―春の章・啓蟄ー「よろしく」
「春の章」を基に描かれる、もう一つの物語。
桜の樹の下で別れを告げた少女は、何を思い、何と出会うのか?
「またね。」
別れの挨拶を告げたときのまことの顔は、はっきりとは見えなかった。いや、はっきりと見ようとしなかった、と言う方が正しいかもしれない。「またね。」への返事も待たず、千秋は桜並木の中を歩き、まことの元から遠ざかる。まことの顔を正面から見ることもないまま、桜の木の下を後にした。
思えば、「同じ大学を受けていない」と話した時の彼女の表情も、千秋にとっては見るに堪えないものだった。千秋が口を開くたびに、まことの取り繕っていた口元の緩みが、だんだん引き締まっていく。口端の下がりきった彼女の顔を見る前に、千秋は視線を地面の方へと移していた。「ごめん」と告げたときに地面に落ちていた桜の花びらが、頭の片隅に遺っている。
こんなことになるくらいだったらもっと早く言えばよかったのに。そうすれば、まことのあんな表情、見ることもなかったのに。
『弱い自分を見せたくない』、『駄目な自分を見せたくない』という無意味なプライドの高さ。自分は優秀な人間であると盲信する傲慢さ。誰かに相談をしたくないという意地の悪さ。露呈した自分の醜い部分を、全て呪い殺してしまいた。
「馬鹿だなぁ、わたし」
プラスチックで作られたボールで遊ぶ男の子と、それに付き合う母親を横目に、桜の数が少なくなってきた道を進む。歩を進める千秋の唇は、自分にしか分からない程、小刻みに震えていた。
*
桜の樹の下で会って以降、まこと千秋は一切連絡を取ることはなかった。千秋から再び会うことも、まことから会いに来ることも決してなかった。『いいよ』という相手からの最後の返信を見て、まことのアカウントもブロックしてしまった。
そして、まことの影姿を一瞬間も見ることなく、千秋は高校生まで自分がいた居場所を離れ、人生初の新幹線に乗り、瀬戸内地方の、自身が第二志望として挙げた国公立大学へと入学した。
大学、という場所は異質な空間だ。受ける授業を自分で選ばなくてはならない。クラス、というような定位置もない。だが、それよりも異質なのは、見知った人間が一人もいないということだ。知り合いなど一人いればいい方。地方も、地域も何もかも変わった千秋にとって、全員が初めて出会う人、というのは当然のことだ。
一緒に雑談をできる人も、誰もいないまま、学部オリエンテーションが行われるという教室へと足を運ぶ。スライド式の扉を開けると、教室内には大半の学生がすでに集まり始めていた。どこか空いている席はあるだろうか。室内を見渡すと、前から五列目の通路近くの場所に、誰にも座られていない席があるのを見つけた。緊張していた肩を下ろし、千秋はその場所へと向かう。狙いの席の隣には、荷物を挟んですでに一人の女子学生が腰をかけ、PC上で配布された資料を読んでいた。
「あの!隣、座ってもいいですか」
「え、あ、はい、もちろん」
そこに座っていた彼女は、茶髪のショートヘアに深緑色の花柄のワンピースを纏っていた。荷物を移動させる彼女に、千秋は目を見開く。
可愛い。素直にそう思った。そして、その次に話してみたいと思った。
荷物を動かし終わったことを確認し、彼女の隣へと腰を掛ける。背負っていたリュックサックを下ろし自身のPCを出し終わるまでにも、千秋の視線は動作が一つ終わるごとに彼女の方へ向けられていた。
話してもよいのだろうか。口を開こうとすると、桜の樹の下で見せたまことの表情が頭に浮かぶ。まことの表情、そのたった一つが、小学生のころから千秋が行ってきた、隣の席になった子に話しかけるという行動を逡巡させる。
今話したとして、自分は彼女と正直に向き合えるだろうか。まことにさせたような思いを、また、させてしまわないだろうか。でも、それでも、
“話しかけたい”
千秋がたどり着いた結論は、結局は、この感情であった。
「ねえ、君、名前は?」
「え、名前……。えっと、杉浦和花」
「『和花』か。いい名前じゃん」
その言葉を聞いたとき、今まで硬く縛られていた彼女の口元が、ほんの少しだけ上に上がる。彼女の表情を見て、千秋も自身の口元を緩ませる。精一杯の元気をもって、彼女の答えに自分の応えを合わせた。
「わたし、山根千秋っていうの。よろしく!」
ご拝読いただきありがとうございました!「春の章ーまたね」を本編とすると、こちらの「春の章・啓蟄」は番外編的ポジションとなっております。どれほどの友情関係を築いても、後ろめたさきっかけで壊してしまう。そんな彼女の事も愛してやってください。
次回、「夏の章」は、7月下旬、投稿予定です。お楽しみに!




