第21話
映画『双貌のヘメロス』、最後の撮影の日。スタジオには、荘厳で、どこか不吉な空気が満ちていた。中央に組まれたのは、冷たい石造りの処刑台。天を突くようなセットの柱には、無数の蝋燭が灯され、揺らめく光がキャストとスタッフたちの緊張した顔を照らし出している。誰もが息をのみ、これから始まるであろう伝説の瞬間に備えていた。
「本番、ヨーイ……スタートッ!」
新城監督の、張り詰めた声が静寂を切り裂く。
処刑台の上には、二人の女優が立っていた。聖女アルテナの純白の衣装を纏った天海あかり。悪女リベラの漆黒の衣装を纏った森崎美優。二人は、静かに見つめ合っている。
「これで、終わりよ」
聖女の仮面を被ったあかりが、冷たく言い放つ。その声は、民衆を導く支配者のそれだ。
「ええ、これで、始まるの」
悪女の仮面を被った美優が、悲しく、しかしどこか嬉しそうに微笑んだ。
次のカット。二人の立ち位置は同じだが、衣装が入れ替わっている。聖女の衣装を着た美優が、悪女の衣装を着たあかりを見下ろしている。だが、発せられるセリフ、その響きは、先ほどと全く同じだった。見る者は、もはやどちらが聖女で、どちらが悪女なのか、その境界線を見失う。
そして、運命の瞬間。処刑執行を告げる鐘が鳴り響く。
二人は、同時に、同じセリフを口にした。
「「――これで、私たちは、一つになる」」
だが、その声に含まれた感情は、光と影のように対照的だった。
一人は、全てを救うための、慈愛に満ちた声。
一人は、全てを終えるための、絶望に濡れた声。
悪女の首に、刃が振り下ろされる。その瞬間、処刑台の上に立つ聖女の瞳から、一筋の涙が静かにこぼれ落ちた。それは、悲しみの涙か、それとも解放の涙か。答えは、誰にも分からなかった。
二
「カーーーーーーットッ!!!!」
監督の、もはや人間の声とは思えない、魂の咆哮がスタジオに響き渡った。
一瞬の、完全な静寂。
そして次の瞬間、スタジオは嵐のような拍手と、歓声と、抑えきれない嗚咽に包まれた。スタッフたちは、立場も年齢も忘れ、互いに抱き合い、肩を叩き合い、この奇跡の瞬間に立ち会えたことを喜び合っていた。モニターの前で、新城監督は椅子に崩れ落ち、「……撮ってしまった……。俺は、とんでもないものを、フィルムに焼き付けてしまった……」と、わなわなと震える声で呟いていた。
セットの隅で、桜井玲二はただ立ち尽くしていた。感嘆、畏敬、そしてほんの少しの嫉妬。あらゆる感情が入り混じった表情で、彼は処刑台の上に立つ二人の女優を見つめていた。
役から解放されたあかりと美優は、どちらからともなく互いに歩み寄り、きつく抱きしめ合った。堰を切ったように溢れ出す涙は、もはや役のものではなく、全てを出し尽くした二人の、本物の涙だった。仮面は、もうどこにもなかった。
三
数ヶ月後。映画『双貌のヘメロス』のワールドプレミア試写会は、割れんばかりの喝采でその幕を閉じた。上映後、会場は地鳴りのようなスタンディングオベーションに包まれ、その拍手は十分以上も鳴りやまなかった。観客たちは、単なる歴史映画ではなく、人間の魂が持つ光と影、その普遍的な真実を描いた傑作に、ただただ心を揺さぶられていた。
そして、季節は再び巡り、世界最高峰の国際映画祭の授賞式。
最優秀主演女優賞の候補として、天海あかりと森崎美優、二人の名が並んで読み上げられる。会場が緊張に包まれる中、プレゼンターが封筒を開き、高らかに宣言した。
「受賞者は……天海あかり、アンド、森崎美優! 映画『双貌のヘメロス』!」
史上初となる、同一役でのW受賞。スポットライトを浴びて、固く手を取り合いながらステージへと向かう二人の姿は、それ自体が一本の映画のように美しかった。
先にマイクを持った美優は、涙で声を詰まらせながら語った。
「私は、一人では、悪女リベラの痛みに耐えられませんでした。彼女という最高の鏡がなければ、自分の本当の顔を知ることさえ、できなかったでしょう」
続いて、あかりがマイクを引き継ぐ。
「私も、一人では、聖女アルテナの仮面を剥がせませんでした。彼女という魂の片割れがいなければ、役の真実にたどり着くことは、永遠に叶わなかったはずです」
そして二人は、顔を見合わせ、声を揃えて言った。
「彼女は、私の最高のライバルで、唯一無二の戦友です」
客席の最前列で、桜井玲二が、誰よりも誇らしげな、そして優しい笑顔で、その光景に拍手を送っていた。
パーティーの後、二人はホテルのテラスで、異国の夜景を眺めていた。
「……ねえ、次は何を演じる?」
美優が、シャンパングラスを傾けながら尋ねる。
「さあね」
あかりは、悪戯っぽく笑った。
「でも、もしかしたら、一人じゃ少し、物足りないかも」
その笑顔は、聖女のものでも、悪女のものでもなかった。ただ、果てしない可能性の海へと、再び漕ぎ出そうとする一人の表現者の、自由で、力強い輝きに満ちていた。
二人の伝説は、まだ始まったばかりだ。




