第18話
天海あかりは、森崎美優の細い手首を掴むと、楽屋から無言で引きずるように連れ出した。その瞳には、有無を言わせぬ強い意志が宿っている。向かう先は、モニターの前で腕を組み、面白そうに成り行きを見守っていた新城監督の元だった。
「監督」
あかりの静かな声に、スタジオ中の視線が集中する。
「役を交換して、撮影を再開してください」
その場にいた誰もが、耳を疑った。プロデューサーが慌てて駆け寄り、「天海くん、何を言っているんだ!そんな無茶苦茶な!」と声を荒らげる。スタッフたちも「スケジュールが…」「衣装やメイクはどうするんだ」と口々に囁き合う。
しかし、新城監督は、その全てを制するようにゆっくりと手を上げた。そして、狂人のように爛々と輝く目で、あかりと、その隣で呆然と立ち尽くす美優を見比べた。
「面白いッ!!」
監督の歓声が、スタジオに響き渡る。
「実に、実に面白いじゃないか! 聖女の仮面を被った悪女と、悪女の仮面を被った聖女! これ以上のエンターテインメントがあるかね!? よろしい、やろうじゃないか!」
鶴の一声、いや、狂人の一声だった。その決定に、現場はさらなる混乱に陥ったが、あかりだけは、全てを予期していたかのように静かだった。彼女は、掴んでいた美優の手をそっと離し、「さあ、始めましょう。私たちの『本当の』撮影を」と囁いた。
二
その夜、二人の女優は、それぞれの部屋で交換された台本と向き合っていた。
あかりは、美優が破り捨てた聖女アルテナのページを、一枚一枚セロハンテープで丁寧に貼り合わせていた。その作業は、まるで事件現場を復元する捜査官のようだった。彼女は、完璧な聖女の言葉の裏に隠された欺瞞、矛盾、そして民衆を支配するための冷徹な計算式を、一つずつノートに書き出していく。傍らには、まだ湯気の立つ激辛麻婆豆腐。彼女にとって、役作りとは、熱く、そして冷静な思考のゲームだった。
一方、美優の部屋では、彼女があかりから渡された悪女リベラの台本を、震える指でなぞっていた。これまで自分が見ようともしなかった、汚く、醜い言葉の数々。しかし、あかりの視点を与えられた今、その言葉の裏側から、姉に愛されたいと渇望する少女の悲痛な叫び声が聞こえてくるような気がした。
(痛い……この役、すごく、痛い……)
その痛みは、恐怖であると同時に、これまで感じたことのない種類のエクスタシーでもあった。完璧な仮面の下に押し殺してきた、自分自身の本当の感情が、リベラの言葉と共鳴しようとしている。美優は、初めて「演じること」の本当の快感に、その指先が触れたのを感じていた。
三
翌日、現場の空気は異様な緊張感に包まれていた。撮影するのは、昨日美優が失敗した、バルコニーでの演説シーン。だが、今日そこに立つのは、聖女の衣装を纏った天海あかりだ。
「本番、ヨーイ、スタート!」
バルコニーに立ったあかりは、美優のように、民衆に慈愛の笑みを向けなかった。むしろ、彼らの愚かさと欲望を見透かすかのように、冷ややかに、しかし絶対的なカリスマ性をもって見下ろした。
「――我が民よ」
その声は、優しくない。だが、逆らうことのできない力強さに満ちている。
「救いを求めるか。ならば、ひれ伏しなさい。神にではない。この、私にだ」
台本とは全く違う、アドリブ。だが、その言葉には、神の代行者として君臨する「支配者」としての聖女の覚悟が満ちていた。その場にいたエキストラたちは、演技であることを忘れ、思わず息を呑み、ひざまずきそうになるほどの気迫。モニターを見ていた美優は、呆然と呟いた。
「……あれが、聖女……? まるで、悪魔じゃない……」
しかし、その悪魔的な聖女は、どうしようもなく美しく、そして説得力に満ちていた。
四
次に、悪女リベラの衣装を纏った美優が、石を投げつけられる路地裏に立った。彼女の表情は、恐怖と決意が入り混じり、痛々しいほどに美しい。
罵声が飛ぶ。泥が飛ぶ。美優は、以前のあかりのように、民衆を睨みつけはしなかった。ただ、裏切られた悲しみに耐えるように、唇をきつく噛み締め、瞳を潤ませる。その潤んだ瞳には、憎しみよりも、「どうして?」という問いかけの色が濃く浮かんでいた。
小道具の石が、彼女の頬をかすめる。その瞬間、美優の唇から、マイクだけが拾えるほどの、か細い声が漏れた。
「……痛い……」
それは、リベラの心の声であり、美優自身の魂の叫びだった。そのあまりに生々しい一言に、現場の空気が震えた。新城監督は、モニターの前で身じろぎもせず、その表情は歓喜に打ち震えていた。
セットの隅でその演技を見ていたあかりの口元に、初めて、ライバルの誕生を祝福するかのような、かすかな笑みが浮かんだ。
五
その日の撮影が終わり、機材の片付けが進む中、桜井玲二があかりに近づいた。
「……君は、パンドラの箱を開けたな」
「いいえ」
あかりは、夜の闇を見つめながら、静かに答えた。
「箱は、最初から開いていたわ。誰も、その中を本気で覗こうとしなかっただけ」
「このままでは、二人とも役に取り憑かれて、戻れなくなるぞ」
桜井の言葉には、本気の忠告の色が滲んでいた。二人の女優が、互いの領域に深く踏み込みすぎている。その化学反応は、素晴らしい作品を生むかもしれないが、同時に、彼女たちの魂を燃やし尽くしかねない危険な賭けだった。
あかりは、ゆっくりと桜井に振り返り、夜の闇よりも深く、不敵な笑みを浮かべた。
「それこそ、役者冥利に尽きるじゃない」
その笑顔は、もはや聖女のものでも、悪女のものでもなかった。ただ、純粋に、演技という名の狂気を楽しむ、一人の表現者の顔をしていた。