第二章 デルバイン伯爵家
アーサーとわがはいはミラフィールドにあるデルバイン伯爵の屋敷に着いた。出むかえてくれたのはふたりの女であった。
中年の女がアーサーに抱きついた。
「あなたがアーサーね。わたしはヘンリエッタ・デルバインよ。あなたのお母さんになるの。よろしくね」
ヘンリエッタは金色の髪をみじかく刈りこんでいた。活動的な女に見えた。伯爵夫人というよりは乗馬の教師が似合いそうであった。
伯爵は娘の遊び相手でもいいと言った。しかしすっかり養子にする気で家族に説明したらしい。
ヘンリエッタがアーサーと同じ年ごろの娘の背を押した。
「さ。アーサーにごあいさつしなさいシルフィーナ」
シルフィーナが頬をふくらませてプイと横を向いた。シルフィーナも金髪であったが腰までの長い髪をしていた。部屋の中に閉じこもるのが好きそうな娘であった。
「ぼくはアーサー。よろしくねシルフィーナ」
シルフィーナは無言のままだ。
デルバイン伯爵が眉を立てた。
「こらシルフィーナ! あいさつをしなさい!」
シルフィーナがビクッとふるえた。そのまま屋敷の中へと駆けこんだ。
ヘンリエッタがアーサーにニコッと笑いかけた。
「ごめんなさいねえ。わがままな娘で。あとで言い聞かせておくわ。ゆるしてやってね」
「はあ」
これも想定問答にはなかった。アーサーは答えにつまったようだ。
わがはいは苦笑いを浮かべた。とつぜん兄だか弟だかわからない人間が家族の一員だと紹介されてもよろこべないであろう。シルフィーナの反応が正常だ。デルバイン伯爵とデルバイン夫人がどうかしておる。
きのう会ったばかりの者を息子にむかえるなど異常にちがいない。だがわがはいは裏を感じなかった。デルバイン伯爵とヘンリエッタは裏表のない性格に見えた。思ったままをそのまま口にする育ちのいい貴族らしい者たちなのであろう。わがはいのように路地裏で生まれて下町に生きた猫又には望みようのない性格だ。
アーサーとわがはいは一室をあたえられた。豪華な部屋であった。ナスターシアという侍女までつけてもらった。本気でデルバイン伯爵はアーサーを息子にしようと思っているらしい。
しばらくして部屋の戸がたたかれた。アーサーが戸をあけると黒の燕尾服にネクタイをしめた初老の男が立っていた。
「デルバイン家の執事のフレンジャーでございます。お風呂が沸きましたのでご案内に参上しました」
アーサーがわがはいのところにもどって来た。
「ねえニャウン。お風呂ってなに?」
「わがはいも知らぬ。聞いてみればよかろう」
「そうだね。フレンジャーさん。お風呂ってどういうもの? 食べ物?」
フレンジャーがニコリと笑って答えた。
「お風呂とは地面に穴をほってお湯を溜めた施設でございます」
「は? 地面に穴をほってお湯を溜めるの?」
アーサーの顔はなにに使うのだか想像もつかない顔であった。
「とにかくご案内いたします。ナスターシア。お風呂の用意をしてついて来なさい」
「はい。フレンジャーさん」
ナスターシアがどこかに消えた。と思うとすぐに服をかかえてもどって来た。
案内されたのは一階の奥の部屋であった。戸をあけると湯気がムッと顔をつつんだ。
「ナスターシア。あとはお前が説明してさしあげろ。では私はこれで失礼いたします」
フレンジャーが去るとナスターシアがアーサーとわがはいを部屋に押しこんだ。
「服はここでぬいでください。全部ぬいだらオケで全身にお湯をかけます。石けんで身体をあわだらけにしたらお湯であわを流します。それからお湯に全身をひたして終わりです。着替えはここに置いておくのでそれを着てください。子ども用の服がありませんので大人用のになりますががまんしてくださいね。あしたには子ども用の服を用意できますので」
