10話 炎上、そして涙のSOS
リリスの魂のかけらに触れたかのような瞬間は、しかし、長くは続かなかった。撮影が本格化するにつれ、天海あかりは再び厚い壁にぶち当たっていた。監督の要求する「リリスの深淵」は、あかりが手を伸ばしても伸ばしても、まるで陽炎のように掴めない。
「天海君、君のリリスはまだ上品すぎる!もっと獣のような獰猛さ、あるいは全てを諦観したような冷酷さが欲しいんだ!」
監督のダメ出しは、日を追うごとに具体的かつ厳しくなる。共演の郷田も、撮影の合間にあかりの側を通り過ぎるたび、「お嬢ちゃん、迷子かい? リリスの闇は、そんなお綺麗な顔じゃ見つけられねえぞ」と、わざと聞こえるように呟いていく。その言葉は、経験に裏打ちされた重みを持ち、あかりの自信を少しずつ削り取っていった。
そして、その日はやってきた。リリスが裏切り者のアジトに単身乗り込み、華麗な剣技で次々と敵をなぎ倒していく、物語前半の大きな見せ場となるアクションシーンの撮影日だ。ジムでの特訓の成果を見せる時。あかりは、三好が「今日のあかりちゃんは、まさに復讐の女神よ!」と太鼓判を押してくれた、動きやすさと妖艶さを兼ね備えた戦闘服に身を包み、緊張感を高めていた。
「いいか、天海。リリスの剣は、怒りと悲しみの舞だ。ただ速く、ただ正確に振るだけじゃダメだ。その剣先の一つ一つに、リリスの魂を込めろ!」
セットの隅では、この日のために駆け付けた片山が、あかりの肩を叩きながら檄を飛ばす。その言葉に頷き、あかりは深く息を吸った。
「本番、ヨーイ、スタート!」
カメラが回り始める。あかりは、教えられた通り、怒りを表情に、悲しみを瞳に宿し、剣を構えて駆け出した。次々と襲い来る屈強なスタントマンたち。練習では、片山が「お前の予測不能な動きが、意外なフェイントになってるぜ!」と褒めてくれた動きもあった。しかし。
ガキンッ!甲高い金属音と共に、あかりの剣が敵の刃に弾かれる。焦りからか、動きが硬い。ステップがもつれる。
「カーット! 天海君、動きが硬すぎる!体操じゃないんだぞ!もっと感情を爆発させろ!」
監督の怒声。あかりは唇を噛み、何度もテイクを重ねる。だが、プレッシャーと焦りが悪循環を生み、動きはますますぎこちなくなっていく。見かねた片山が、モニター脇から叫んだ。
「天海!身体だけじゃねえ、心で斬れ!お前がリリスなら、今、何を感じるんだ!」
心が、追いつかない。
その日の撮影は、満足のいくカットが撮れないまま、重苦しい雰囲気で終了した。
数日後、気分転換も兼ねて、別の重要シーンであるカーチェイスの撮影が行われることになった。リリスが敵組織の追手から、スラム街の迷路のような路地をスーパーカーで逃げ切るという、スリリングな場面だ。
「剣術よりは、まだマシかも……」
シミュレーターでの訓練では、片山から「お前の運転は、良くも悪くも何をしでかすかわからねえからな。それがリリスのトリッキーな運転とハマれば面白い」と、微妙な評価を得ていたあかりは、少しだけ期待を抱いていた。
だが、現実は甘くなかった。
複雑に組まれたスラム街のオープンセット。無数のエキストラ。そして、本物のスーパーカーの運転席。その圧倒的な臨場感とプレッシャーに、あかりの手は汗でじっとりと濡れていた。
「落ち着いて、練習通りに……」
自分に言い聞かせ、アクセルを踏み込む。しかし、練習ではタイミングを掴んでいたはずの最初のコーナーで、一瞬、判断が遅れた。
「あっ!」
慌ててブレーキを踏もうとしたが、コンマ数秒の遅れが命取りだった。スーパーカーはコントロールを失い、セットの壁に激突。幸いスピードは出ていなかったため、あかり自身に怪我はなかったものの、車のフロント部分からは白い煙が上がり、ボンネットの隙間からは小さな火花が散った。
「火だ!消火器持ってこい!」
スタッフの怒号が飛び交い、現場は一時騒然となる。CGで爆発炎上させる予定だった箇所が、図らずもリアルな小規模「炎上」となってしまったのだ。呆然とハンドルを握るあかりの顔は、血の気が引いて真っ白だった。
監督の顔は、怒りを通り越して、もはや能面のように無表情だった。
この「リアル炎上事件」は、瞬く間にマスコミの知るところとなり、SNSはこれまでにない規模で燃え上がった。
