第八章 和睦
ヨシュア山塞のあと始末をしつつ一週間がすぎた。ようやく王宮から伝書鳩がとどいた。
作戦会議でロードシア公爵が文を読みあげた。
「ワインバッハ帝国から賠償金をもらって和睦だそうだ。戦争は終わりだな」
ボルトン侯爵が立ちあがった。
「認められん! 認めるわけにはいかん! 和睦してどうする! 断固反対じゃ! ワインバッハ帝国をほろぼさねばまた戦争をしかけて来るぞ! だんじて認められん! 徹底抗戦あるのみじゃ! いますぐワインバッハ帝国をたたきにリズリズ山脈を越えるべきじゃぞ!」
コロンビータ公爵がマクミラン侯爵とネルーダ侯爵に合図した。マクミラン侯爵とネルーダ侯爵がボルトン侯爵をつれ出した。慣れたものであった。
ボルトン侯爵の声が遠ざかるとみんなホッとした。
ロードシア公爵が全員の顔を見回した。
「天幕をたたんで王都に凱旋するぞ!」
「おーっ!」
知らせが行きわたると歓声が起こった。
「やっと家に帰れるぞ! 生きて帰れるんだ!」
陣地が引きはらわれて帰路の行軍がはじまった。足取りは軽い。
町々で歓迎を受けながら王都に着いた。王都では市民が総出でむかえてくれた。
生き残った貴族たちが先頭で馬上から手をふった。
アーサーがわがはいの手をつかんだ。
「悪い気分じゃないね」
「さよう。ひとり殺せば人殺しで千人殺せば英雄と言うからな。アーサーも人殺しじゃが英雄にちがいない」
「いやな言い方だねえ」
「人を殺す苦さを忘れぬほうがよい。戦争はないほうがよいからな」
「そうだね。デルバイン兵も三百人が死んだもの。戦争はもういやだな。このあと死んだ兵たちの遺族におカネをわたしに行くなんて気が重いよ」
王都の市民に顔見せが終わると王都の外に天幕が張られた。戦争の前は五万人であったがいまは一万人弱である。さびしい感じがぬぐえなかった。
翌日に使者がおとずれた。
「アーサー・デルバイン伯爵代理。これより論功行賞がおこなわれる。王宮へ参上するように。従者はふたりまでゆるされる。なおエドガーとオルドットとラインレントなる者も同行するように」
使者が去るとアーサーがわがはいののどをなでた。わがはいはゴロゴロとのどを鳴らした。わがはいはほこり高き猫又である。だがなでられるとのどが鳴るのをとめられぬ。そればかりは猫の習性であろう。
「ねえニャウン。エドガーとオルドットとラインレントをなんで同行させなければならないの?」
「論功行賞と言っておったろ? エドガーたちは五虎将軍を討ち取ったわけじゃ。いわばこの戦争の英雄であろう。なんらかのほうびをもらえるということじゃろうな」
「ああ。なるほど。そういうことね。口が悪いのをしかられるのかと思った」
「それもあるかもしれぬ。戦闘中は公爵まで怒鳴りつけておったからな」
「あぶねえから前に出るんじゃねえってロードシア公爵に叫んでたものね」
王宮の門をくぐると貴族と従者たち全員が玉座の間にむかえ入れられた。戦争前は八十七人いた貴族が十一人になっておった。
じゅうたんの両わきに大臣たちがならんでおる。玉座には王がすわっておった。
王のかたわらにいる宰相がヒゲをはやした王になにやら吹きこんだ。王の口がひらく。
「みなの者このたびの戦争ご苦労であった。これより行賞を発表する。公爵には金貨五百万枚。侯爵には金貨三百万枚。伯爵には金貨百万枚。子爵には金貨八十万枚。男爵には金貨六十万枚。それぞれに与えることとする。なお戦死した兵の遺族には王国より年金が支給される。無駄死にではないと伝えるように。最後にエドガーとオルドットとラインレントは前に出よ」
エドガーたち三人が玉座に進んでひざをつく。
「そなたら三名がワインバッハ帝国の五虎将軍を討ち果たしたそうじゃな? まちがいないか?」
エドガーが代表して口を切った。
「ははーっ。まちがいございません」
「よろしい。ではそなたら三名に男爵位を贈る。領地はのちほど宰相から説明を受けよ。次にアーサー・デルバイン伯爵代理は前に」
エドガーたち三人が引き返して代わりにアーサーがひざまづく。
「アーサー・デルバイン伯爵代理。そなたは最前線にて的確な指揮を取ったと聞く。特別褒賞として金貨五十万枚を授与する。おもてをあげよ」
「はい。ありがとうございます王さま」
アーサーが王さまと見つめ合った。アーサーも王も通じ合うものがあるみたいであった。わがはいはあらためてふたりが似ていると感じた。
玉座の間を出ると声が追いかけて来た。
「アーサー卿。アーサー卿。待ってください」
ふり返るとダルム男爵であった。ラインレントの主だ。骨折したせいで杖をついておる。
「ああ。ダルム男爵ではありませんか。足はもうよろしいので?」
「まだ杖なしでは歩けませんがね。それよりアーサー卿。このたびはラインレントがお世話になりました。あなたのおかげでラインレントは死なずにもどって来れました。おまけに男爵位までちょうだいすることができてどう感謝すればいいのかわかりません」
「ぼくの力じゃないですよ。ラインレントが優秀だからです。ぼくのほうこそダルム男爵には感謝しかありません。ラインレントがいなければ五虎将軍には勝てなかった。うちのエドガーとオルドットも戦死したでしょう。ほかにも多数の戦死者が出たはずです。ぼくもおそらく死んでたと思います」
「そんなことはありますまい。アーサー卿の剣の腕はたしかだと聞いておりますよ。ラインレントがいなくてもアーサー卿なら五虎将軍を討てたはずですな」
「いえいえ。ぼくなんかとてもとても」
そこにラインレントが割りこんだ。
「ダルム男爵。俺なんかが男爵になっていいんでしょうか? 孤児院出の俺を隊長にまで抜擢くださったのは男爵です。俺はあなたの部下でいたい。まだ恩を返せてないんです。王にたのんで爵位の返上を」
「だめだ。ラインレント。きみは私にはすぎた部下だ。今回の授爵は私の目がまちがってない証明だよ。きみが男爵位を返上すると私に人を見る目がないと世間に宣伝するのと同じだ。きみは私の名誉のためにも男爵になるべきだよ。きみが男爵になることで私の自尊心が満足する。私が見こんだ男は五虎将軍を討ち取るほどの勇士だったと自慢できるからね。だからきみは誰に遠慮することなく男爵になれ。それが私のためにもなるし恩返しでもある」
「男爵!」
ラインレントがダルム男爵に抱きついた。
エドガーがアーサーの肩をつついた。
「ダルム男爵に人を見る目があるのはたしかだな。アーサーにラインレントを託さなければラインレントは死んでたし手柄も立てられなかった。うちの伯爵代理が戦場であんなにたよりになるとは俺も思ってなかったよ。てっきり後方に引っこんで雑務をこなすんだとばかり考えてた。その歳でなんであんなに冷静なんだ? はじめての戦場だろう?」
アーサーがわがはいを見た。
「ぼくには守り神がついてるからだよ。ぼくの危機には助けてくれるって知ってるもの」
「ああ。たしかにその猫には助けてもらったな。なるほど。その猫のおかげか。納得だよ」
オルドットがわがはいに顔を向けた。
「俺も男爵になるみたいだけどその猫のおかげだよな? なにかみつぎ物をしたいけどその猫ってなにが好きなんだい?」
アーサーがすこし考えた。
「ニャウンはウサギの肉が好きだよ」
「そうか。じゃウサギをささげさせてもらおう。ニャウンさまさまだものな」
わがはいはデルバイン伯爵家に来て魚が好きになった。猫は水が苦手である。そのため魔の森では魚を捕れなかった。デルバイン伯爵家の料理人は腕がよい。魚を見る目もたしかであった。新鮮な魚があれほどうまいと長年生きて来てわがはいははじめて知った。のちほどアーサーに訂正させるとするか。みついでくれるなら魚がよいと。
ミラフィールドの町にもどるとシルフィーナが門で待ちかまえてアーサーの馬の首に抱きついた。
「お兄さま! 大活躍だったそうね!」
アーサーが馬からおりてシルフィーナを抱きしめる。ひとつの季節を会わなかっただけなのにシルフィーナが大きくなった気がした。
「シルフィーナのおかげで勝つことができたよ。ありがとうシルフィーナ」
シルフィーナがアーサーの耳に口をよせてささやいた。
「どういたしまして。でもキケムとクンスーのおかげでしょ? 聞いたわよ。キケムたちの大仕事を」
「あのふたりにももちろんお礼を言うよ。でもシルフィーナが手配してくれたからだよ。本当に助かった。ありがとうシルフィーナ」
「まあ無事に帰って来てくれてほっとしたわ。だってアーサーったら木で鼻をくくったような報告しか書かないんですもの。かえって心配したわよ。うわさでは大激戦だっていうのにいつも心配するなばかり。うそを書いてるとしか思えなかったわ」
「それはごめん。本当の戦況を書くとシルフィーナが眠れなくなると思って」
「そんなにひどい戦いだったの?」
「四万人が死んだからね」
「そう。たいへんだったのね。なのにわたしったら毎日手紙を書けなんて」
「いいんだ。きみの手紙を毎日読めて生きる力になったよ。生きのびれたのはきみのおかげさシルフィーナ」
「あら。そんなこと言われるとうぬぼれるわよ?」
「おおいにうぬぼれてほしいね。キケムとクンスーをこわがらない女性ってだけでも胸を張っていいよ」