ナスターシアがアーサーの着ているものを一枚のこらずはぎ取った。
「あら。アーサーさまは背中に三角のアザがあるのですね。初代国王さまも背中に三角のアザがあったとされてます。きっと英雄になるあかしですわ」
たしかにアーサーにはアザがある。肩胛骨の上に三角のアザが。だがアザがあれば英雄になるというものでもなかろうとわがはいは思う。
ナスターシアがアーサーとわがはいを部屋の中央につれて行く。中央には広いくぼみが造ってあり湯で満たされていた。
アーサーが説明どおりに全身をあわまみれにした。わがはいもあわだらけにされた。
そのあとふたりで湯につかった。猫は泳ぎが苦手なので水に入るのをいやがる。わがはいも水をいつもさけていた。だがこの風呂というのは気に入った。温かくてよい気分であった。庶民の家には風呂などない。貴族ならではの楽しみらしい。
風呂のあとは食事であった。広い食堂に大きな机があった。わがはいは屋敷に働いている者すべてが一度に食べると思った。だがちがった。
用意された椅子は四脚であった。デルバイン伯爵と妻のヘンリエッタ・娘のシルフィーナ・アーサーの四人がすわった。わがはいはアーサーのひざの上だ。
全員が席につくと四人の侍女たちがそれぞれの主に料理を供した。
食べながら伯爵が話しはじめた。
「デルバイン領は麦と綿花の栽培が盛んな田舎領地だ。残念ながら鉱山などは持たないのでわが家も金持ちとは言えない。それでも領都ミラフィールドは王都に次ぐ国内第二の都市だ。ミラフィールドには大商会がいくつもある。商業都市と言っていいだろう。わが家を継ぐなら農地の管理と大商会とのつき合いをしてもらわねばな」
ヘンリエッタとシルフィーナは伯爵の話を聞きながらナイフを動かしていた。アーサーはどのナイフを使っていいのかわからずにとまどっているようであった。
わがはいはアーサーに人間界の常識を教えた。だが貴族の常識は教えられなかった。わがはいが貴族の生活に縁がなかったからである。
伯爵がアーサーの様子に気づいたらしい。
「アーサー。作法など気にせず食べなさい。おいおい憶えればいいからな」
ナスターシアが気を利かせてアーサーにナイフをにぎらせた。無言で肉を切れと目で示した。
わがはいの手ではナイフはつかめない。ゴブリンたちは手づかみで食べていた。アーサーはナイフとフォークを使って食べるのははじめてであった。ぎこちないのは当然であろう。
わがはいは手伝ってやれないのがもどかしかった。だがすぐにアーサーはさまになりはじめた。わがはいに肉を食わせる余裕までできた。思えばアーサーはなにをやらせても飲みこみの早い少年であった。
伯爵がアーサーの器用さに満足げにうなずきながら水を向けた。
「アーサーは馬に乗ったことがあるのかな?」
「いいえ。ありません伯爵」
「いやいや。伯爵ではなくお父さんと呼べ。わが息子よ」
「えっ? いや……お……お父さん」
「よろしい。ではあしたから乗馬をはじめてはどうかな? 貴族たる者は馬にも乗れなくてはな」
「わかりましたお父さん」
伯爵は本当に息子がほしかったらしくお父さんと呼ばれると笑みくずれた。わがはいはチクッと嫉妬をおぼえた。わがはいとウーフとチータランでアーサーを育てたのである。わがはいこそがお父さんと呼ばれてしかるべきではないか? きのう会ったばかりの伯爵がお父さんと呼ばれるのは釈然としなかった。
ヘンリエッタが口をはさんだ。
「じゃわたしはお母さんね。ところでアーサーは何歳なのかしら?」
「十三歳ですお母さん」
歳はわがはいの推定だが正しいと思える。
「シルフィーナは十二歳だからアーサーがお兄ちゃんね。シルフィーナ。お兄ちゃんができたわよ」
