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第16話

 映画『双貌のヘメロス』の撮影初日は、冷たい霧雨が降る中で始まった。組まれたのは、王都の路地裏の巨大なオープンセット。悪女リベラが、民衆から「魔女め!」と石を投げつけられるシーンから撮影は開始された。


「いいねぇ、この陰鬱な空気! まさにリベラが生まれるにふさわしい!」


 モニターの前に陣取った新城監督が、芝居がかった声で叫ぶ。その声に、主演の一人である天海あかりは、ゆっくりとリベラとしての立ち位置についた。助監督の「本番!」という声が響く。


 エキストラの民衆たちが、憎悪に満ちた罵声を浴びせ、泥や小石を模した小道具を投げつける。普通ならば、ここでリベラは顔を歪め、憎しみの言葉を返すはずだった。だが、あかりは違う。彼女は、一身に罵声を浴びながらも、ただ静かに、投げつけてくる民衆の顔を一人、また一人と、その瞳に焼き付けるかのように見つめ返した。その表情は無感動ですらあったが、瞳の奥には、裏切られた者だけが持つ、決して消えない冷たい炎が燃えていた。まるで、「お前たちの顔は、全員覚えた」とでも言うように。


「……カーット! ブラボー! 天海くん、素晴らしいじゃないか! その静かなる狂気、ゾクゾクするよ!」


 監督の歓喜の声が響く。セットの隅でその光景を見ていた森崎美優は、知らず知らずのうちに自分の拳を握りしめていた。台本に書かれたリベラは、もっと感情的だったはず。なのに、あかりが演じるリベラは、その悲しみと怒りを内側に凝縮させ、触れることすらできない孤高の存在へと昇華させている。


(……すごい)


 素直な感嘆と共に、胸を焼くような焦りがこみ上げてくる。あかりの演技は、まるでこのシーンの裏側を告発しているようだった。――民衆を扇動し、リベラを魔女に仕立て上げたのは誰か。それは、姉である聖女アルテナではないのか、と。


 二


 午後からは、聖女アルテナが傷ついた民を癒すシーンの撮影だった。純白の衣装に身を包んだ美優は、完璧な「慈愛の聖女」を演じるべく、カメラの前に立つ。


「アルテナ様……!」

「大丈夫ですよ。神のご加護は、常にあなたのそばにありますから」


 練習通り、完璧な微笑み、完璧なセリフ。しかし、彼女の脳裏には、先ほどのあかりの、あの冷たい瞳が焼き付いて離れない。


(私が……私が、リベラをあんな目に……?)


 その思考が、完璧なはずの微笑みを、コンマ一ミリだけ歪ませる。


「はい、カット! ……うーん、もう一回いこうか」


 新城監督の声は、どこか楽しんでいるようにも聞こえた。テイクを重ねるごとに、美優は追い詰められていく。自分の信じてきた「正しく、美しい演技」が、あかりの作った「真実」の前では、嘘に見えてしまう。


 休憩中、セットの隅で一人うずくまる美優に、影が差した。見上げると、涼しい顔であかりが立っている。


「……何か?」

 美優は、棘のある声で返した。

「別に。ただ、あんまり頑張りすぎると、仮面が割れちゃうんじゃないかと思って」

「……! 余計なお世話ですッ! 私は、あなたとは違うんですから!」

「あら、そうなの?」


 あかりは心底不思議そうに首を傾げ、悪戯っぽく笑った。

「私は、あなたも私と同じ種類の人間だと思ってたけど。……違うのなら、残念だわ」


 それだけ言うと、あかりは興味を失ったように踵を返す。残された美優は、唇を噛み締めた。悔しくて、情けなくて、涙が出そうだった。


 三


 そんな二人を、少し離れた場所から桜井玲二が見ていた。彼の役は、双子に仕える近衛騎士団長。物語の鍵を握る重要な役どころだ。撮影の合間、彼はあかりの元へ向かった。


「……あまり彼女を追い詰めるな。本物の硝子細工は、一度壊れたら元には戻らん」

「あら、心配なの? それとも、彼女に期待しているのかしら」

 あかりは、桜井の真意を探るように、じっと彼の目を見つめる。

「両方だ。そして、君が楽しんでいることも知っている」

「……さあ、どうかしら」

 あかりはふいと視線を逸らした。だが、その一瞬の瞳の揺らぎを、桜井は見逃さなかった。


 その日の最後の撮影は、聖女アルテナが王宮のバルコニーから民衆に向かって演説し、彼らの心を一つにするという、物語前半のハイライトだった。セットには数百人のエキストラが集まり、現場は異様な熱気に包まれていた。これが成功すれば、美優は自信を取り戻せるかもしれない。


「では、本番! ヨーイ、スタート!」


 美優はバルコニーに立ち、深く息を吸う。眼下には、自分を信じ、崇める民衆の顔、顔、顔。

「皆のもの、聞きなさい! 我々が今こそ、手を取り合い……」

 セリフは、出てくる。しかし、言葉に魂がこもらない。頭の中で、あかりが演じたリベラの声が響く。


 ――どうせあなたたちも、私を裏切る。


(違う……違うのよ、リベラ……!)

 聖女アルテナとして、その声を否定しなければならないのに、できない。民衆の顔が、リベラに石を投げつけた顔と重なって見えた。


「……あ……う……」


 セリフが、途切れた。完璧主義者の彼女が、ありえないミスを犯した。静まり返るスタジオ。エキストラたちの戸惑いの視線が、針のように突き刺さる。


「……もう、やめて……」


 マイクが、か細い声を拾う。


「私には……できないッ!!」


 それは、聖女アルテナのものではなく、女優・森崎美優の、魂からの叫びだった。彼女は顔を覆い、純白のドレスを翻して、バルコニーから逃げ出した。

 呆然と立ち尽くすスタッフたち。モニターの前で、新城監督の口元が、満足そうに歪んだ。

 そして、セットの影からその全てを見ていた天海あかりは、ただ静かに、逃げていくライバルの背中を見つめていた。その瞳の色は、誰にも読み取れなかった。

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