シルフィーナが自分の胸を見おろした。シルフィーナは巨乳ではなかった。むしろつつましやかな胸であった。
「皮肉にしか思えないけど? まあいいわ。ニャウンもありがとうね。お兄さまを絶対に死なせないって約束を守ってくれたものね」
わがはいは複雑な心境になった。たしかにわがはいがいなければアーサーが大ケガをしていた場面があった。だがたまたま守れただけである。五虎将軍のうちのひとりでもアーサーに向かって来ればどうなっていたかわからぬ。わがはいは人語をしゃべるのと二足歩行ができるだけの猫又である。力は猫と変わらぬ。アーサーを守り切れたかはとんとわからぬ。
アーサーがキョロキョロと周囲を見回した。
「お父さんとお母さんは?」
「母さまが熱を出しちゃって父さまが看病してるわ」
「病気なの?」
「風邪よ。季節の変わり目にはたいていかかるの。知ってるでしょ?」
「ああ。そうだったね」
いつしか秋風が吹くようになっておった。真夏の戦場で戦ったのがきのうのように思える。
シルフィーナが護衛の四人を置き去りにアーサーの馬にまたがった。アーサーとシルフィーナを乗せた馬を先頭にデルバイン屋敷に行軍した。
ミラフィールドの街の人々の歓声につつまれてデルバイン屋敷に到着した。屋敷の門ではデルバイン伯爵とヘンリエッタと使用人一同が顔をそろえていた。
アーサーが馬をおりた。
「お母さん。熱は大丈夫なんですか?」
「アーサーが帰って来たらさがっちゃったわ。お帰りなさいアーサー」
「ただいま。お父さん。お母さん」
伯爵がアーサーに抱きついた。足は引きずっていたものの杖なしで歩いている。間もなく全快のようだ。
「わが息子アーサーよ。大活躍だったらしいな。あぶない目にあわなかったか? ちゃんと食事は取れてたか? エドガーが二日酔いで足を引っぱらなかったか?」
エドガーが面目ないという顔になった。
ヘンリエッタが口をはさんだ。
「あなた。一度に訊いても答えられませんよ。くわしい話はあとでゆっくりと」
「そうか。そうだな。ではアーサーの持ち帰った金貨百万枚を千人の兵にくばろう。みんなそのカネを手に家に帰るがいい。戦死者の家にはあとで私がみずから持って行く。部下が戦死した者はそう言ってやるといい」
ワーッと歓声があがった。執事のフレンジャーが兵たちを一列にならばせる。ひとりずつ革袋に金貨を入れて手わたした。
最後にオルドットとエドガーが残った。フレンジャーがオルドットとエドガーも呼ぶ。
オルドットがおずおずとフレンジャーの前に進んだ。
「俺たちにもくれるんで?」
「もちろんだ。お前たちふたりが最大の功労者と聞いてる。みんなと同じ額でもうしわけないが」
「でも俺たちは男爵位をもらえるって?」
「それとこれとは別だ。そうでしょう旦那さま?」
伯爵がオルドットとエドガーに顔を向けた。
「そのとおりだ。男爵になってもカネはあってこまるものじゃない。受け取りなさい」
オルドットとエドガーがそろって頭をさげた。
「ありがとうございます伯爵」
アーサーが五十万枚の金貨が入った箱をフレンジャーにゆだねた。
「ぼくからもふたりに金貨を十万枚ずつ贈るよ。ふたりがいないともらえなかったおカネだからね」
エドガーがアーサーの手をかたくにぎりしめた。
「アーサー。ありがとう。でもそう言うなら俺たちがここに生きてるのは猫のニャウンのおかげだ。俺はニャウンに半分金貨をわたす」
アーサーが苦笑いを浮かべた。
「残念だけどさエドガー。ニャウンは猫なんでね。猫に金貨はどうもねえ」
わがはいは同意だとニャウンと鳴いてみせた。金貨をもらってもほしいものなどない。人間とちがって猫又に物欲はないのである。
「なるほど。そういやそうか。じゃ食べ物をみつがせてもらおう」
兵士たち全員が帰路についた。
伯爵がひと仕事終わったと肩から力を抜いた。
「ではアーサー。風呂にでも入るといい。しばらく風呂に入ってないだろう?」
「そうですね。そうさせてもらいます」
デルバイン屋敷を出てからは野営の連続であった。戦場に着いたあとは風呂どころではなかった。
アーサーとわがはいはひさしぶりにのんびりと湯につかった。
食卓は伯爵の独擅場であった。初戦から最後の戦いまで根ほり葉ほりたずねて来た。
「なるほど。紙一重の戦いばかりだったのだな。よく生きて帰って来れたものだ。無理してでも私が行けばよかった」
アーサーが言葉を飲みこんだ。お父さんが行けばきっと死んでましたとは言えないのであろう。
ヘンリエッタが暗い雰囲気を吹き飛ばそうとちがう話題を持ち出した。
「そうそう。公爵さまふたりと四人の侯爵さまから婚約のお話が来てるわよ。もてもてねアーサー」
えっとシルフィーナが息を飲んだのをわがはいは見た。
アーサーはシルフィーナの様子に気づかないようであった。
「それなんですけどねお母さん。ぼくは結婚すべきなんでしょうか?」
「アーサーしだいだけど相手に会いもしないでことわるとカドが立つわ。ことわるにしても一度は会わないとだめでしょうね」
「わかりました」
伯爵がうんうんとうなずいた。
「コロンビータ公爵さまは娘を嫁がせてもいいと手紙に書いてあった。いい話だと私は思うよ。アーサーにはわが伯爵家を継いでもらわにゃならん。婿入りはできん。公爵さまの娘を嫁にすれば領地の運営も楽になる。なによりコロンビータ公爵さまの娘のガートルード嬢はとびきりの美人だという評判だ。男としてこれ以上の話はあるまい」
伯爵の言葉にシルフィーナの肩がガクンと落ちた。だが気づいたのはわがはいだけであるらしい。
伯爵とヘンリエッタの話を聞くに公爵ふたりと侯爵四人はアーサーのみならず伯爵とヘンリエッタにも手紙を送ったもようである。おそらく将を射んと欲すればまず馬をであろう。伯爵とヘンリエッタを先に味方につければ若造のアーサーは伯爵たちの言うことに引きずられる。特に養子であるアーサーは伯爵たちのすすめをことわり切れまい。
さすがは公爵と侯爵である。人の世の機微というものをわかっておる。
恋愛経験のないアーサーが公爵家の娘にかたむくのは必然と言ってよい。結婚や婚約を恋愛とむすびつけなければそこに残るのは損得勘定だけである。今回のばあい最も得をするのは上位貴族である公爵家にちがいない。
恋は盲目と言う。アーサーに恋愛経験があればそんな打算的な結婚話には見向きもしないであろう。恋をすれば平民だろうが貴族だろうが関係なくなる。恋に計算はない。突きすすむのみである。
アーサーはかなしいことにデルバイン家の女性しか知らぬ。このさい世の中の女性というものに接するよい機会かもしれぬ。わがはいはそう判断した。
アーサーとガートルード嬢の初顔合わせはデルバイン家でおこなわれた。ガートルード嬢にとって嫁として入る家を見ておく必要があったのであろう。もっともガートルード嬢は十六歳である。母のコロンビータ公爵の采配にちがいない。アーサーの両親やシルフィーナとの仲も考慮せねば結婚生活は成り立たぬ。
ガートルード嬢が護衛五人をつれて来家した。わがはいに人間の男の好みはわからぬ。だがガートルード嬢が美少女であることはわかった。ととのった顔立ちである。男が十人いれば九人までがとりことなること疑いなしであった。
ガートルード嬢を伯爵家の四人で出むかえた。
ガートルード嬢が優雅に頭をさげた。
「ガートルード・コロンビータでございます。デルバイン伯爵家のみなさまとは末ながいおつき合いをおねがいいしたしとうございます」
応接室に落ち着くとガートルード嬢が暖炉の上にかざってあった船の模型に目をとめた。
「まあ。精巧な船でございますこと。伯爵さまがお作りになったのでしょうか?」
伯爵が目をかがやかせた。船の模型を作るのは伯爵のゆいいつの趣味であった。若いころに船乗りにあこがれたとかで木をけずって一から作っておった。アーサーも手伝おうとしたが木をうまくけずれず不細工すぎて断念したのであった。
「わかるかね?」
「ええ。伯爵さまは手先が器用でらっしゃるのね。まるで海を疾走してるかのような出来ぐあいですわ。イカリまで緻密に再現されて本物の船みたいですのね」
「そうなんだよ。そのイカリは苦労したんだ。船首の女神像はケロラン神殿にある女神像をまねて作ったんだよ」
「ああ。メルカノンさまの像ですか。胸はこちらのほうが大きいですわね」
「いや。それはまあ。その。個人的な好みというやつで。それより船底の曲線を見てもらいたい。一枚一枚の船板をけずって合わせるんだがこれがまた」
伯爵がえんえんと船の細部を説明しはじめた。ガートルード嬢がいやな顔もせずにふんふんとあいづちを打つ。
伯爵が船の解説を終えるころ執事のフレンジャーが夕食のしたくができたと入室して来た。もうそんな時間かと伯爵家の四人とガートルード嬢が食堂に入った。
料理がはこばれてガートルード嬢が貴族らしい優美さでしずかに食べはじめた。伯爵が口を切ろうとしたのをヘンリエッタが先手を打った。あなたはさっきさんざんしゃべったでしょうと言わんばかりであった。
「ガートルードさまはなにが趣味ですの?」
「わたくしですか? わたくしは乗馬が趣味ですわ」
ヘンリエッタの目が大きく見ひらいた。
「まあ。わたしも乗馬は好きですよ。今度ごいっしょしましょうか?」