シルフィーナがプイと横を向いた。うち解けるまでに時間がかかりそうだとわがはいは見た。
食事中の会話は伯爵が主導権をにぎってはなさなかった。話好きらしくさまざまな話題が出た。ミラフィールドの全般を伯爵が管理しているそうで忙しいらしい。ゆいいつ管理からはずれているのが王の離宮であった。王の離宮だけは手が出せないとぼやいていた。
翌日は朝から乗馬の練習であった。伯爵とヘンリエッタとナスターシアがつきっきりで説明をした。シルフィーナも誘われたが自室から出て来なかった。シルフィーナの部屋からはチヨチヨチヨと金口鳥の鳴き声が漏れていた。鳥かごで飼っているのであろう。
馬番と兵士と侍女たちも見守る中でアーサーは馬に押しあげられた。十三歳のアーサーにとって馬は巨大であった。高さも怖いくらいだったようでふるえておる。
たづなを持ってもらって歩くだけだが全身が硬直してガチガチであった。広い庭を一周するだけで明日は筋肉痛に襲われそうなほど四肢に力が入っておった。
わがはいの身体が大きければわがはいが乗せて走ってやるのだがと悲しかった。わがはいはしょせん猫の大きさでしかない。人間に化けることもできなければ魔法も使えぬ。人語がしゃべれて二足歩行するだけの猫又である。アーサーの力になってやれぬのがつらかった。
三日がすぎたころにはアーサーはひとりで馬を走らせるようになった。わがはいもアーサーの肩に乗って馬を体験した。
馬から見る景色は新鮮であった。まず速い。わがはいの最高速より格段に速かった。
次に高さだ。視界がとても広い。わがはいの普段の視界は地面すれすれである。左右に顔を向けても見える世界がせまい。馬の上から見おろすとひと目で周囲が見て取れる。木の上から見るのとはまたちがった光景であった。
アーサーのみならずわがはいも馬に乗るのがおもしろくなった。
アーサーが馬に慣れたのを見はからって伯爵とヘンリエッタもアーサーと並走しはじめた。伯爵とヘンリエッタは馬を走らすのが日課であるらしい。シルフィーナは相かわらず自室にこもりっぱなしだ。
見方によっては伯爵とヘンリエッタとアーサーが実の親子に見えた。まま子はシルフィーナだ。わがはいとアーサーが来る以前はシルフィーナも伯爵とヘンリエッタと並走していたのであろうか?
アーサーが速度を出すのにも慣れると屋敷の庭ではせまくなった。ミラフィールドの門を出て街道を走らせるようになった。
それと相前後してアーサーとわがはいはデルバイン屋敷で仕事を探した。わがはいはすっかりアーサーの肩が指定席になっておった。わがはいはほこり高き猫又である。だが人肌にふれておるのが心地よかった。飼い猫が飼い主のひざをはなれぬようにわがはいもアーサーの肩をはなれがたかったのである。
ともあれシルフィーナの遊び相手が務まらない状況ではわがはいたちはタダメシ食らいであった。だがどの部署でもていねいに断られた。
執事のフレンジャーはこんな感じであった。
「なにかぼくにできることはありませんか?」
「アーサーさまのお手をわずらわせるようなことはございませんよ」
厨房ではこうだ。
「アーサーぼっちゃま。男子は厨房に入らずと申します。ぼっちゃまに手伝っていただくと私どもが叱られますのでどうかおやめください」
侍女のナスターシアはカラカラと笑った。
「アーサーさまがなにかすると元々その仕事をしてた者の仕事がなくなります。仕事がないとあたしたちはクビですよ。そんなに屋敷の使用人をクビにしたいのですか?」
そう指摘されるとしいて仕事をさせてくれと言えなくなった。
思いあまって伯爵に相談した。
「お父さん。お父さんは忙しいんでしょう? ぼくにお父さんの仕事を手伝わせてもらえませんか?」
