第4話 エヴォルとの邂逅
「寒いー……もっと着込んでくればよかった。なんで冬なのよ! いた!」
一区画を飛びこえ、玲の視界に入ってきたのはビルとビルの間にしゃがむ男性だった。
そこはマンション近くの路地裏。
表通りに出ればビルの一階に入居したコンビニがあり、人通りもまばらで空から地面に降下しても目立つことが無い場所だった。
玲は男に気取られないように、彼の背後に降りたつ。
アストレバルがない状態で、エヴォルと対峙するのははじめての体験だった。
どきどきと鼓動が高まる。後悔にも近い決まりの悪さが、胸いっぱいに広がる。だが、、任務を達成するんだと言い聞かせて、右足を一歩進み出した。
男はしゃがんだままだ。暗闇のせいで顔は良く見えない。
「見つけたわ! エヴォル……っ。ここで殲滅するんだから!」
玲は力強く宣言した。
黄色がかった寝間着というちょっとカッコがつかない服装だったが、玲はびしっと決めたつもりだった。
天眼が示す光点は赤いまま点滅している。まだ憑依したエヴォルが発芽し、被害者の肉体と精神を乗っ取る手前だと玲は踏んでいた。
「なっ、なんだ君は、どこから出てきた? 俺は別になにもしていない――」
「は? 会話ができるの? あなた、赤い宝石みたいなものを拾わなかった? もし、持っているなら渡してほしいの。それはあなたが持っていていいものじゃないわ」
「そ、そんなもの知らないよ……」
男は振り返ると、視線を上に向けて知らんぷりを決め込んだ。
しかし、顔色が悪い。彼は「う、うううっ……」と呻き再びしゃがみこんでしまった。
おかしいわ、やっぱりこの人、エヴォルに取り込まれようとしている。だったら、ここでオートリテを使って、ワールドポケットを発動できればなんとかなる……、と考えてしまう。
玲は片手をつきだして、エヴォルが憑依している被害者を空中で掴むような仕草をした。
すると男の周囲の空間がぐにゃりと歪み、貝がふたを閉じて獲物を狩るように、ばくんっと音を立てて空間が閉じた。
これはオートリテと称される力によるものだ。人類はまだその存在を確認していないが、オートリテはオルスでは当たり前のように使われている。空間を自在に操ったり、衝撃破を生み出したりとさまざまな扱いができる。
玲たちは地球にある少ないオートリテをアストレバルを身にまとうことで集約し、オルスにいるときとおなじような技をもって、エヴォルと戦うのだ。
今回は空間と空間の間に「次元の狭間」と呼ばれる、特殊な力場を生み出した。
ワールドポケットは空間と空間の狭間を人工的に作り出し、エヴォルを閉じ込める技だ。
この空間に入ってしまうと、エヴォルは動力源である憑依した相手との交信が途絶えてしまい、憑依する前の状態――こぶしほどの宝石「アマノダイト」になって活動をやめてしまうのだ。
憑依対象はこれでエヴォルから解放され、安全かつ無事に憑依前の状態に戻ることができる。
ワールドポケットは対エヴォル戦では欠かすことのできない必須の技術だ。
だが、アストレバルが発動し装甲をまとっているときでないと、確実な作動は難しい。
『シュウウウウウっ』
閉じた空間を操作して、憑依された男をエヴォルから解放し、アマノダイトを回収しようと玲がつぎの手順に入ったとき、不気味な音があたりに響いた。
空間に裂け目が入り、内側から淡い光が漏れだして、路地裏の暗闇を鈍色の閃光がおおった。
眩しさに思わず手で目を覆った玲は、ワールドポケットが機能しなかったことを悟る。
蒸気が噴き出すように不気味な音をワールドポケットの包みが解けると、全身に真っ赤な装甲をまとった、エヴォルが出現したのだった。
「オートリテが発動……しない?」
玲はとっさに後方に飛んで、距離を取った。
しゃがんでいたエヴォルは、甲高い笛を吹くような叫び声とともに立ちあがり、玲へと視線をむける。