「ええ。そうしていただければ。それとわたくしにさま付けは必要ございませんわ。家族になるかもしれないんですもの。ガートルードでけっこうでございます」
「そんなわけにもまいりせんわ。でもじゃガートルードさんということで」
「はい。さきほど厩舎が目に入りましたの。白のオス馬が見えましたがあの馬は二歳くらいでしょうか。速そうでございましたね」
「わかります? あれはユリシスという名でうちの最速の馬ですわ。わたしのお気に入りですが男を乗せるとふり落としますのよ。ガートルードさんならおとなしく乗せてくれると思いますわ。今度乗ってみますか?」
「ぜひおねがいいたします。ユリシスほどの馬でしたら王都でひらかれる乗馬大会でも優勝できるのではありませんか? ヘンリエッタさまが参加なさればよろしいのに」
「王都の乗馬大会ですか? 見に行ったことはありますが参加を考えたことはないですねえ」
「それはもったいないでしょう。いい馬にめぐりあえるのは千載一遇の好機でございます。この機会にためしてみればいかがでしょう?」
「そ? そうでしょうか?」
「ええ。速い馬はなかなか生まれません。この機をのがすと次はないかもしれませんわよ」
「なるほど」
すっかり乗り気になったヘンリエッタとガートルード嬢で馬談義に花が咲いた。
食後のお茶がはこばれたときだ。ガートルード嬢がシルフィーナに顔を向けた。
「シルフィーナさまは伝書鳩を飼っておられるとか? わたくしの母もこのたびの戦争でたびたび伝書鳩を寄こしてくれました。コロンビータ家でも伝書鳩を飼っておりますがよく死ぬのです。死なさない方法などあればお教えくださいますか?」
シルフィーナは最初に自室でわがはいがつかまえた金口鳥を飼っておった。金口鳥が死んだあとはウーフとチータランを飼うようになった。今度の戦争で伝書鳩がふえたせいで鳩小屋を作って鳩の世話をシルフィーナがしておる。
「うちはそんなに死なないわ。でもとりわけ変わったことはしてないわよ。鳥屋におそわったとおりに穀物と野菜をあたえてるだけだわ」
「では小屋の広さとかがちがうのでしょうかね?」
「たしかにそれはあるかも。うちは人間の家なみの大きさの小屋を建てたもの」
「人間の家なみの大きさですか。それならわが家より大きそうですわ。広さも広いのでしょうね?」
「ええ。鳩小屋にしては広いと思うわ。鳥かごで飼ってたのがかわいそうだったので思い切って広くしたのよ」
「どのくらいの広さかのちほど見せていただいてかまいませんでしょうか?」
「いいわよ。案内するわ」
人見知りのはげしいシルフィーナがいつの間にやら引きこまれておった。ひとしきり伝書鳩の話をふたりは交わし合った。
食後のお茶が終わるとガートルード嬢がアーサーに身を乗り出した。
「母から聞きましたわ。アーサーさまは戦闘中もその猫を肩からはなさなかったと。よほどその猫がかわいいのでしょうね?」
わがはいはアーサーのひざの上で丸まってくつろいでおった。食事中は肩の上からひざに移るのが常であった。はたから見ればほこり高き猫又ではなくあまえんぼうの飼い猫にちがいない。
「えっ? うん。まあね」
「アーサーさまがエドガーさまとオルドットさまをワインバッハ軍の五虎将軍にあてて撃退したのだという話でしたわ。五虎将軍は強かったのでしょう?」
「そう。強かったよ」
「母は倒せると思わなかったと言っておりました。どうやって倒したのですか? 弱点のようなものがございましたの?」
「最初のメイストーン将軍はオルドットが馬を射て足をなくしたんだ。そのあとは」
アーサーが戦況を説明した。ガートルード嬢がふんふんとうなずきながら聞き入った。伯爵家の三人もあたらしい切り口が多く耳を立てておった。
ガートルード嬢は聞き出しじょうずであった。各人の得意分野をしらべて本日にのぞんだのであろう。気がつけば夜がとっぷりとふけておった。
ガートルード嬢はその夜は客間に泊まった。あくる朝に鳩小屋を見てユリウスに乗馬したあと帰って行った。伯爵とヘンリエッタはガートルード嬢がいたく気に入ったようであった。シルフィーナは沈んだ顔をするようになった。
ガートルード嬢が帰った翌日にゴブリンの村をおとずれた。シルフィーナがついて来たがったが外出には護衛がいつもふたりつくのであきらめさせた。護衛のふたりにゴブリンの村を知られるとまずいせいである。
ゴブリンの村は村民がふえて規模も大きくなっておった。顔も知らぬ若者たちがわがはいとアーサーをものめずらしげにながめるなか村に入った。
長老が先頭に立って出むかえてくれた。
「アーサーに猫又さま。ようこそいらっしゃいました。なにかご用で?」
「ううん。用じゃないんだ。キケムとクンスーたちにお礼を言いに来たんだよ」
「ああ。このあいだの戦争の件ですか。アーサーたちの役に立ててうれしかったそうです。またご用があれば使ってやってください」
あとで長老の家で歓迎のうたげをすると決まってからキケムの家に招かれた。キケムの家でキケムとクンスーと八人のゴブリンたちと対面した。八人のゴブリンはキケムとクンスーのすぐ下の弟や妹たちであった。アーサーにとっては義弟妹にあたる。
「この前はありがとうキケムとクンスー」
キケムがアーサーを抱きしめた。
「なあに。いいってことよ。俺たちもおもしろかった。人間はあんなふうに殺し合いをするんだな。俺たちはゴブリン同士で戦争はしねえ。けどオークとは殺し合いをする。見てて参考になったよ」
「見てたの?」
「うん。崖に取りついて気がついたんだ。アーサーがあぶなくなったら助けに行かなきゃってな。それでいつでも助けに行ける態勢で見てた。相手のおっさんは強かったなあ。アーサーたちが負けるんじゃねえかってハラハラしたぜ。最後に猫又さまが活躍して決着がついたとき俺たちもやったって声が漏れてた」
「なるほど。それでさ。王さまからおカネをもらったんだ。キケムたちはなにかほしいものある? きみたちも功労者だからおすそわけをしなきゃ」
「うーん。ほしいものかあ? カネはもらったって街に入れねえからなあ。そうだなあ。剣がほしいかな。村民がふえて剣がたりねえんだ。俺たちは剣なんて作れねえからさ」
「わかった。剣を買って持って来るよ。話は変わるけどゴブリンは恋愛ってどうなってんの? 結婚はしないんだろ?」
「はあ? なんだそりゃ? どうしてまた?」
「実はぼくに公爵さまや侯爵さまから婚約のもうしこみが殺到してるんだ。でもどうすりゃいいのかわかんなくてさ。キケムとクンスーはすでに経験があるから」
「それで俺に聞こうってわけか。残念ながら人間の結婚や恋愛の参考にはならねえと思うぜ。たしかに俺もクンスーももう子どもを持ってると思う。でもゴブリンの恋は一時的でさ。子作りが終われば恋も終わりなんだよ。次の恋の季節が来ればまた新しい恋におちる。それのくり返しで特定の女と長くすごさないんだ。子どもも自分の子じゃなくて一族の子だからな」
「ううむ。たしかに参考にならないなあ。人間がそれをやったら社会人失格だよ」
「人間はめんどくさそうだな。ゴブリンは単純だから恋で悩むことなんてないぞ。アーサーはほかの人間を見て参考にするしかないんじゃねえの?」
「だよね」
アーサーが肩を落とした。人間とゴブリンがそこまでちがうと思ってなかったようである。キケムとクンスーはおない歳だが成長速度の関係で兄だとアーサーは認識しておる。デルバイン家の人々やわがはいに訊けないことをキケムとクンスーにたずねるのがアーサーの習慣であった。だが同じ人間同士でも恋愛はむずかしい。おそらく誰に訊いてもアーサーに的確な答えは返らないであろう。
長老たちと宴会をしながらわがはいは思った。次に来るとき長老は死んでおるかもしれぬ。わがはいが最初に会ったゴブリンの大人たちのうち残っておるのは三人である。その三人も長くはない。世代交代の早いゴブリンたちといつまでつき合ってられるかわからぬ。キケムとクンスーが死ねばゴブリンたちとの縁も疎遠になるであろう。ときは待ってはくれぬ。赤子であったアーサーが親になる日も近い。わがはいはいつまで生きられるのであろうか? アーサーの子が生まれるまで生きられるとよいが。
デルバイン屋敷にもどると公爵と侯爵たちの婚約話に追いまわされた。公爵家に足をはこんだりデルバイン屋敷にむかえ入れたりでてんてこ舞いであった。一番遠い侯爵家には馬車で半月かかった。
それぞれが貴族の作法を完璧に習得した令嬢たちであったがガートルード嬢が頭ひとつ抜けておった。話術・立ち居ふるまい・顔立ちとどれを取ってもガートルード嬢にかなう令嬢はいなかった。
アーサーもそう感じたようで自然とガートルード嬢と会う機会が多くなった。アーサーがガートルード嬢に恋をしておるかはわからぬが好意を抱いておるのはたしかであろう。そのぶんシルフィーナがふさぎこむことがふえた。だがアーサーはシルフィーナのゆううつに気づいておらぬみたいであった。
わがはいは好奇心が旺盛なので絶えず周囲を観察しておる。特にアーサーを取り巻く人々から注意をそらすことはない。わがはいは猫又である。傍観者であることはいなめぬ。傍観者であるゆえに気づくことは多い。だが一方で傍観者であるがゆえに人間同士の関係に介入ができぬ歯がゆさもあった。アーサーの恋愛についてはどんな助言をあたえればよいのかとんと見当がつかぬ。ああしろこうしろと言ってやれぬことがなさけなくてたまらなかった。