執務机で書類にハンをおしながら伯爵が顔をあげた。
「わが息子よ。十五歳になれば学校に入れる。学校で貴族の仕事を学んだあとで私の仕事を手伝ってくれないか。それまでは遊んでいればいい。子どもは遊ぶことが仕事だ。大人になれば毎日が仕事に追われる。わが領ではやることがめじろ押しだ。休ませてくれと言っても休めないさ。いまのうちに羽根をのばしておくがいい」
「ではせめて兵士たちの訓練に参加させてください」
「ふむ。たしかに乗馬だけでは腕がなまるか。それは許可しよう。貴族には剣のたしなみも必要だからな」
こうして乗馬のあとは兵たちの訓練にくわわることになった。
デルバイン家の兵士の出来は平凡であった。だがひとりだけ飛び抜けている者がいた。エドガーという兵士長である。
アーサーは三歳のころからキケムとクンスーと模擬戦をやっていた。剣の経験はかれこれ十年ある。ゴブリンは魔物だけあって運動神経は人間以上だ。そんなゴブリンたちと剣の訓練をして来たアーサーは並の兵士より格段に上であった。
そのアーサーがゆいいつかなわないのがエドガーだ。エドガーは歴戦の勇士らしく身体中に傷があった。顔にも頬に傷痕が走っていた。身体も大きい。
アーサーが何度いどんでもエドガーには勝てない。
「アーサーぼっちゃま。大人と子どもと言いますがぼっちゃまは子どもなんであっしに勝てなくて当然ですぜ。むしろぼっちゃまに勝てない大人に問題がありやしょう。連中は一からきたえ直しですな」
兵たちが一斉にいやーな顔に変わった。これ以上きびしい訓練をされてはかなわないという表情であった。
アーサーが子どもあつかいされるのはエドガーだけであった。ただそのエドガーにも弱点があった。酒好きなのである。痛飲するため朝一番は二日酔いでヘロヘロになる。
わがはいはアーサーに告げ口をした。
「乗馬の前にエドガーと手合わせするがよい」
「どうして? いつやっても勝てないよ?」
「いいや。乗馬の前なら勝てるはずじゃ」
半信半疑でアーサーがエドガーをつれ出した。案の定エドガーはねぼけまなこで完全に起き切ってはいない。
たちまち決着がついた。アーサーがエドガーの剣をはじき飛ばして首元に剣を突きつけた。
「まっ。まいりました」
その一部始終を見ていた伯爵が笑った。
「ハハハ。エドガーよ。歴戦の勇士も酒には勝てないか」
「へへへ。あっしの悪い病気ですな。昼すぎまでは調子が出ねえですぜ」
エドガーが屋敷にもどるとアーサーがふくれっツラで馬にまたがった。
「ねえニャウン。ぼくは二日酔いのエドガーに勝ちたかったんじゃないんだけど? あんな勝ち方は卑怯だよ」
「おやおや。万全のエドガーに勝つには十年早いと思うがのう。卑怯でも勝ちは勝ち。正々堂々と勝ちたければもっと訓練を重ねねばならぬな」
「うん。そうだね。いつかエドガーに勝ってみせるよ」
「わがはいの生きてるうちにたのむぞ」
「ニャウンは猫又だよね? いつまで生きるの?」
「さあ? わがはいにもわからぬ。じゃがアーサーが大人になるまでは死にたくないのう」
その日の夕刻であった。部屋の戸をたたく者がいた。侍女のナスターシアの戸のたたき方とはちがった。この屋敷の誰ともちがうたたき方であった。
アーサーが戸をあけた。フードで顔を隠した男がふたり立っていた。男ふたりがアーサーに抱きついた。
「アーサー!」
「キケム? クンスー? とにかく中に」
アーサーがふたりを招き入れた。キケムとクンスーがフードをぬぐ。ゴブリンの素顔があらわれた。
わがはいは戸に耳をつけた。廊下に誰かの足音がしないか知るためにである。ゴブリンが屋敷にいれば殺されるに決まっておるからだ。
