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7話 青天の霹靂、あるいは悪女への誘い

 煌めくシャンデリアの下、天海あかりは眩しさにそっと目を細めた。昨夜、手にしたばかりの主演女優賞のトロフィーが、リビングのキャビネットで控えめながらも確かな存在感を放っている。国民的清純派ヒロイン――いつからか、そんな枕詞が定着した。柔らかな微笑み、少しおっとりとした仕草、そして何よりも、どんな困難にも健気に立ち向かう役柄で、あかりは日本中のお茶の間から愛されてきた。


「まさか私が、ねぇ……」


 トロフィーに視線を送りながら、あかりは小さく呟いた。数年前まで、こんな未来は想像もしていなかった。だが、一つの役との出会いが、彼女の運命を大きく変えたのだ。


 その余韻も冷めやらぬ翌日の午後、マネージャーから少し強張った声で連絡が入った。「あかりさん、大至急、事務所に来てください。城戸プロデューサーがお待ちです」


 城戸は、国内最大手の映画会社で数々のヒット作を飛ばしてきた敏腕プロデューサーだ。彼が直接? 胸騒ぎを覚えながら、あかりは急いで事務所へ向かった。


 重厚な応接室のソファに深く腰掛けた城戸は、あかりを見るなり、まるで悪戯を思いついた少年のように目を輝かせた。

「天海あかり君、君にしか頼めない役がある」

 開口一番、単刀直入だった。

「次の私の作品なんだがね、ハリウッドとの共同製作で、とんでもないスケールのものになる。その主演を、君に」

「主演、ですか……?光栄です、どのような……」

 期待に胸を膨らませるあかりに、城戸は一枚の企画書を滑らせた。

 表紙には、血のような深紅の背景に、漆黒の影が禍々しく描かれている。そして、タイトルは――『ダークレジェンド』。


「……ダーク?」

 あかりは思わず呟いた。これまでの彼女のイメージとはかけ離れたタイトルだ。城戸は満足そうに頷き、爆弾を投下した。

「君に演じてもらうのは、この物語の主人公にして、最も残忍で美しい、孤高の悪女『リリス』だ」


 悪女、リリス。

 あかりの頭の中で、その言葉が反響した。清純派の代表格である自分が、悪女? しかも、残忍で美しい? 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。


「……私が、ですか? 城戸プロデューサー、何か……何かの間違いでは?」

 狼狽するあかりに、城戸は楽しそうに首を振った。

「間違いじゃない。君だからいいんだ。天海あかりの、あの太陽のような笑顔の奥底に眠る、まだ誰も見たことのない冷たい炎、その可能性に私は賭けたいんだよ」

 彼の瞳は真剣だった。冗談や気まぐれではない。

「多くの人が君のパブリックイメージに囚われている。だが私は、君が初めてオーディション会場に現れたあの瞬間から感じていた。君の魂の奥には、計り知れない深淵がある、とね」


 あかりは言葉を失った。ただ、心の奥底で、何かが小さく震えたのを確かに感じた。それは恐怖か、それとも武者震いか。


「この役は、君にとって大きな挑戦になるだろう。だが、これを乗り越えれば、君は誰も到達したことのない高みへ行ける。どうだい? 私と一緒に、世界を驚かせてみないか」

 城戸の熱のこもった言葉が、あかりの心を揺さぶる。清純派ヒロインとしての成功。それは確かに大きな喜びだった。しかし、心のどこかで、このままではいけない、という焦燥感にも似た想いが燻っていたのも事実だった。


「……やらせて、ください」

 気づけば、あかりはそう口にしていた。声は少し震えていたかもしれない。だが、瞳には、新しい世界への扉を開けようとする、確かな光が宿っていた。


 数日後、都内の一流ホテルで『ダークレジェンド』の製作発表会見が開かれた。フラッシュの洪水の中、あかりは緊張した面持ちで登壇した。そして、彼女の隣には、この作品のヒーロー役を務める俳優が座っていた。