年があらたまったある日のことであった。とつぜんに王がデルバイン屋敷をおとずれた。いやな予感にわがはいのヒゲがブルブルとふるえた。
十名の護衛が王を守りながらデルバイン伯爵を呼び出した。デルバイン伯爵はなにごとかと門まで急ぐ。
「なに用でございますか王さま?」
王の前を守る護衛を王がかきわけた。
「話があるのじゃ。そなたの家族全員を集めよ」
「はっ。はい」
伯爵が不審顔でヘンリエッタとシルフィーナとアーサーを応接室に呼んだ。十名の護衛とともに王が入室する。
席につくやいなや王が口を切った。
「デルバイン伯爵。アーサーとそなたは血がつながっておらぬと聞いたが相違ないか?」
「はっ。はい王さま。そのとおりでございます」
「ではアーサーの実の両親は誰じゃな?」
「私は聞いておりません」
「ならばアーサーに問おう。アーサー卿よ。そなたの本当の両親はどこにおる?」
アーサーがうろたえた。わがはいはアーサーにふたつの物語を用意した。ひとつはデルバイン伯爵に語ったやつである。両親が死んで魔の森に小屋を建ててひとり暮らしをしておるというもの。もうひとつは。
「ぼくは両親のことを知りません。ぼくは赤ん坊のときに魔の森に捨てられてたそうです。ぼくをひろってくれたのは世捨て人の老人でした。人間ぎらいで魔の森に小屋を建てて暮らしてたんです。アーサーという名もその老人がつけてくれました。デルバイン伯爵には捨て子だと知られたくなくてうそをついたんです。ごめんなさいお父さん」
デルバイン伯爵がアーサーに目を向けた。
「いいんだ。赤ん坊を捨てるなんてひどい親だからな。そんな話はしたくなかったろう」
王が考え顔で口をひらいた。
「アーサー卿。その世捨て人の老人はがっしりした体格だったかね?」
「いいえ。やせっぽちでひょろひょろな老人でした」
「ふむ。昔話をしてもよいかなデルバイン伯爵?」
王の意図がわからないものの深刻そうな王の表情に伯爵がうなずいた。
「どうぞ王さま」
「ありがとう伯爵。十五年前じゃ。わしにはオリアナという側室がおった。オリアナは出産を終えて身体が弱っておった。わしはオリアナに昔なじみのルートビヒ将軍を護衛につけて離宮に送り出した。ここミラフィールドはおだやかな気候で食べ物もうまい。わしは王宮での仕事が残っておっていっしょには行けなんだ」
王の目から涙がこぼれ落ちはじめた。
「執務中のわしにとどいた知らせはオリアナが死んだというものであった。離宮の自室で毒を飲んで死んだと。病弱な身体を苦にしての自殺であろうと侍医の報告書にしるされておった。そしていっしょにおったはずのアリューシャとルートビヒ将軍が消えておった。アリューシャは前年に生まれたわしの息子じゃ」
王が涙のあふれる目でアーサーを見た。伯爵とヘンリエッタとシルフィーナも顔をアーサーに向けた。
アーサーがたじろいだ。
「ぼ? ぼく? ま? まさか?」
王がアーサーに身をのり出した。
「証拠ならあるぞ。わが息子アリューシャは背中に三角のアザがあった。十五年たったいまでもそのアザは消えておらぬはずじゃ。アーサー卿。そなた背中に三角のアザがあるかな?」
「えっ? あるという話です。ぼく自身は見えない場所ですが。でもぼくは王さまの子じゃないでしょう。魔の森に捨てられてた捨て子にすぎません。王さまの息子なんてそんなおそれおおい」
「いや。もうひとつ証拠がある。そなたが腰につけておった剣は誰のじゃ?」
「剣? あれは物心ついたときから持ってますが?」
「いまどこにある?」
「自室にありますが?」
「取って来てもらえるか?」
「は。はい」
アーサーがすぐに剣を手にもどって王にわたした。
「やはり。この剣はわしが側室のオリアナに護衛としてつけたルートビヒ将軍の愛剣じゃ。銘を雲切丸という。赤子がひとりで魔の森に行けるはずはない。ルートビヒ将軍が赤子のそなたをつれて魔の森に入ったんじゃろう。そして何かの理由で倒れた。そこを世捨て人の老人にそなたはひろわれたのじゃ。ルートビヒ将軍の剣といっしょにな。そうとしか考えられん。最初はその世捨て人の老人がルートビヒ将軍かと思ったが将軍はがっしりした体格であった。別人であろうな」
アーサーがさらなる抗弁をしかけて口をとじた。伯爵とヘンリエッタとシルフィーナがしきりにうなずいておったからである。
言葉にまさる証拠はその顔であった。王とアーサーは似ておった。話を聞いてふたりの顔を見くらべれば誰もが親子と確信するほどであった。
王がため息を吐き出した。
「謁見のときから心に引っかかっておったのじゃ。それでひそかにしらべさせた。報告が来れば来るほどアーサー卿がわが息子アリューシャとしか思えぬようになった。デルバイン伯爵よ」
「はっ。はい。なんでしょう王さま?」
「アーサー卿をわしに返してくれぬか? そなたの跡取りをうばうことになるが?」
「いいえ。王さま。私のことなどどうでもいいんです。アーサーは王さまの息子にまちがいないでしょう。アーサーにとっても王さまの元でしあわせになれるはずです。どうぞつれて帰られることをおねがいもうしあげます」
「おお。そう言ってくれるか。ではアーサー卿。そなたはきょうからわしの息子じゃ。わしを父と呼んでくれるか?」
アーサーが伯爵たちを見回した。デルバイン屋敷に残ると言っても聞き入れてもらえそうにない顔ばかりであった。わかれは悲しいけど本当の親の元でしあわせになるのよと言いたげにヘンリエッタとシルフィーナが涙しておった。
それを見てアーサーがあきらめた。
「わかりました王さま。いえ。お父さん。でもひとつだけおねがいがあります」
「なんじゃな?」
「ぼくはずっとアーサーと呼ばれて来ました。たったいまからアリューシャだと言われてもなじめません。アーサーに改名していただけませんか?」
「そんなことか。よろしい。わしもアリューシャとは呼びなれておらん。アーサーでよいぞ。伝説の王の名じゃ。わが息子にふさわしかろう。ではデルバイン伯爵。アーサーをつれて帰ってもよいな?」
「ええ王さま。親子の再会に水をさす気はありません。十五年ぶりの父と子なのですから水入らずでよろこびをかみしめてください」
アーサーが簡単に荷物をまとめた。護衛四人にかこまれて屋敷を出た。
馬車に乗りこもうとするアーサーに伯爵が声をひそめた。
「元気でなアーサー。王宮暮らしがいやになればいつでも帰って来ていいんだぞ。ここはお前の家だ。私はいつまでもお前をわが息子だと思ってる」
「お父さん!」
アーサーが伯爵を抱きしめた。
ヘンリエッタが伯爵のえりを引いて代わりにアーサーに抱きついた。
「アーサー。しあわせになるのよ。みじかいあいだだったけどわたしもあなたのお母さんだわ。母にあまえたくなればいつでもいらっしゃいね。待ってるわよ」
最後はシルフィーナであった。シルフィーナが泣きながらアーサーにしがみついた。
「お兄さま」
シルフィーナは泣きじゃくって言葉にならなかった。言いたいことがいっぱいあるという顔であったが言葉はつまって出て来なかった。
伯爵とヘンリエッタが泣くシルフィーナを引きはがしてアーサーが馬車に乗った。
馬車は一路王都をめざした。
わがはいは複雑な心境であった。わがはいはこの日が来るのをおそれておった。アーサーの実の親が見つかるのはよい。だがそれはアーサーの命が危険にさらされるということでもあった。赤子であったアーサーを殺そうとたくらむ者がいたわけである。いまでもその者は存命かもしれぬ。そうなればふたたびアーサーを殺そうとするであろう。
できればアーサーが王の息子であってほしくなかった。アーサーには平凡でいいから安全な人生を送ってもらいたかった。わがはいとふたりで冒険者として気ままに生きる気楽な人生をわがはいはアーサーにのぞんでおった。
同じ馬車に乗った王がアーサーにさまざまな質問をした。アーサーのこれまでの人生を聞きたがった。だがデルバイン伯爵家にもらわれる以前はゴブリンたちとの生活である。正直に話すわけにはいかなかった。必然うそだらけになる。わがはいが口出しすることもできずにアーサーはしどろもどろであった。
しかし王はアーサーと話しているだけで楽しいらしく終始ニコニコしておった。父と子とはそういうものかとわがはいは感心した。わがはいだけではなく猫のオス親と子はつながりがない。猫のオスに息子との情はわかりえぬ。
もっともわがはいはアーサーと十五年をすごした。わがはいの抱いているこの無条件の感情を親子の情だと言うならそのとおりであろう。猫の親子は十五年もいっしょにすごさぬ。わがはいも十五年も誰かとともに生きたことはない。アーサーだけである。それが親子というものならわがはいにも息子を持った父親の気持ちがわかるということになろう。
王は昨夜眠ってないのか馬車のゆれにともない眠りに落ちた。王が熟睡するのを待ってアーサーがわがはいのヒゲをつまんだ。
「ねえニャウン。ニャウンはぼくの本当のお父さんが誰だか知ってたの?」
わがはいはどう返事をすべきか迷った。知っていたと白状すべきか? 知らなかったとシラを切るべきか?