アーサーがおどろきと不思議さに目を見張った。
「どうやってここまで来れたのさ?」
「ミラフィールドの門は荷馬車の荷台に隠れてだ。この屋敷の護衛兵は悪いが眠らせた。それよりアーサー。かーちゃがいよいよまずい。今夜がやまだ。最後に会ってくれないか?」
アーサーの顔色が青く変わった。
「かーちゃが! もちろんだ! すぐ行こう!」
ナスターシアを探して急用ができたと伝えた。ナスターシアは機転がきくからそれで対処してくれるであろう。
フードで顔を隠したゴブリンふたりをつれてミラフィールドの街中を急いだ。誰にバレても大騒ぎはまちがいなしであった。街にゴブリンが侵入したなどあってはならぬ不祥事だ。しかもいっしょにいるのが領主の息子ではなお悪い。
三人のビクビクが伝染してわがはいまでが緊張で身をこわばらせた。
ミラフィールドの門番は毎朝馬で通過するせいですっかり顔なじみであった。だが顔なじみであっても門番の仕事はきっちりこなすらしい。立ちふさがってアーサーのうしろにいるふたりに疑いの目を向けた。
「これはこれはアーサーさま。いまごろからお出かけですかい。お連れのおふたりの顔をおがませてもらえませんかねえ?」
アーサーがひたいに汗を浮かせた。ふたりがゴブリンだとバレたら殺し合いになる。それだけはさけねばならない。だがどう言いつくろうのか?
キケムとクンスーが腰の剣に手をかけた。もうひとこと門番が口を開けば門番の首が飛んだであろう。
わがはいは意を決して門番に飛びかかった。爪をのばして門番の服を斬った。次に肩に乗る。首に爪を押しあてた。
「ナーゴッ!」
わがはいは威嚇の声を門番の耳に吹きこんだ。
門番がおどろきの目で自分の服を見おろした。服はすっぱり切れている。その爪が自分の首に密着していた。門番はわがはいがアーサーの従魔だと知っている。
「ア。アーサーさま。き。気をつけていってらっしゃいませ」
門番がふるえながら三人に道をあけた。三人が街の外に出るとわがはいもホッとした。爪を引っこめて三人のあとを追った。力わざではあったがうまく行った。ひとりの死者も出さなかった。門番の裂けた服には悪いことをしたが。
村に着いたときは月が頭上までのぼっていた。
ウーフがベッドに横になっていた。アーサーの顔を見るとその目に涙が浮いた。
「ア……アーサー……」
アーサーがウーフに抱きついた。
「かーちゃ!」
「……ごめんよ……アーサー……あんたを……追い出して……」
「いいんだ。かーちゃ。あやまってくれなくていいんだよ」
「……いいや……あやまらせて……おくれ……アーサーに……恨まれて……死にたくない……」
「ぼくは恨んでなんかないから。かーちゃには感謝しかないから。死んでてもおかしくないぼくに乳をくれたのはかーちゃじゃないか。どうしてぼくがかーちゃを恨むのさ。ぼくの母親はかーちゃだけだろ」
「……アーサー……そう言って……くれて……うれしい……」
ウーフの手がアーサーの頭をなでた。その手がパタッと落ちた。力がスッと抜けたのが見て取れた。
「かーちゃ? かーちゃ? かーちゃーっ!」
アーサーが大声をあげて泣いた。キケムとクンスーも涙を流した。
通夜がはじまった。酒がくばられてアーサーとわがはいも舐めた。村中総出でウーフを見送った。みんな泣いていた。アーサーが一番泣いた。
わがはいはアーサーをなぐさめようと提案をひとつした。
「伝書鳩というのがあるらしい。下町で売っておる。鳩を飛ばして文書のやり取りをするそうじゃ。キケムとクンスーがミラフィールドに来るのは危険が大きい。伝書鳩を使って連絡を取りあえばどうじゃ?」
アーサーが涙の浮いた目でわがはいを見た。
「伝書鳩?」
