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第17話

 主演女優が撮影を放棄した。前代未聞の事態に、巨大なスタジオは水を打ったように静まり返り、やがて気まずい囁き声で満たされていく。スタッフたちは顔を見合わせ、対応に窮していた。しかし、その混沌の中心で、ただ二人だけが冷静だった。


 モニターの前で腕を組む新城監督は、その口元に満足げな笑みを浮かべ、「……面白い。実に面白いじゃないか」と恍惚の表情で呟いている。そして、もう一人。天海あかりは、全ての喧騒を遮断したかのように、ただ静かに、森崎美優が消えていった暗い通路の先を見つめていた。


「……君の望んだ通りになったか?」


 いつの間にか隣に立っていた桜井玲二が、低い声で問いかける。


「さあ。舞台から逃げ出した女優に、私が何を望むというの?」

 あかりは、視線を動かさないまま答えた。その横顔は、まるで感情の存在しない彫刻のようだった。

「彼女を追い詰めたのは、君だろう」

「追い詰めたのは、私じゃない。彼女自身がつけていた『仮面』よ」


 あかりは、ゆっくりと桜井に顔を向けた。

「役者は、いつか必ず自分の仮面を壊さなきゃならない。……ただ、その時が来ただけ」


 そう言うと、あかりはヒールの音も立てずに、美優が消えた通路へと歩き出した。その背中には、これから起こるであろう嵐を予感させる、絶対的な静けさが漂っていた。


 二


 森崎美優の楽屋のドアには、鍵がかかっていた。マネージャーが慌てふためくのを尻目に、あかりは「開けて」と短く命じる。有無を言わせぬその響きに、マネージャーはマスターキーでドアを開けた。


 部屋の中は、嵐が過ぎ去ったかのようだった。高級そうな化粧品が床に散らばり、衣装がソファからずり落ちている。そして、部屋の主である美優は、大きな鏡の前でウェディングドレスのように純白の衣装のまま、蹲って泣いていた。


「……何しに来たのよ」

 鏡越しにあかりの姿を認め、美優は憎悪に満ちた声で言った。

「笑いに来たんでしょう! 完璧な聖女様が、無様に泣き崩れてる姿を!」

「別に。泣いているあなたに、興味はないわ」


 あかりは、散らかった部屋を気にも留めず、ゆっくりと美優に近づく。


「私が興味あるのは、あなたがどうして泣いているのか、その理由だけ」

「あなたのせいじゃないッ! あなたが、私の全部をぐちゃぐちゃにした!」

 美優は、わっと声を上げて叫んだ。

「私が信じてきたもの、積み上げてきたもの、全部あなたがめちゃくちゃにしたのよ!」

「私が壊したんじゃない」


 あかりの声は、どこまでも冷静だった。


「元々そこにあったヒビが、見えただけ。綺麗なだけの仮面なんて、重いだけでしょ。窮屈で、息苦しくて……役者には、必要ない代物よ」


 その言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。かつて、世間から「悪女」という仮面を押し付けられ、苦しんだ日々の記憶が、あかりの脳裏をよぎる。


「『イメージ通り』に演じることが、どれだけつまらなくて、苦しいことか……。あなたも、本当はとっくに気づいてるんじゃないの?」


 三


 あかりの言葉は、美優の心の最も柔らかな部分を抉った。図星だった。だからこそ、許せなかった。


「あなたにッ……! あなたに何がわかるっていうのよッ!!」


 美優は、狂ったように叫びながら、ドレッサーの上に置いてあった自分の台本を掴み取った。聖女アルテナのページを開き、憎しみを込めて、それをびりびりに引き裂いた。


「こんなもの、もういらない! 偽物の聖女なんて、私が壊してやる!」


 紙吹雪のように舞う台本の破片。それは、彼女が今まで必死に守ってきたプライドの残骸だった。

 しかし、あかりは眉一つ動かさなかった。彼女は、床に散らばった破片をただ静かに見つめ、やがて、ゆっくりと屈み込んでそれを拾い集め始めた。そして、信じられない行動に出る。


 おもむろに自分の台本を取り出すと、悪女リベラのページを、美優と同じように、ためらいなく引き裂いたのだ。


「……え……?」


 美優は、涙も忘れ、呆然とあかりの行動を見つめる。

 あかりは、破いたリベラのページを、まるで贈り物のように美優に差し出した。


「――交換しましょう」


 その声は、悪魔の囁きのようにも、女神の啓示のようにも聞こえた。


「あなたの『聖女』と、私の『悪女』を」


 美優は、差し出された台本の破片と、あかりの顔を、交互に見た。あかりの瞳は、真剣そのものだった。冗談や気まぐれではない。その瞳の奥には、美優の役者としての魂を、心の奥底から引きずり出そうとする、業火のような覚悟が燃えていた。


「あなたのその壊れた『聖女』、私が本物にしてあげる」


 あかりは、もう一度、はっきりと告げた。


「代わりに、あなたの『悪女』を……ううん、違う。あなたのその、ぐちゃぐちゃになった『本当の心』を、私に見せて」


 それは、挑戦状であり、果たし状だった。そして、崖っぷちに立つライバルに差し伸べられた、あまりにも危険で、魅力的な手だった。美優は、震える指で、その破られた台本に、吸い寄せられるように手を伸ばしていた。

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