わがはいの一瞬の沈黙が明白な答えであった。
「知ってたんだね? どうして教えてくれなかったのさ?」
ふたたびわがはいは迷った。そなたを暗殺しようとする者がいる。そう答えるべきか?
「王の息子だと教えたところでどうにもならぬであろう? ゴブリンと猫又と人間の子どもがひとりじゃ。王に会えるわけではない。王の息子だと知ってもコネなどない。なにがあろうと王には会えぬのじゃ。そなたが苦しむだけであろう? それよりはただの捨て子と言ったほうがあきらめがつく。そう判断してふせておったのじゃ。実の父がおると知れば会いたかろう?」
「なるほど。そうかもしれないな」
「わがはいはそなたのためを思っていつも行動しておる。わがはいがそなたのためにならぬことはせぬよ」
わがはいにも判断のあやまりはある。アーサーに暗殺者のことを告げぬのが正解なのか間違いなのかわがはいにはわからぬ。わがはいがアーサーのためを思ってなしてもアーサーのためにならぬこともある。わがはいに未来は読めぬ。よかれと思ってなすのみであった。
馬車が王宮についた。アーサーは一室をあたえられて侍女が三人と護衛が五人つけられた。
死んだと思われていた王子が発見されたことで国中が祝賀にわいた。だがアーサーとわがはいにはあまり影響がなかった。王宮のバルコニーで群衆に手をふったくらいである。
アーサーの王子としての生活は多忙であった。教師が入れかわり立ちかわり個人授業をほどこす。近衛兵たちと剣の訓練をする。ダンスや作法の授業にも多くの時間をついやした。
夜会や舞踏会にも出席しなければならなかった。コロンビータ公爵家のガートルード嬢やその他の侯爵家の娘たちとも茶会をもつ必要があった。
絵師や音楽家といった芸術家たちとも交流会を開催しなければならなかった。
一日のうち一度は王の執務室で王と雑談して食事を取った。王も多忙そうであった。目を通す書類がいつも机に山づみになっておった。
「ところでアーサーや。コロンビータ公爵家のガートルード嬢とつき合っておるそうじゃな」
「えっ? つき合ってるってわけじゃないんですが」
「婚約を前提として会っておるんじゃろ?」
「はい。それはそのとおりです」
「よきことじゃ。王家と公爵家なら釣り合いもよい。将来の王妃としてももうしぶんないであろう」
「お? 王妃ですか?」
「そうじゃが? そなたはわしの跡を継いで王になるのじゃ。王の妻は王妃であろう?」
「ぼ? ぼくが王になるんですか?」
「そなたはわしのひとり息子じゃ。そなたが王にならぬで誰がなる? まあまだ先の話じゃがな。王も結婚もなってみればそれなりにうまく行くものじゃよ。心配するな」
「はあ。そんなものですか」
そのころデルバイン伯爵家ではシルフィーナが泣き暮らしておったそうな。
「シルフィーナ。あきらめなさい。アーサーは王子さまだったのよ。ガートルード嬢は公爵家のご令嬢。王子のアーサーとならお似合いだわ。あなたは伯爵家の娘でアーサーとは釣り合わない。どんなにあなたがアーサーを想ってもとどかないわ」
「いやよ母さま。アーサーはわたしのもの。アーサーはわたしだけのものなの」
聞きわけのないころのシルフィーナにもどっておったそうじゃ。
わがはいはアーサーの授業中に王宮内を探検してまわった。王子の猫として知られていることが多くシッシッと追いはらわれるのはまれであった。
大理石の廊下をエプロン姿の侍女がふたり歩いて来た。わがはいは愛想よく鳴いた。
「ニャア」
「きゃーっ。可愛い。これ王子さまの猫よね? 抱きあげてもしかられないかしら?」
言いながら女ふたりがわがはいを交互に抱いて頭をなでた。わがはいはゴロゴロとのどを鳴らしてヒゲをすりつけた。わがはいはほこり高き猫又である。だが演技はできる。むかし取ったきねづかであった。わがはいが愛想よく鳴くとミラフィールドの女たちがエサをくれたものである。
侍女ふたりがわがはいを解放するとわがはいはニヤッと笑みをうかべた。思惑どおり進んでおった。
こうしてわがはいはできるかぎり多くの使用人にわが姿を見せつけた。慣らすためである。わがはいが歩いていても自然に感じるようにであった。
しばらくすると誰もわがはいを気にとめなくなった。わがはいはどんどん侵入する区域をふやした。使用人たちのうわさ話に耳をかたむけながらである。
わがはいが集めたうわさは以下のとおりである。
ケイト王妃はこの十五年は王にあいてをされず昼間から酒びたりだそうだ。
ケイト王妃には今年二十歳になる娘リサベルがひとりおるが頭の弱い娘らしい。次期国王になるがゆえに婿をさがしておるが頭が弱いせいで婿のなり手がないと言う。身分が低い貴族であれば婿候補もおるであろうが公爵家か侯爵家からえらぶとなれば無理が大きい。
王の第一の側室のオリアナは自殺した。第二の側室のノーヴは馬車の事故で死んだ。第三の側室のイリアはおさななじみの貴族に刺し殺された。第四の側室のスノーディは行方不明である。現在は王に側室はいない。
ということであった。王の子はリサベルとアーサーのふたりきり。ケイト王妃は十五年前から王に見はなされておる。十五年前にアーサーを亡きものにしたいのはただひとりであろう。
わがはいは王女リサベルと王妃ケイトの部屋をつきとめた。最初に王女リサベルの部屋を見張ることにした。
見張っていると侍女がふたりリサベルの部屋に来た。料理を乗せた台車を押しておった。戸をたたきもせずにひとりが戸をあけた。
「リサベルさま。ご飯ですよ」
侍女の声にリサベルは反応を見せなかった。ぼんやりとした顔で椅子にすわっておる。侍女は気にせずリサベルの首に前かけをつけた。侍女がふたりがかりでリサベルの口をこじあけて料理をさじで押しこんだ。
リサベルの目は焦点が合ってなかった。かろうじて口に入った料理をかんで飲みこんだ。
長い時間をかけて侍女たちが料理を食べさせ終えた。口のまわりを布でぬぐって水を飲ませた。
前かけをはずして終わりかと思ったがちがった。侍女ふたりが部屋の奥にある戸にリサベルをつれて行く。排泄をさせるらしかった。
しばらくののち侍女たちが元の椅子にリサベルをすわらせた。
「次は夕ご飯のときにまた来ます。ご用があったらおっしゃってくださいね」
リサベルは返事をしない。目の焦点はさだまらないままだ。
侍女たちが出て行った。
わがはいは建物の外へまわってリサベルの部屋の窓をさがした。さすがは王宮である。広くて苦労したがようやく見つけた。窓はひらいておった。わがはいは木にのぼって室内を観察した。王女の部屋らしい豪華な家具ばかりであった。
ひとつだけ異質なのがリサベルである。椅子にすわらされた姿勢のまま身じろぎもしない。わがはいのほうが首をかいたりして落ち着かない猫に見える。
夕方になって侍女ふたりがまたやって来た。リサベルは椅子から動かないままであった。
「リサベルさま。夕ご飯をお持ちしましたよ」
侍女の呼びかけにもピクリとも反応しない。侍女たちがリサベルに食事を取らせた。
あとは同じである。
前かけをはずしたあと侍女ふたりがリサベルを天蓋つきの寝台に運んだ。リサベルを寝かせて上からふとんをかけた。
「おやすみなさいリサベルさま。ご用があったらおっしゃってくださいね」
最後に侍女が窓をしめてカギをかけて出て行った。
わがはいはその一部始終を見て目をパチパチさせた。リサベルは頭が弱いというていどの話ではないらしい。
翌日も観察したが前日と同じことのくり返しであった。リサベルが動いたのをわがはいは見なかった。しゃべりもしない。婿の来手がないという理由が飲みこめた。
リサベルがアーサーを暗殺しようとたくらむとは考えられなかった。やはり標的はひとりであろう。
わがはいはケイト王妃の部屋を見張った。
ふたりの侍女が料理を乗せた台車を押して来た。侍女のひとりが戸をたたく。
「ケイトさま。昼食をお持ちしました」
かすれた女の声が部屋の中から聞こえた。
「入れ」
「失礼いたします」
侍女ふたりはビクビクしているようであった。侍女のひとりが戸をしめた。
わがはいはあわてて王宮の外に出て王妃の部屋の窓をさがした。さいわい窓はあいておった。わがはいは木にのぼって王妃の部屋を観察した。