『#やっぱりドジっ子じゃ済まされない』
『#悪女失格どころかリアル現場クラッシャー天海』
『#ダークレジェンド撮影中止か? 税金の無駄!』
『清純派とか言ってる場合じゃない、プロ失格だろ』
誹謗中傷の嵐は、あかりの心をズタズタに引き裂いた。所属事務所の株価にまで影響が出たという噂も耳に入り、あかりは完全に自信を失い、部屋に閉じこもってしまった。
「あかりさん、少し休んだ方がいいかもしれませんね…」
マネージャーが心配そうに声をかけるが、あかりの耳には届かない。ベッドの上で膝を抱え、スマホの画面に流れる罵詈雑言を、ただ無気力に眺めているだけだった。もう、何もかも終わりにしたい。引退の二文字が、現実味を帯びて頭をよぎる。
そんな絶望の淵で、ふと、前作のドラマで共演した子役の女の子からもらった、拙い文字で書かれたファンレターの束が目に入った。「あかりおねえちゃんみたいになりたいです」。その言葉が、乾ききった心に小さな雫を落とす。そして、台本の隅に書き留めたリリスの台詞が、まるで彼女自身の声のように蘇った。
『――何度打ちのめされようと、私は再び立ち上がる。それが、私の存在理由だ』
その時、スマホが震えた。三好からだった。
「あかりちゃん、大丈夫!? SNSなんて見ちゃダメよ! あんなの便所の落書きなんだから! それより、新しいリリス様の戦闘ドレス、見てやってよ! あんたがこれを着て復活する姿、三好様は信じてるんだからね!」
相変わらずのハイテンションだが、その声には確かな温かさがあった。続いて、片山からも無骨なメッセージが届いた。「おい、天海。いつまで寝てやがる。お前の席は、まだ空けてあるぞ」。
そして、桜井からは、マネージャー経由で短いメモが渡された。『転んだ先に何を見るかだ。見ているものは、見ているぞ』相変わらず素直じゃないが、その言葉には、彼なりの不器用な叱咤激励が込められているように感じられた。
「…みんな…」
あかりの瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出した。もう一人じゃない。支えてくれる人がいる。そして、待っていてくれるファンがいる。
あかりは、震える手でスマホを操作し、予告なしにSNSのライブ配信を開始した。画面に映ったのは、少しやつれ、泣き腫らした目をした、いつものキラキラした天海あかりとは程遠い姿だった。
「み、皆さん…こんばんは。天海あかりです…」
声が震える。コメント欄は、驚きと、まだ冷めやらぬ批判の声でざわついている。
「あの…この度は、私の不注意で、たくさんの方にご心配とご迷惑をおかけして、本当に…本当にごめんなさい…」
深々と頭を下げるあかり。
「…正直、悪女って、すっごく、すっごく大変です…。痛いのも、怖いのも、本当は…イヤなんです…」
涙声で、本音がこぼれる。
「でも…リリスは…私が演じているリリスは、私なんかより、ずっとずっと、たくさんの痛みと、たくさんの悲しみを抱えて…それでも、たった一人で戦ってきたんだって思うと…だから…」
言葉を詰まらせながらも、あかりは顔を上げた。その瞳には、まだ涙が滲んでいたが、奥には確かな光が宿っていた。
「だから、もう少しだけ…もう少しだけ、私に時間をください。必ず、リリスとして、皆さんの前に立てるように…頑張ります。本当に、ごめんなさい…そして、ありがとう…ございます。 #リリスの涙 #悪女だって泣きたい夜もある」
最後は少しだけ、いつものあかりらしい、はにかんだような笑顔を見せた。配信は数分で終わった。コメント欄は、まだ賛否両論渦巻いていたが、その中に、少しずつ変化が見え始めていた。
『ただのドジっ子じゃなくて、人間味あるじゃん…』
『なんか、応援したくなってきた』
『#リリスの涙に共感 …頑張れ、あかり』
『#悪女だって泣きたい夜もある …わかるわー』
そのライブ配信を、偶然、自宅で見ていた映画監督は、グラスを傾ける手を止め、画面の中のあかりをじっと見つめていた。そして、小さく、誰にも聞こえない声で呟いた。
「…フッ、面白いじゃないか、天海あかり」
その口元には、ほんのわずかだが、笑みが浮かんでいた。
嵐はまだ止まない。だが、その嵐の中で、小さな種が、確かに芽吹こうとしていた。