第20話
新城監督からの非情な最終通告が下された夜、撮影所は重い沈黙に支配されていた。天海あかりと森崎美優は、一言も言葉を交わすことなく、それぞれの楽屋へと戻った。まるで、互いの顔を見ることすら、罪であるかのように。
あかりの楽屋では、いつも彼女の心を整えてくれた激辛スナックの袋が、封も切られずにテーブルに置かれていた。あかりはソファに深く座り、組んだ指先が微かに震えているのを、自分でも止められなかった。
(……私が、彼女の役を奪うのか)
美優が、どれほどの覚悟で悪女リベラの役に挑んでいるか、誰よりも知っている。彼女が初めて見せた、あの痛々しくも美しい魂の輝きを、自分が摘み取ってしまうのか。役者としてのエゴが「私が掴んだ聖女アルテナは誰にも渡さない」と叫ぶ一方で、一人の人間としての良心が、戦友の涙を思い出させていた。
一方、美優の楽屋は、ただ静寂に包まれていた。彼女はもう泣かなかった。ただ、鏡に映る自分を見つめている。鏡の中の自分は、聖女のようにも、悪女のようにも見えた。
(……私が、身を引くべきだ)
あかりが演じる聖女は、完璧だった。いや、完璧を超えていた。自分がどれだけ足掻いても、あの深淵には届かない。ならば、自分が悪女を演じ、あかりに最高の聖女を演じさせてあげるべきだ。それが、この映画のため、そして何より、自分が初めて心から尊敬した役者、天海あかりへの礼儀だ。
だが、その決意は、初めて掴んだ「演じることの痛みと快感」を、いとも容易く裏切ってしまう。どちらを選んでも、待っているのは地獄だった。
二
事態を察した桜井玲二が、まず美優の楽屋のドアをノックした。
「……少し、いいか」
静かに入ってきた桜井に、美優は力なく微笑んだ。
「見ての通り、惨めなものです」
「そうは見えない。今までで一番、強い顔をしている」
桜井の言葉に、美優の瞳が揺れる。
「……君は、どうしたい?」
「……わかりません」
美優は、正直に答えた。
「でも……あかり先輩が創り上げた聖女を、私は超えられない。だとしたら、私が悪女を演じることが、正しいのかもしれません……」
その声には、諦めと、ほんの少しの安堵が滲んでいた。
次にあかりの楽屋を訪れた桜井は、同じ問いを投げかけた。
「君なら、どうする?」
あかりは、初めて桜井の前で、迷いを隠さなかった。
「……役者としては、私が掴んだ聖女アルテナを、誰にも渡したくない。絶対に」
その声は、トップ女優としての絶対的な矜持に満ちていた。
「でも……」
彼女は、言葉を続ける。
「あの子が、初めて自分の殻を破って見せた、あの悪女の顔を……私が奪う権利はない。私情を挟むなら、彼女にこそ、最高の役を演じさせてあげたい」
その告白に、桜井は静かに頷いた。
「役者である前に、君たちは人間だ。答えは、案外そこにあるんじゃないか」
謎めいた言葉を残し、桜井は静かに楽屋を去った。
三
その夜更け、美優の楽屋のドアが、静かにノックされた。そこに立っていたのは、穏やかな、しかし覚悟を決めた表情のあかりだった。
「少し、話さない?」
二人は、どちらからともなく、誰もいない撮影所の屋上へと向かった。冷たい夜風が、火照った心を冷ましていく。
「……私ね」
最初に沈黙を破ったのは、あかりだった。
「昔、悪女のイメージがつきすぎて、ヒロイン役がどうしてもやりたかった時があったの。天使みたいな、誰からも愛される役が」
「……え……?」
美優は、驚いてあかりを見た。
「でも、オーディションに落ちて。結局、私が演じたのは、天使を翻弄するダークエンジェルだった。……そして、その役が、皮肉にも私を次のステージに連れて行ってくれた」
それは、美優が初めて聞く、トップ女優の知られざる過去だった。
「……私は、逆でした」
美優も、ぽつりぽつりと話し始めた。
「清純派って言われるのが、窮屈で仕方がなかった。本当は、あかり先輩が演じたリリスみたいに、全部めちゃくちゃにしてしまうような役に、ずっと憧れてました」
初めて、二人は互いの仮面の下にある、本当の素顔を見せ合った。ライバルでも、戦友でもない。ただ、同じ痛みを抱え、同じ夢を見る、一人の不器用な人間として。
四
「ねえ」
あかりが、夜空を見上げながら呟いた。
「そもそも、どうして聖女と悪女は、別々の人間なんだと思う?」
「え……? だって、双子の姉妹だから……」
「歴史書に、こんな一文があったわ。『双子は、まるで一人の人間が二つに分かれたかのようだった』って」
その言葉に、美優はハッとする。そうだ、私たちは、聖女と悪女という「役割」に囚われすぎていた。もし、二人が、一人の人間の光と影、公的な顔と隠された本心だとしたら――。
「処刑シーンは……」
美優の声が、興奮に震える。
「社会的な仮面である聖女が、ずっと抑圧してきた本当の心である悪女を、殺す儀式……!」
「そう。そして、その死によって、二つの魂は初めて一つになる。破壊と、再生の物語よ」
あかりが、言葉を継ぐ。
そうだ、これしかない。どちらかが役を奪うのではない。どちらかが役を降りるのでもない。二人で、一つの魂を演じきる。それが、この映画の、そして自分たちの、唯一の答えだ。
五
クライマックスの撮影当日。新城監督の前に立った二人の表情に、もはや迷いはなかった。
「監督。私たちの答えは、出ました」
あかりが、代表して告げる。
「私たちは、聖女アルテナと悪女リベラを……二人で演じます」
その言葉の真意を理解した監督は、一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をし、次の瞬間、腹の底から大声で笑い出した。
「ハッ……ハハハ!ブラボーッ! そう来たか! 君たちは、最高の役者だ! いや、もはや哲学者だな!」
監督は、涙を拭いながら叫んだ。
「よろしい! その狂気、その答え! フィルムに焼き付けて、世界に見せてやろうじゃないか!」
処刑台のセットへと向かう、あかりと美優。二人は、視線を交わし、力強く頷き合った。その瞳には、互いへの絶対的な信頼と、これから始まる伝説のクライマックスに挑む、役者としての歓喜の光が燃えていた。