侍女ふたりが料理を食卓にならべておった。そのかたわらにやつれはてた女が椅子にすわっておった。髪はもつれて頬がこけておる。女というより残骸であろう。ひとめ見て不幸とわかる女であった。これが王妃ケイトかとわがはいは意外に思った。もっと肉感的な悪女を想像しておったが実物は枯れ木のような女であった。
ふたりの侍女は料理をならべ終えると部屋を出た。
「失礼いたしました」
しばらく椅子にすわったままであったケイト王妃がおもむろに開き戸のタンスから酒ビンを取り出した。ビンかららっぱ飲みしつつ料理をつまむ。味を楽しんでいるとはとうてい思えぬ食べ方であった。
食べ散らかすとふうと息を吐いた。机の上にあったベルをリンリンリンとふった。すぐに侍女ふたりがあらわれた。
「食べ終わった。さげてよい」
侍女がビクビクしながら皿を回収して出て行った。
王妃はそのあと寝台に横たわった。すぐにグガーグガーといびきが聞こえはじめた。
わがはいは夕方まで待った。侍女がやって来るすこし前に王妃は目をさました。だが身づくろいはしない。
侍女たちが夕食の用意をする。王妃が酒ビン片手に料理を食う。侍女たちが後かたづけをする。王妃がいびきをかいて眠る。
三日間それのくり返しであった。
四日目に変化があらわれた。夕食が終わって侍女が退室して王妃がベッドに入った。そこまでは変わらない。だが王妃がいびきをかかなかった。寝がえりをしきりに打っている。眠れないらしい。
王妃がムクッと起きあがった。
「ふざけるな! なにがアーサー王子だ! ちくしょう! 十五年前に殺したと思ってたのに! いまごろ出て来やがって!」
枯れ木に火がともったようであった。窓からさしこむ月あかりのなか暗い執念が目で燃えさかっておった。
「ちくしょう! ちくしょう! ちくしょう! オリアナと同じ毒で殺してやる!」
王妃が酒の入っていた開き戸のタンスから小さなビンをつまみ出した。さも貴重そうに手の中でつつみこんでおる。
「このミストジンの毒なら一滴で即死さね。さあどうやってこの毒をアーサーに飲ませようか? オリアナのときのように男たちをやとって押さえつけて無理やり飲ますとしようかねえ。ふふふふふ」
わがはいは頭に血がのぼった。そんなことはさせるものかと。わがはいの目にもおそらく憎悪の炎がともったであろう。
わがはいはどうすればよいかを考えながら王妃の部屋を見張った。
翌日である。夕食の前に王妃が部屋を出た。わがはいは王妃のあとをつけた。王妃が入ったのは厨房であった。夕食の調理が終わり各台車の上に毒味ずみの料理がならべられておった。台車にはそれぞれ配送先の名前が書いてあった。宰相や大臣や王やアーサーなどであった。料理も各人の好ききらいによって変えられておった。
料理人の服装をした男が王妃をむかえた。
「これは王妃さま。どんなご用で?」
「料理長よ。わらわはハチミツ入りの菓子が食べたくなった。ハチミツ入りの菓子を作るがよい」
「はっ。かしこまりましてございます。おい。ハチミツを用意しろ」
そこで王妃が大声で悲鳴をあげた。
「きゃあ! ネズミ! ネズミがそこに!」
その場にいた者全員が王妃の指さす床を見た。そのすきに王妃がビンから一滴の毒をスープの深皿にたらした。
料理長をはじめその場にいる者たちがキョロキョロと床を見回すがネズミなどいない。料理長が首をかしげた。
「王妃さま。ネズミは見あたりませんが?」
「さようか。わらわの見まちがいだったのかもしれぬ。すまなかったな」
王妃が口の端をニヤリとゆがめて厨房を出た。侍女たちが料理をはこぶために厨房に入って来た。次から次に料理を乗せた台車が厨房を出て行く。
わがはいは王妃が毒を入れた台車を追いかけた。台車はアーサーの部屋に向かって進んでおる。
台車がアーサーの部屋に近づいた。
「ニャア!」
わがはいはあまえ声を出して台車を押す侍女の肩に飛び乗った。
「きゃっ!」
侍女がびっくりしてわがはいをはらいのけた。わがはいはその動きに便乗して料理の皿の上に飛びおりた。手足を突っぱって料理の皿を台車から押し落とした。皿がすべて廊下に落ちた。われた皿もあり料理が廊下をよごした。わがはいは台車からおりると侍女の足に身体をこすりつけた。
「にゃあご」
音に気づいたアーサーが部屋から出て来た。わがはいと立ちすくむ侍女たちを見て事情を察したらしい。
「ごめんなさい。ぼくの猫がいたずらしたみたい」
わがはいの飛びついた侍女が顔を青くした。
「王子さまの猫のせいじゃないんです。ふいに飛びつかれたのでおどろいてしまって」
もうひとりの侍女も血の気の引いた表情であった。そそうをしてとがめられると思っておるのであろう。わがはいはふたたび侍女の肩に飛び乗った。侍女の頬をなめてやる。
アーサーが笑った。
「ニャウン。その人が気に入ったの? ごめんね。ふだんはそんなことしない猫なんだけど」
アーサーが落ちた皿を台車にもどす。侍女ふたりがとめた。
「だめです王子さま。手をケガしますよ。あたしたちがやりますから」
ふたりの侍女が廊下のふき掃除をして厨房に引き返した。わがはいは王妃を見張りに王妃の部屋の窓の外に足をはこんだ。
王妃は酒を手に料理を食べておった。ほくそ笑みながら。
「ふふふ。ふふふ。ふふふ。あはははは」
いかにも楽しげであった。こみあげて来る笑いを押さえられないらしい。
わがはいは決意をかためた。
わがはいは王宮医の居室に足を向けた。王宮医はいなかった。夕食どきなので食べに行ったのであろう。
わがはいは窓からしのびこんだ。口のせまいビンに液体を移すときに使うじょうごをさがしてくわえた。
じょうごを口にしたまま王妃の部屋の窓の外にもどった。王妃が眠るのを待った。
王妃がいびきをかきはじめた。王妃が熟睡したのを確認して窓から室内に飛びこんだ。
わがはいは二足歩行してタンスの開き戸をあけた。中から小さなビンを両手ではさんで取り出した。
ビンを机に置いた。ビンのふたを爪で引っかけて飛ばした。ビンがゆれて横倒しになった。中身の毒液が机にこぼれた。じょうごをくわえた口から思わず言葉が漏れた。
「にゃうにゃあご」
人間語に翻訳するとこうである。おっといかん。
わがはいは両手の肉球でビンをはさんで立て直した。さいわい毒液はビンの底に残っておった。
王妃の様子をうかがった。わがはいのひとり言に気づいた気配はない。王妃は口を半びらきにしていびきをかいておる。
両手でビンをはさんだまま王妃の寝台にしのび寄る。口にくわえたじょうごを王妃の口にさしこんだ。じょうごにビンの中身をぶちまけた。一滴で死ぬ毒がドクドクと王妃の口に流れこむ。王妃ののどがゴクンと上下した。
「うぐぐっ!」
王妃の上体がビクンと急激に跳ねあがった。口にさしたじょうごが吹っ飛んだ。
王妃の全身がバタンバタンと寝台の上でのた打った。王妃の爪がのどをかきむしった。王妃が寝台から落ちて床をゴロゴロと転がった。
王妃の身体が動かなくなった。顔から表情が消えていた。全身で表現した苦悶がどこにもなくなった。
わがはいは王妃の呼吸がとまったのを確認して床に落ちたじょうごをくわえた。毒の入っておったビンは床に放置した。窓から外の木へ飛び移る。
じょうごを中庭の池に捨ててアーサーの部屋にもどった。戸をうしろ足で蹴って合図を送るとアーサーが戸をあけた。
「ニャウン。どこに行ってたんだい?」
わがはいはアーサーの肩に飛び乗った。
「わがはいにも好奇心はあるのじゃ。王宮の中を探索しておった」
王妃を暗殺しに行っておったとは言えぬ。
「ふうん。ここしばらくいなかったのはそういうことなの。おもしろいところはあった? 宝物庫とか?」
「宝物庫はわがはいにはおもしろくなかった。猫に金貨じゃな。侍女のねーちゃんたちが可愛くてよいぞ。厨房も魚をくれたので気に入った」
「侍女のお姉さんたちが気に入ったの? 猫又って人間の女の子に興味があるわけ?」
「人間の女の子にではない。人間に興味があるのじゃ。侍女たちのうわさ話はおもしろい。それよりあしたも早いのじゃろ? そろそろ寝るがよい。わがはいも疲れた。とっとと寝ようではないか」
「そうだね。寝ようか」
アーサーのとなりでわがはいはひさしぶりに安眠した。王妃を暗殺しても心は痛まなかった。目には目を毒には毒をであった。むしろ長年の懸念であった毒蛇を駆除した安堵感がわがはいを充足させて眠らせた。顔も知らぬアーサーの母であるオリアナが夢の中でほほえみかけてくれた気がした。