ぎらりとねめつくような真紅の視線に射抜かれ、玲は思わず背筋をそらしてしまう。
幾度も挑戦しこなしてきたエヴォル退治なのに、死線を踏みつけてしまったような、おそろしい恐怖を感じたからだ。
息をするように扱ってきたオートリテがうまく扱えず、アストレバルをまとうこともできず、確実だと狙って放ったワールドポケットが通じない。
異常な事態。人間なら海に引きこまれて息が苦しくなり、逃げ出すことができない死の淵にいるような感触だった。
にらみあうのは一瞬。
玲を敵と認識したエヴォルは、再度、瞳を真紅にまたたかせると左手をおおきく動かした。
途端、手が何倍にも膨れあがり、すさまじい速度で玲に叩きつけられる。
だが、半分ほどの距離ですぐそばにあったビルの壁面にあやまってぶつかり、コンクリートの壁が半壊し、エヴォルは態勢を崩してしまう。
ごしゃっという鈍い音とともに飛び散る破片を避け、玲は後ろ脚を強く蹴りこんだ。
全身に残ったありったけのオートリテを集約し、人間がだせる速度を超えた速さでふらついているエヴォルと交差する。
「まだ、終わってない!」
瞬間、玲の手が激しく揺れた。
掌がエヴォルの胸の部分に触れるか触れないかという距離で交差して、玲はその場を駆け抜け、数メートル先で停止する。
もし、その場に誰かがいたら玲の腕が複数生えたように見えただろう。
エヴォルとの距離がもっとも近づいたとき、ワールドポケットを瞬間的に発生させた玲は異空間を通してエヴォルの肉体から、核を抜き取ったのだ。
人工的に歪められた空間が、鏡のように乱反射して玲の腕がたくさん生えたように映ったのだ。
格を抜き取られたエヴォルは、宿主をむしばんでいた装甲と分離されて、崩壊していく。ガラガラとうるさい音がしてでてきたのは、さきほどまでしゃがみこんでいた男性だった。
ベージュのコートを羽織り、仰向けになってたおれている彼の口元から白くなった息がみてとれる。
たぶん、無事だ。
玲は彼の安否をもっと確実にしたかったが、いまは自分のほうが限界だった。
ただでさえ寝込んでいたのに、さらに生命エネルギーである全身のオートリテを消費してエヴォルを撃退したものだから、気を抜けばいまにも意識がとびそうになる。
「あ、だめだ、これ……きつっ」
ふらっ、ふらっ、と視界が揺れて、下半身を意識していないと立つことさえ容易ではなくなってしまう。
あの場所に戻らないといけない。
沙也加が待っている場所。いいや、待っていれば彼女が戻ってくる場所。
仲間がいる部屋へと心が惹きつけられる。
帰らなくちゃ……。逃げなくちゃ、空に――。
ビルの谷間から見上げた空には、小さな月が浮いていた。
ああ、そうか。
この世界の月はひとつなんだ、と思いだす。
故郷のオルスにあるのは三連の月だ。
赤、蒼、銀の美しい夜空を彩る、あの月光がなつかしい。
玲は遠く浮かぶ地球の月に手を伸ばしたまま、なかば力つきるようにして、膝から地面に崩れてしまう。
あとすこし、オートリテがあれば……。
手にしたエヴォルの核を使えば、なかに秘められたオートリテを回収することが可能だと思い至るまで、ちょっとだけ時間がかかってしまった。
「はあ。だめだ。私、どうしたんだろ。こんなんじゃなかったのに」
核はもう二度とエヴォルに戻らない。回収してオルスへと持ち帰ることが玲の任務だ。
すこしだけ力を回復しよう。
アマノダイトを両手にして、エネルギーであるオートリテを取り出そうとしたそのとき。
ごりっと音がした。冷たい金属製のなにかが後頭部に押しつけられた音だった。
「動かないで。その核を下ろしなさい。あなたが持っていても意味がないものよ。人間」
聞き覚えのない少女の命令。
低く押し殺したような緊張感に包まれた声が、路地裏に小さく響いた。