13話 絶望の淵で舞う、紅蓮の不死鳥
映画『ダークレジェンド』の撮影も、残すところあと僅か。その最終盤に控えていたのは、リリスの運命を決定づける最も重要なアクションシーンであり、この映画の成否を左右すると言っても過言ではない、壮絶なクライマックスだった。物語の終盤、追い詰められたリリスが、宿敵が待ち受ける超高層ビルの最上階へと単身乗り込み、死闘の末、罠にはまって屋上から突き落とされる。しかし、絶体絶命の落下の中で、リリスは最後の力を振り絞り、追撃してくる敵を道連れにしつつ、奇跡的な生還を遂げる――。それは、息をのむようなスペクタクルと、リリスの不屈の魂を象徴する、映画最大の見せ場だった。
撮影を数日後に控え、スタジオ全体がこれまでにない異様な緊張感と熱気に包まれていた。あかりは、このシーンのために、これまでの役作りと過酷なトレーニングの全てを注ぎ込む覚悟を決めていた。彼女にとって、それは単なる演技ではなく、リリスという存在と一体化し、その魂を燃焼させる儀式にも似ていた。
「いいか、天海。これはもう、お前だけのスタントだ」
最終ブリーフィングの場で、片山はあかりの目を真っ直ぐに見つめて言った。その顔には、いつもの厳しさに加え、弟子を見送る師のような、熱い想いが滲んでいた。
「技術は全て教えた。あとは、お前が恐怖に打ち勝てるかどうかだ。それができれば、お前はただの役者じゃねえ、伝説になる」
その言葉は、重く、しかし確かな力であかりの背中を押した。
三好もまた、この日のために心血を注いで完成させたリリスの最終コスチュームを、祈るような手つきであかりに手渡した。それは、深紅と漆黒が複雑に絡み合い、リリスの悲しみと怒り、そして絶望の淵から蘇る不死鳥のような気高さを表現した、まさに究極の戦闘服だった。
「行ってらっしゃい、私たちのリリス様。あなたの最も美しい舞を、世界に見せてあげて」
そして、運命の撮影当日。
スタジオには、天を突くような高層ビルの巨大なセットが組まれていた。何十台ものカメラが様々な角度からあかりを狙い、ワイヤーアクションのための最新鋭の機材、そして万全の安全対策が施されてはいるものの、実際にセットの屋上に立ったあかりは、その圧倒的な高さと、これから行われるスタントの想像を絶する難易度に、思わず言葉を失った。足元が、まるで現実感を失ったかのようにフワフワとする。
一瞬、脳裏をよぎったのは、カーチェイスでの失敗、SNSでの炎上、そして「お前に悪女は無理だ」と投げつけられた数々の言葉――。トラウマにも似た記憶が、恐怖となってあかりの足を竦ませようとする。
その時、そっと肩に温かい手が置かれた。振り返ると、そこには桜井玲二が立っていた。彼は何も言わず、ただ力強く一度だけあかりの肩を叩き、そして静かに頷いた。その無言の激励が、何よりも雄弁にあかりの心に響いた。大丈夫、君ならできる、と。
モニターの前に陣取った監督も、マイクを通して静かに、しかし確信に満ちた声であかりに告げた。
「天海君、私は君のリリスを信じている。君が掴んだリリスの魂を、今こそ解き放つ時だ」
あかりは、ゆっくりと目を閉じた。深く、深く、呼吸を繰り返す。
リリスの孤独を、リリスの怒りを、リリスの深い悲しみを、そして何よりも、どんな絶望の淵に立たされても消えることのなかった「生きる」ことへの渇望を、自身の全身全霊で感じようとした。
(私は独りじゃない…リリスも、きっと独りじゃなかった…守りたいものがあった…だから…)
「私はリリス…私は、生きるッ…!」
カッと目を見開いた瞬間、あかりの瞳には、もはや恐怖の色は微塵もなかった。そこに宿っていたのは、死の淵から舞い戻る不死鳥のような、燃えるように強く、そして気高いリリスそのものの魂だった。
「本番、ヨーイ、スタートッ!」
監督の張り詰めた声が、スタジオに響き渡る。
リリスは、屋上で宿敵と最後の一騎打ちを繰り広げる。片山が「リリスの舞闘」と名付けた、感情の爆発と高度な技術が融合したアクションが、凄まじい迫力で展開される。そして、ついに敵の卑劣な罠にかかり、リリスは、まるでスローモーションのように、夜空へとその身を投げ出された。
ワイヤーに吊られているとはいえ、その落下は、見ている者の息を止めるほどリアルだった。だが、落下するあかりの表情には、絶望だけではなく、むしろ不敵な笑みさえ浮かんでいるように見えた。空中で体勢を立て直し、まるで重力に逆らうかのように身を翻す。追撃してくる敵のドローンを、鞭のようにしなるワイヤーカッターで次々と撃ち落とし、さらには落下する瓦礫を足場にして、壁を蹴り、反撃に転じる。それは、まさに人間業とは思えない、片山が考案したアクションの集大成であり、リリスというキャラクターの真骨頂を示す神業だった。
スタジオの誰もが、固唾をのんでその光景を見守っていた。モニターに映し出されるあかりの動きは、恐怖を微塵も感じさせず、絶望的な状況でさえ美しく、力強く、そしてどこまでも気高いリリスそのものだった。その姿は、見る者の魂を震わせる、圧倒的なカタルシスを伴っていた。
そして、全ての動きを完璧にこなし、最後は計算され尽くした軌道で、あかりは巨大なエアマットの中央へと、まるで羽のように軽やかに着地した。
「カーーーーーーットッ!!!!」
監督の叫び声は、もはや歓喜の絶叫を超え、咆哮に近いものだった。
「ブラボーーーッ! ブラボーだ、天海あかりッ! 君こそが、君こそがリリスだァァァッ!!」
次の瞬間、スタジオは割れんばかりの拍手と歓声、指笛、そして嗚咽ともつかない感動の声に包まれた。片山は、その厳つい顔をぐしゃぐしゃにしながら、ただただ何度も頷き、目に浮かんだ涙を隠そうともしなかった。三好は、隣のスタッフと抱き合いながら、「やったわ…私たちのリリス様が、本当に飛んだわ…!」と泣きじゃくっていた。
桜井玲二は、言葉もなく、ただモニターに映るあかりの姿と、スタジオの熱狂を、感嘆と畏敬の入り混じった表情で見つめていた。郷田もまた、深く頷き、「…大したもんだ。いや、天晴れだ」と、心の底からの称賛を呟いた。
激しい消耗感の中、スタッフに支えられながらゆっくりと立ち上がったあかりは、万感の想いを込めて、スタジオの全ての人々に向けて深々と一礼した。彼女の顔には、涙と汗が輝き、そして何よりも、全てを出し尽くした者だけが浮かべることのできる、清々しい達成感に満ちた笑顔が咲き誇っていた。
この日、この瞬間、天海あかりは、単なる人気女優から、真の表現者へと飛翔した。そして、映画『ダークレジェンド』の、いや、日本映画史に残るであろう伝説のシーンが誕生したことを、その場にいた誰もが、肌で、魂で、確信していた。