翌朝に王宮が騒然となった。王妃の死が発見されたのであった。
わがはいは王妃の部屋の窓の外から様子をうかがった。犯人は現場にもどる。わがはいも例外ではなかった。
王宮医が王妃の遺体をしらべておった。王妃の全身を指で押す。床に転がる小さなビンの口のにおいを嗅ぐ。王妃のまぶたを指で押しあげて眼球の充血度をはかる。
王宮医が顔をあげて王を見た。
「酒におぼれて発作的に毒をあおったみたいですね。毒はミストジンでしょう。外部から侵入の痕はありません。部屋を物色した形跡も皆無です。こりゃ自殺ですな」
「自殺か」
王がホッとした顔に変わった。十五年ほったらかしにした女が死んだのである。愛情などかけらもなくなっておったのであろう。ここで王が号泣すれば殺害犯と見られてもおかしくない。王妃が死んで一番安心するのは王であろうからだ。
王妃の葬儀にはリサベルも出席した。侍女たちに手を引かれて椅子にすわらされた。目の焦点は合ってない。ひとことの言葉もない。感情のかけらもなく身動きすらなかった。意思があるのかすらわからない。実の母が死んだということもわかってないであろう。
しとしとと雨が降っておった。心の底から王妃をあわれと思った。いや。人間という生き物の業の深さがあわれであった。おそらく王の側室をすべて殺したのは王妃であろう。そこまでしても王の気持ちはもどらず娘のリサベルは理性の理の字もない。しあわせをもとめるより悪行の泥沼におぼれて抜け出せぬ枯れ木のような女の妄執であった。
王妃が死んで一週間もたつとみなが王妃を忘れた。わがはいの王宮探索も終わってアーサーの肩にもどった。
アーサーの日々は王妃がいようがいまいが変わらなかった。個人授業。剣の訓練。夜会や舞踏会。茶会。芸術家たちとの交流会。王の執務室での雑談。
年に一度の王都乗馬大会がせまった夜のことだ。王家主催の舞踏会がひらかれた。
戦争が男の戦場なら舞踏会は女の戦場である。その頂点に位置する王家主催の舞踏会は女の勝敗を決する最前線と言ってよい。
配偶者をさがすために王国中の貴族の娘や息子があつまっておった。だが自身の結婚よりも全員の興味の中心はアーサーであった。王子が誰を配偶者にえらぶのか。その一点が最大の関心事となっておった。
貴族たちは誰もがふたつの公爵家と四つの侯爵家がアーサーの嫁候補を立てておることを知っておる。自分たちの結婚よりも取りあえずはその六家のうちどことアーサーが婚約するかを知りたがった。男たちはあまった五家の令嬢に言い寄れるからであった。女たちはアーサーを射とめた家にすり寄る必要があるせいであった。
舞踏会は女の戦場であるためにこまかな暗黙の決まりがさまざまある。最初のダンスで女は目あての男に手をさしのべる。そのさい複数の手が出されると男は最初に手をのばした女をダンスの相手にえらぶ。
かと言って音楽が鳴りはじめる前から手を出す女ははしたないとされる。音楽の第一音が鳴らされたあとが勝負である。
ただ最初のダンスで目あての男と踊ったとて婚約成立というわけではない。だが有利な立場をえる。周囲の女性すべてが婚約者の第一候補と認めるせいだ。世間のあと押しが男を追いつめる。女性すべてが第一候補の女の味方になる。そんな状況で第二候補以下の女と婚約するのはむずかしい。男の意向よりも周囲の女性の圧力でなしくずしに結婚へなだれこむことが多いのが実情である。
舞踏会は身分の上下が関係ない無礼講というのがたてまえであった。だが実際は身分の上下で手を出す順序が決まる。身分の低い貴族はにらまれぬようにひかえるせいである。
つまりこよいの舞踏会の最初のダンスで手をさし出すのはふたつの公爵家の令嬢というのが暗黙の了解になる。そのふたりのうちどちらの手をアーサーが取るのかという点まで出席者たちの予想はしぼられておった。ふたつの公爵家の令嬢のうちどちらが先に手をさし出すか。早い者勝ちである。熾烈な女の戦いであろう。
ただし例外もあった。現ロードシア公爵が舞踏会で嫁をえらんだときの話だ。ロードシア公爵は最初に手をさし出した令嬢を無視して二番目に手をさし出した令嬢の手を取った。二番目の令嬢に惚れたせいであった。それ以来男にもえらぶ権利があたえられた。本当に愛している女になら手をさし出した順番は無視してもよいという決まりができたわけである。
だがその場合は順序を無視して手を取った令嬢と絶対に結婚せねばならない。決まりをないがしろにしてまで手を取ったのに結婚しないとなると全貴族女性から総スカンをくらうからである。
女の戦場であるだけに女同士の暗黙の了解が重い。そういう背景の中で最初のダンスがはじまろうとしておった。
楽隊が第一音をかなでた。
注目のさし出された手は三本であった。ロードシア公爵家のレイラ嬢。コロンビータ公爵家のガートルード嬢。デルバイン伯爵家のシルフィーナ。
人見知りのシルフィーナが王都の舞踏会に参加しているのは一家そろって乗馬大会に来たついでらしい。この時点でシルフィーナは会場中の女のひんしゅくを買った。身分の低い伯爵家の娘がしゃしゃり出る場面ではないせいだ。
わがはいが見たところさし出された手の順はシルフィーナが一番で二番目がガートルード嬢であった。ロードシア公爵の姪のレイラは出遅れて三番目だ。
「まあ」
「よくやるわね」
「伯爵令嬢のくせに」
「はずかしくないのかしら」
「出しゃばり」
「身のほど知らず」
そんなひそひそ声をわがはいは聞いた。
アーサーが出された手に手をのばした。アーサーが取った手は二番目のガートルード嬢の手であった。わあという小さな歓声が巻き起こった。
アーサーとガートルード嬢のふたりのダンスがはじまった。
「やっぱり」
「伯爵令嬢じゃ無理よね」
「いい気味」
「王子さまと公爵令嬢ならお似合いだわ」
「これで婚約決定ね」
「レイラさまおかわいそう」
楽団の演奏の中で女たちがささやいておる。
のばした手が空ぶりに終わったシルフィーナの目から涙がぶわっとあふれた。
「お兄さまのバカ!」
泣きながらシルフィーナが会場から走り去った。
アーサーが踊りながらそれを見てぼうぜんとした顔に変化した。
ガートルード嬢がそのアーサーの表情に気づいた。ガートルード嬢はシルフィーナに背中を向けていたのでシルフィーナが泣いたことを知らないみたいであった。
「アーサーさま。どうかなさいました?」
「いや。なんでもないよガートルードさん」
最初の曲が終わって二曲目がはじまると全員が踊りに参加した。思い思いの場所で女たちが男に手をさし出しておった。女同士のあらそいにやぶれた女をあぶれた貴族の次男や三男がさそう。目あての男を獲得した女のほこらしげな顔とやぶれた女のくやしげな顔が印象的であった。
わがはいには人間の女の陰湿な戦いは理解できぬ。人間の恋愛もまたしかりである。
会場中の女たちはアーサーがガートルード嬢に惚れておるから二番目に手を出したガートルード嬢の手を取ったと解釈した。本当にそうなのかわがはいにはわからぬ。
アーサーは王宮に来るまで舞踏会に参加したことはなかった。舞踏会についてはダンスの授業のさいにおそわっておった。だが女のこまごまとしたかけ引きや足の引っぱり合いを理解したとは思えぬ。アーサーが生きて来たのは男の世界である。アーサーが女とかかわったのはデルバイン家の女たちだけであった。女の陰湿さにふれたことはなかった。
さし出された手もわずかにシルフィーナが先であっただけでガートルード嬢とほぼ同時であった。アーサーがガートルード嬢の手のほうが速かったと認識してもおかしくない。わがはいは傍観者として見ておるから冷静であるがアーサーは当事者であった。最初に慣れぬダンスを踊らねばならぬ圧力で頭に血がのぼっておったことは想像にかたくない。
または身分の上下を考慮したとも考えられる。公爵令嬢と伯爵令嬢の手なら公爵令嬢に恥をかかせないためにガートルード嬢の手を取ったのかもしれぬ。個人授業では身分の上下がやかましいほどたたきこまれておった。王子たる者いかなるときでも身分の上下を忘れてはならぬとである。
アーサーとわがはいの仲だがアーサーの恋心はわがはいにはわからぬ。ただ泣きながら走り去ったシルフィーナを見たアーサーのぼうぜんとした顔がわがはいには引っかかっておった。シルフィーナを泣かせるつもりはなかったということではないか?
