11話 魂の慟哭、そして覚醒の紅蓮
涙のSNSライブ配信から数日。世間の風向きは、少しずつだが、確かに変わり始めていた。あかりの元には、事務所を通じて段ボール数箱分のファンレターや応援メッセージが届いた。その中には、前作で共演した俳優仲間たちからの温かい言葉も含まれており、あかりは一人、それらを読みながら再び涙した。だが、それはもう絶望の涙ではなかった。
「私、もう一度、リリスと向き合います」
決意を新たにしたあかりは、マネージャーと共に監督の元を訪れ、深々と頭を下げた。「チャンスをください。次こそ、必ずリリスを掴んでみせます」
監督は、じっとあかりの目を見つめた後、静かに、しかし重々しく告げた。
「…君の涙の訴え、見たよ。あれが演技でないことを信じよう。だが、天海君、これが本当に最後のチャンスだ。それでダメなら――」
その先の言葉は言われなかったが、あかりには痛いほど伝わった。
「はい。覚悟しています」
その瞳には、もはや迷いはなかった。
撮影再開の日。スタジオには、以前にも増して張り詰めた空気が漂っていた。この日の撮影は、リリスと桜井演じるヒーロー・アレスが初めて直接対峙し、互いの信念を賭けて激しく衝突する、物語のターニングポイントとなる重要な格闘シーン。リリスの圧倒的な強さと、その奥に秘められた悲しみ、そしてアレスの正義感が火花を散らす場面だ。
片山は、あかりの肩を叩き、「お前ならできる。リリスの怒りも悲しみも、全部ぶつけろ。俺が教えた技は、そのためのもんだ」と力強く励ました。三好は、あかりのために特別にあつらえた、動きやすさとリリスの持つ凶暴な美しさを兼ね備えた深紅の戦闘ドレスを手に、「今日のあかりちゃんは、炎の女神よ。その炎で、全てを焼き尽くしちゃいなさい!」とウィンクした。
リハーサルが始まった。アレスがリリスの行く手を阻み、正義を説く。リリスがそれを冷ややかにあしらい、戦いが始まる――という流れだ。しかし、あかりの動きには、どこかまだ殻を破りきれない硬さがあった。リリスの感情を理解しようとすればするほど、頭でっかちになり、身体がついてこない。
「天海、そんなものか」
リハーサルを数回繰り返した後、桜井が冷たく言い放った。その声は、いつもの皮肉めいた響きではなく、失望と、どこか焦れたような苛立ちを含んでいた。
「リリスの怒りは、そんなお遊戯レベルのものじゃないだろう。お前がSNSで見せた涙は、ただの同情集めか? リリスの痛みを本当に理解しているなら、その拳に、その蹴りに、もっと魂を込めてみせろ! それとも、やはり清純派のお嬢ちゃんには、本物の闇は掴めないか!」
挑発。それは、あかりの心の最も柔らかい部分を抉るような、残酷なまでの言葉だった。
その瞬間、あかりの中で何かが切れた。プツン、と。
これまでの苦悩、屈辱、SNSでの誹謗中傷、監督からの厳しい叱責、そして何よりも、リリスの計り知れない孤独と悲しみへの共感が、濁流となってあかりの全身を駆け巡った。
「――あなたに何がわかるのよッ!!」
それは、天海あかりの叫びであり、同時に、リリスの魂の慟哭だった。台本にはない、心の底からの叫び。
「リリスだって…!リリスだって、好きで悪女になったんじゃない!! 守りたいものがあったから…!強くならざるを得なかっただけなのよッ!!」
次の瞬間、あかりはリリスとして、まるで獣のように桜井に襲いかかった。その瞳は赤く充血し、憎悪と絶望、そして痛切なまでの愛が入り混じった複雑な光を宿していた。繰り出される蹴りや拳は、もはや型にはまったアクションではなく、感情の爆発そのもの。それは荒々しく、しかしどこか悲しみを帯びた、紅蓮の炎のような舞だった。
「なっ…!?」
桜井は完全に不意を突かれた。これまでのあかりからは想像もできない気迫と、本気で身の危険を感じるほどの鋭い攻撃。咄嗟に防御するが、数発は確実に彼の腕や脇腹を捉える。それは、ただの演技ではない、魂がぶつかり合うような、生々しい衝撃だった。
監督は、カットをかけるのも忘れ、モニターに映るその光景に釘付けになっていた。周囲のスタッフたちも、息をのんで二人を見つめている。それは、もはやリハーサルではなかった。
「カーーーット!!」
ようやく絞り出した監督の声は、興奮で震えていた。
「…今の…今のを、もう一度、頭から撮るぞ!照明!カメラ!全員、今のテンションを維持しろ!」
その声には、これまであかりに向けていた失望の色は微塵もなく、代わりに、才能の覚醒を目の当たりにした演出家としての歓喜が溢れていた。
そして、本番の撮影。
あかりは、完全にリリスと一体化していた。桜井演じるアレスの正論を、嘲笑うかのように一蹴し、人間離れした身体能力で襲いかかる。その動きは、片山が教えたアクションをベースにしながらも、あかり自身の「予測不能な動き」とリリスの感情が融合し、より鋭く、より美しく、そしてより危険なものへと昇華されていた。桜井も、もはや手加減などしていられない。ヒーロー・アレスとして、覚醒したリリスと互角以上に渡り合い、スタジオには二人の魂がぶつかり合うような激しい音が響き渡った。
長い格闘シーンが終わり、カットの声がかかると、スタジオは一瞬の静寂に包まれた。そして次の瞬間、誰からともなく起こった拍手は、やがて嵐のような喝采へと変わっていった。
「…お前、一体…何者なんだ…」
息を切らし、汗だくの桜井は、呆然としながらも、目の前のあかりを見つめていた。その瞳には、驚愕と、そして初めて見る種類の――おそらくは畏敬に近い感情が浮かんでいた。
モニター脇で見ていた郷田は、太い腕を組み、「…フン、化けやがったか、あのお嬢ちゃんが。いや、もうお嬢ちゃんじゃねえな」と、満足そうに呟いた。その口元には、確かに笑みが浮かんでいた。
片山は、声を上げずに拳を握りしめ、その目には熱いものが込み上げていた。三好は、「リリス様、完全降臨よぉぉぉ!」と、ハンカチで目頭を押さえながらも興奮を隠せない。
あかり自身は、激しい消耗感と共に、これまで感じたことのないような高揚感と、何かを突き抜けたような不思議な達成感に包まれていた。これが、リリス。これが、役と一体になるということなのか。
「…これが、リリス…」
彼女の口からこぼれたのは、リリスとしての、確かな実感だった。
この日の撮影現場からの「奇跡のテイク」に関する情報は、瞬く間にSNSを駆け巡った。信憑性の高い業界関係者のアカウントから発信された「天海あかり、覚醒。鳥肌モノの悪女が誕生した」というツイートは爆発的に拡散され、それに呼応するように、あかりが以前から少しずつ更新していた役作りブログ(リリスの複雑な内面や孤独について、独自の深い考察が綴られていた)も再注目された。
「#リリス覚醒」「#天海あかりの本気」「#ダークレジェンド神映画の予感」といったハッシュタグが、瞬く間にトレンドを席巻。数日前までの炎上が嘘のように、期待と称賛の声が、あかりのもとへと押し寄せ始めていた。
天海あかりは、確かに変わった。いや、彼女の奥底に眠っていた何かが、ついにその姿を現したのだ。それは、美しくも危険な、紅蓮の炎のように。