、天海」
振り返ると、そこにはトレーニングウェア姿の桜井玲二が、腕を組んで立っていた。どうやら彼も同じジムで自主トレーニングをしているらしい。
「さ、桜井さん…」
「リリスは、ただ闇雲に動くキャラクターじゃない。その一挙手一投足には、意味と計算がある。君のそれは、ただのドタバタにしか見えないが」
相変わらずの辛辣な言葉。あかりはカッとなり、言い返そうとした。
「わ、わかってます! でも、まだ始めたばかりで…!」
「始めたばかり、か。時間は有限だ。まあ、せいぜい『清純派の限界』とやらを見せてくれ」
そう言って桜井は、まるで興味を失ったかのように、自分のトレーニングに戻ってしまった。悔しさと苛立ちで、あかりの唇が震える。
だが、その夜、一人で桜井の言葉を反芻しているうちに、あかりは気づいた。彼の言葉は、確かに棘があるけれど、リリスという役の本質を鋭く突いているのではないか、と。リリスの強さは、単なる身体能力ではない。その知性、計算高さ、そして何よりも、悲しみと怒りを内に秘めた精神的な強靭さ。それを表現できなければ、いくらアクションが上達しても意味がない。
「…リリスなら、この痛みや屈辱を、どう乗り越えるだろう」
あかりは、ジムで負った生傷をそっと撫でながら、リリスの魂に問いかけるように呟いた。
『#あかりまた転倒』の動画を、あえて何度も見返す。笑われている自分。悔しい。でも、リリスもまた、多くの人から誤解され、嘲笑され、それでも己の道を突き進んだのではないか。
翌日から、あかりの目の色が変わった。相変わらず転び、打ちのめされる。しかし、その度に、より強い光を瞳に宿して立ち上がるようになった。誰も見ていない早朝や深夜にもジムに残り、黙々と自主練習を繰り返す。その姿に、最初は「どうせすぐ音を上げるだろう」と高を括っていた片山も、次第に眉をひそめる回数が減っていった。
「…おい、天海。お前、なんでそこまでやるんだ? 清純派のお嬢ちゃんには、もっと楽な道があるだろうに」
ある夜、サンドバッグに何度も無様に体当たりしている(ように見える)あかりに、片山が珍しく声をかけた。
「…わかりません。でも、リリスが、諦めるな、って言っている気がするんです」
汗だくのあかりが、息を切らしながら答える。その瞳は、まっすぐで、どこか常人離れした光を放っていた。
片山は、ふいと顔をそむけ、ぶっきらぼうに言った。
「…ったく。お前みたいな奴は初めてだ。いいか、明日はもう少しマシな動き、見せてみやがれ」
その声には、ほんの少しだけ、呆れとは違う感情――あるいは、期待のようなものが混じっているように、あかりには聞こえた。
リリスの孤独、リリスの怒り、リリスの悲しみ。あかりは、それらを自分の内側で反芻し、時に一人、人気のない公園のベンチで、台本を抱きしめながら涙した。これは役作りなのか、それとも自分自身の何かと向き合っているのか。もう、あかり自身にもわからなくなっていた。ただ、一歩でも、リリスに近づきたい。その一心だけが、彼女を突き動かしていた。
血と汗、そして時折こぼれるドジな笑い。あかりの猛特訓は、まだ始まったばかりだ。だが、彼女の中で、何かが確実に変わり始めていた。それは、悪女リリスへと続く、険しくも魅力的な道のりの、確かな一歩だった。