 桜井玲二。

 子役時代から活躍し、若手実力派俳優として不動の地位を築いている男。そして、あかりにとっては、かつて同じドラマで共演し、その圧倒的な才能とストイックさで、密かにライバル心を燃やしていた相手だった。


「桜井さん、ご無沙汰しています。またご一緒できて光栄です」

 あかりが微笑みかけると、桜井は彫刻のように整った顔をわずかに彼女に向け、涼やかな声で言った。

「ああ。面白い挑戦だな、君にとっては。……もっとも、君にリリスの闇が表現できるのか、興味深く見させてもらうが」

 その言葉は、クールでありながら、どこか挑発的な響きを帯びていた。あかりは内心でカチンときたが、プロとして笑顔を崩さなかった。この男は、昔からこうだ。だが、その実力は誰もが認めるところ。彼と対峙することで、自分も磨かれるかもしれない。


 会見は華やかに進んだが、質疑応答で、やはり記者たちからはあかりの悪女役への疑問が集中した。

「天海さん、清純派のイメージが強いですが、悪女役はかなりの挑戦では?」

「今回の役作りで、これまでのイメージを壊すことに抵抗は?」


 あかりは言葉を選びながら、真摯に答えた。「役者として、常に新しい自分を発見していきたいと思っています。リリスという役に真摯に向き合い、皆さんの心を揺さぶる悪女をお見せできるよう、全力で取り組みます」


 しかし、その日の夜から、SNSは荒れた。

『あかりちゃんに悪女は無理でしょwww』

『映画の世界観ぶち壊し』

『清純派(笑)のイメージ戦略に必死かよ』

『リリスはもっと妖艶で影のある女優がいい。天海あかりじゃない』

 辛辣な言葉が、容赦なくあかりの目に飛び込んでくる。覚悟はしていた。だが、実際に目にすると、胸の奥がズキリと痛んだ。


 その夜、あかりは一人、分厚い台本を手に取った。表紙には、やはりあの禍々しいリリスの影。ページを捲る手が、わずかに重い。

 バッシングの言葉が頭をよぎる。本当に私にできるのだろうか。城戸プロデューサーは「可能性」と言ってくれたけれど……。


 読み進めるうちに、あかりはリリスというキャラクターの持つ複雑な背景に引き込まれていった。彼女は、生まれながらの悪ではない。愛する家族を理不尽な力によって奪われ、全てを失った絶望の果てに、復讐を誓い、強大な力を手に入れる。その過程で、多くの罪を重ね、血に塗れていく。しかし、その冷酷な仮面の下には、癒えることのない深い悲しみと、守りたかったものへの消せない愛情が隠されていた。圧倒的な力を持つがゆえの孤独。強さの裏に潜む、痛々しいほどの脆さ。


「……リリス」

 あかりは、知らず知らずのうちに、その名を呟いていた。

 彼女は、ただの記号としての「悪女」ではない。血の通った、一人の人間だ。その魂の叫びが、台本の文字の奥から聞こえてくるような気がした。


 胸の奥の痛みが、いつしか別の感情に変わっていた。共感、と呼ぶにはあまりにもおこがましいかもしれない。だが、リリスの抱える闇の深さに触れたとき、あかりは、自身の心の奥底にも、まだ光の当たらない場所があることを感じた。そこに手を伸ばし、リリスという鏡を通して自分自身を見つめ直すことができたなら――。


 SNSの喧騒が、少し遠くに聞こえる。

 あかりは、ぎゅっと台本を胸に抱きしめた。

「見ていてください、桜井さん。そして、私を信じてくれたプロデューサー。何より、私をまだ知らない、たくさんの人たち」

 瞳に宿る光は、もはや戸惑いの色ではなかった。それは、困難な航海へと漕ぎ出す船乗りのように、強く、決然とした輝きを放っていた。


 悪女リリス。その魂に、私は必ず触れてみせる。

 天海あかりの、新たな挑戦の幕が、静かに、しかし確かな意志を持って上がろうとしていた。

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