しかしアーサーがシルフィーナの手を取ったとしよう。満足するのはシルフィーナひとりで会場中の女のひんしゅくを買ったであろう。公爵家の令嬢ふたりも恥をかかされたと思うにちがいない。アーサーがガートルード嬢の手を取ったのは正解であったはずである。
なんどでも言うがわがはいに人間の恋愛はわからぬ。そのせいでアーサーにたずねはしなかった。ガートルード嬢を愛しておるかと。だがよしんば訊いたとてアーサーも答えられぬのではないかと思う。明確に愛しておればとっくに婚約が成立しておるはずだからだ。
王家主催の舞踏会はそんなふうに幕をとじた。
翌日が乗馬大会であった。アーサーと王も特別席から観覧しておった。五万人があつまる年に一度の大会である。国内からよりすぐりの名馬が参加しておった。その中にヘンリエッタの乗るユリシスの姿もあった。デルバイン伯爵とシルフィーナも会場におるはずであったがどこにおるやらわからなかった。
ユリシスは速かった。予選を一位で通過して決勝戦にこまを進めた。
決勝戦の旗がふられた。各馬が一斉に駆け出した。だ円形の馬場を二周する戦いであった。一週目は各馬おさえて走った。ほとんど差がなく二週目に突入した。そこから二頭が飛び出した。
ヘンリエッタの駆るユリシスとマクミラン侯爵家のマクローダーであった。その二頭を追って残りの八頭が足を速めた。抜きつ抜かれつという混戦になった。馬場の半分をすぎたころ前後ふたつの集団に分離した。
ユリシスとマクローダーをふくめた五頭が先頭争いをしながら終着線をめざす。マクローダーが頭ひとつ出るとユリシスが追い抜く。そこに残り三頭がならびかける。マクローダーがまた頭ひとつ出る。ユリシスが追いすがる。残り三頭が二頭を追う。マクローダーが先行しユリシスと残り三頭が追うという展開がつづいた。
横一線のまま終着線が視界に入る。マクローダーが集団から抜けた。ユリシスがマクローダーを追う。残り三頭を置き去りにマクローダーとユリシスの一騎打ちになった。
マクローダーが逃げる。ユリシスが追い抜く。マクローダーがまた逃げる。ユリシスが追い抜く。
終着線が眼前にせまった。マクローダーが最後の逃げ足を使う。ヘンリエッタがムチをあてユリシスが必死で追いすがる。
マクローダーが逃げる。ユリシスが追う。逃げる。追う。逃げる。追う。逃げる。追う。
終着線を二頭が越えた。首の差でマクローダーが逃げ切った。ユリシスは二位に終わった。歓声と拍手が二頭におしみなく送られた。
表彰式がおこなわれた。宰相がメダルを馬と騎手の首にかける。五位まで表彰されて賞金があたえられた。
ヘンリエッタがメダルをアーサーのいる特別席に持ちあげた。
「もうちょっとだったのに負けちゃった。アーサー元気ぃ?」
アーサーも叫び返す。
「元気ですよぉお母さーん!」
ヘンリエッタがうなずいて乗馬大会が終わった。アーサーがデルバイン家の人々と顔を合わすことはなかった。王家と伯爵家ではすれちがうのがあたり前であるらしい。
日々が平和にすぎて行くように思われた。だがそのころからガートルード嬢と会ったあとアーサーが疲れた顔をするようになった。慣れぬ女性の相手に消耗しているみたいであった。ヘンリエッタとシルフィーナは女性らしさがすくない。アーサーが女性らしい女性と接したのはガートルード嬢がはじめてであろう。
アーサーが結婚を悩んでいるのはあきらかであった。王も周囲もアーサー自身もガートルード嬢と結婚するとの前提で動いておった。そのしがらみがアーサーの肩にズッシリとのしかかっておるようであった。ガートルード嬢をしんそこ愛しておればそんな重さなど気にならぬはずである。
食もすすまぬアーサーを見かねてわがはいは話しかけた。
「アーサーよ。自分の心に訊いてみるがよい。一生をともにするなら誰がよいか。誰となら一生をいっしょに生きたいか。気をつかう女性とずっと生きるのは疲れまいか」
アーサーがハッとわがはいを見た。
「ニャウン?」
「わがはいに人間の恋愛はわからぬ。しかし人間は一生ひとりの妻といっしょにおる前提なのじゃろう? そなたがいっしょにいたい女は誰じゃな?」
アーサーが思い起こす顔になった。
「…………」
翌日アーサーが馬車に乗りこんだ。護衛十人を引きつれてである。
わがはいはアーサーの肩で目をとじて馬車のゆれに身をゆだねておった。春の日ざしがここちよい。
目的地に着いた。アーサーが二階へ駆けあがる。戸をたたいて叫んだ。
「シルフィーナ!」
戸から顔を出したシルフィーナの顔は涙でぐしゃぐしゃであった。
「お? お兄さま?」
「シルフィーナ! ぼくと結婚してくれ!」
「えっ? ええっ? け? 結婚?」
シルフィーナが目をゴシゴシとこすった。夢かしらという顔であった。
「そう。ぼくと結婚してほしい。だめ?」
「え? いや。それ本当?」
「本当だ! ぼくが一生いっしょにいたいのはきみだよシルフィーナ!」
シルフィーナがアーサーに抱きついた。
「お兄さま!」
アーサーがシルフィーナを抱き返す。
その騒ぎをすこしはなれて伯爵とヘンリエッタとデルバイン家の使用人全員とアーサーの護衛が見守っていた。
ヘンリエッタが両手を肩の高さに持ちあげて肩をすくめた。
「やれやれ。完全にふたりの世界ね。でもお兄さまはないわ。求婚されてお兄さまじゃしまらない」
ヘンリエッタの声にアーサーがハッとわれにもどった。ふり返る。伯爵とヘンリエッタとデルバイン家の使用人全員の顔が見えた。
「お父さんお母さん! シルフィーナをぼくにください!」
伯爵が苦い顔になった。
「でもアーサー。きみは王子になったんだ。うちは伯爵家だから格がちがう。王が反対するんじゃないか?」
「説得します。だからシルフィーナと結婚させてください」
ヘンリエッタが口をはさむ。
「うちはありがたいけどね。シルフィーナが一日中泣きやまないから。でも公爵家のガートルード嬢はどうするの? 世間もガートルード嬢もあなたと婚約すると信じ切ってるわよ? いまさらやめましたとは言えないんじゃない?」
「それもなんとかします。シルフィーナがほしいんです」
ヘンリエッタが苦笑した。
「こわいものなしね。シルフィーナはどうなの? アーサーと結婚する?」
シルフィーナが笑顔を引きしめようとして失敗した。こみあげて来る笑みをおさえられないらしい。
「もちろん! わたしはお兄さま以外はいや!」
ヘンリエッタがあきれ顔になった。
「訊くまでもなかったわね。わかったわ。さ。あなた」
バトンをわたされた伯爵があとをつづけた。
「デルバイン伯爵家としてはアーサーとシルフィーナの結婚をみとめよう。私としては不本意だがね」
アーサーが不安げな表情に変わった。
「どうしてですお父さん?」
「娘をうばわれるのはおもしろくない。相手がたとえきみだとしてもね。それにだ。シルフィーナが嫁に行けば誰が伯爵家を継ぐんだ? シルフィーナはうちのひとり娘だぞ?」
「なるほど。また養子をもらえばどうです?」
「そこだよ。きみ以上の男がいるとは思えん。きみが優秀すぎた。まあそこはしかたがない。結婚をゆるす。あとはアーサーが各所と話をつけることだな」
「はい!」
アーサーが次に目ざしたのはコロンビータ公爵の屋敷であった。王はくみしやすしと見たらしい。婚約が確定と思っている女性に婚約しませんとことわるのは気が重いに決まっておる。アーサーがシルフィーナと結婚する上で最大の難関はコロンビータ公爵家であろう。
どう切り出すべきかと苦悩顔のアーサーを応接室に通してコロンビータ女公爵とガートルード嬢が入室して来た。
コロンビータ公爵がアーサーにお茶をすすめる。
「で。婚約発表はいつにするねアーサー王子?」
アーサーの眉間のしわが深まった。
「あ。あのう。それなんですが……」
言葉がつづかない。おたくのお嬢さんとは婚約しませんと言える男ではない。わがはいはやきもきした。わがはいが口出ししてよいなら代わりに言ってやるのだが。
コロンビータ公爵が笑いはじめた。
「ふふふ。すまん。意地悪をしすぎたようだ。自分が誰を愛してるか理解したらしいな?」
「わ? わかるんですか?」
「わからいでか。すくなくとも王子のいまの顔は婚約者の家をおとずれる顔じゃない。借金をもうしこみに来た者の顔だな。どう切り出せばいいのか悩んでる。そうじゃないか?」
「そ。そのとおりです。すみません。ぼ。ぼく」
「ああ。いい。みなまで言うな。今回の話はなかったことにしよう。それでいいな?」
「ええ。そうしてくださるとありがたいです」
ガートルード嬢がツッと席を立った。アーサーの横に来てアーサーのあごを指で持ちあげる。ガートルード嬢がアーサーの顔に顔を近づけた。口と口が重なる。
アーサーが椅子ごとひっくり返りそうになって口と口がはなれた。
「な? なにを?」
ガートルード嬢がニコッと笑みを見せた。
「シルフィーナに言っといてね。アーサーのくちびるをうばってごめんって。じゃさよならアーサー。次に会うのはアーサーの結婚式でしょうね」
わがはいは苦笑を浮かべた。転んでもただでは起きぬのが女という生き物らしい。
気がすんだらしいガートルード嬢とコロンビータ公爵に見送られて公爵家を出た。
王宮にもどるとアーサーが王の執務室に足を向けた。
「お父さん。ぼくはデルバイン伯爵の娘と結婚したいんです。いいでしょう?」
王が書類から顔をあげずに答えた。
「デルバイン伯爵家の令嬢とな? それはまずい。伯爵では地位が低すぎるぞ?」
アーサーの顔がにわかに曇った。王は笑ってゆるしてくれると思っておったらしい。
「ええっ? だめなんですか?」
「だめじゃな。王の嫁にはせめて侯爵家でないと大臣たちが納得せん」
「えええーっ? ぼくは大臣と結婚するんじゃないんですが?」
「大臣と結婚しろとは言っとらん。世の中とはそういうものだという話だ。王や王子というのは世間に対して責任がある。好き勝手なことはできんのだ」
「じゃぼくはシルフィーナと結婚できないんですか?」
王がハッと顔をあげた。
「はあ? なにを言っとるんだ? 伯爵家ではまずいからデルバイン家を侯爵に陞爵しようという相談ではないのか?」
「しょうしゃく? しょうしゃくってなんですか?」
「貴族の位をあげることじゃ。伯爵を侯爵にすることを陞爵と言う。デルバイン伯爵はそなたを見い出してくれた。なにかほうびをあたえねばと思っとったところじゃ。ちょうどよいから侯爵に格あげしよう。侯爵家の令嬢ならそなたの嫁にふさわしかろう」
「じゃぼくはシルフィーナと結婚しても?」
「かまわぬじゃろう。しかしガートルード嬢はよいのか?」
「ええ。そちらはことわって来ました」
「そうか。では宰相や大臣たちと相談して結婚式の打ち合わせをするがよい。打ち合わせだけでひと月かふた月はかかるじゃろう」
「そ? そんなにかかるんですか?」
「庶民の結婚ではないからのう。そなたは王になる身じゃ。相手の女性にも王妃としての心得がもとめられる」
こうしてアーサーのあわただしい日々がはじまった。シルフィーナも王宮で王妃教育をほどこされることに決まった。
アーサーとシルフィーナがいちゃいちゃする間わがはいは部屋を追い出されることになった。
「ふたりをむすびつけてやったのはわがはいじゃぞ。なのになんたる仕打ちか」
シルフィーナが頬を赤く染めた。
「だってニャウンに見られてるとはずかしいんだもの。わかって」
アーサーも同意見のようであった。
わがはいはいじけて侍女たちと時間をつぶした。子ばなれとはこんなにさびしいものかとはじめてわかった。世間の女たちの気持ちが痛いほど実感できた。
わがはいは猫又である。名前はニャウンだ。いつまで生きるかは知らぬ。できうれば水に落ちてののたれ死にはえんりょしたい。いまはただアーサーとシルフィーナの子が生まれるまで長生きできればいいなとねがうしだいである。
〈了〉