「さよう。足に手紙をくくりつけると相手のところまで飛んで行くそうじゃ。さいわいゴブリンたち全員に読み書きは教えてある。伝書鳩がいれば今回のような危険をおかさずにすむじゃろう」
「なるほど。じゃためしてみようかそれ」
興味が伝書鳩に向いて涙が止まった。しめしめとわがはいは思った。こづかいは伯爵から毎月もらっているから大丈夫であろう。
翌朝にミラフィールドにもどって伝書鳩を買った。最初の一週間は屋敷に慣れさせるため屋敷の周辺を飛ばせるにとどめる。屋敷に慣れたら目的地まで持って行ってはなす。すると屋敷にもどるそうだ。
鳥かごに入れた伝書鳩を手に屋敷に着いた。そこに伯爵夫婦が乗馬から帰って来た。
ヘンリエッタが鳥かごの中を見て不思議そうな顔をした。
「あら。鳩ね。家に忘れ物をしたって鳩だったの? よくいままで逃げずにとどまってたわねえ?」
アーサーとわがはいは顔を見合わせた。昨夜留守にした言いわけはナスターシアにまかせておいた。どうやら以前の家に忘れ物を取りに行ったことになっているらしい。
伯爵が鳥かごに指を入れた。鳩が伯爵の指をつついた。人間に慣れていて怖がらないようだ。
「なんて名前だい?」
アーサーがエッとつまった。
「あ。あの。ウーフ。そうウーフです」
とっさに母親の名が出たみたいであった。また泣くかと思ったが泣かなかった。
「そう。ウーフか。可愛い名前だな」
アーサーがニコッと笑った。
「いい名前でしょう? 気に入ってるんです」
鳩を買ったのは正解らしい。生き物に接する楽しさが母親の死の悲しさをやわらげていた。
午後の訓練をそこそこに鳩を部屋の中にはなした。鳩はしばらく部屋の中を飛びまわった。最後に窓にとまった。窓から外をうかがっていた。決断がついたのか窓から外に飛び出した。
そのまま帰って来ないかとあやぶんだ。しかしすこししたらもどって来た。鳥かごの戸をあけると自分から中に入ってエサをついばんだ。かしこい鳥らしい。
一週間それをつづけたあとゴブリンの村に持って行った。キケムの家からはなしてみた。鳥屋の説明どおりだと屋敷にもどっているはずであった。
はたして屋敷に帰ると鳩が鳥かごの中にいた。次は足に手紙をつけてキケムの元まで飛んで行くかである。
なにか用事はないかと書いて鳩を飛ばした。もどって来た鳩の足には『なにも用はない』と書かれた紙がむすびつけられていた。
実験は大成功であった。三日に一度の通信がはじまった。
二週間後に悲しいたよりがおとずれた。チータランが死んだと書いてあった。
泣くアーサーとともに村に着いた。すでにチータランの遺体は長老の家に運ばれて通夜がはじまっていた。
アーサーがチータランに取りすがって泣いた。
「前ぶれもなくいきなりだったんだ。倒れたと思ったらそのまま。でもウーフのときに会ってるからうちのかーちゃも満足して逝けたと思うよ」
クンスーが説明してくれた。たしかに遺言じみたことをチータランは言っていた。言い残したことはなかったのであろう。
村人の全員が泣いているアーサーの頭や肩を交代になでた。チータランの実の子よりアーサーがチータランの息子だと村人みんなは感じていたようであった。
アーサーとわがはいの日々とそういうふうにすぎて行った。
平穏な日常に変化があらわれたのはチータランの死から三ヶ月のちであった。シルフィーナが突然の高熱に襲われた。
熱は二日でさがった。だがシルフィーナの全身がむくみはじめた。顔はプヨプヨでまん丸にふくれあがった。
わがはいはその症状に憶えがあった。
「まずいぞアーサーよ。これは脳水病じゃ」
「のうすいびょう? なにそれ?」
「全身に水がたまる病気じゃ。特に厄介なのが頭骨の中にたまった水でのう。脳みそを圧迫して脳みそを押しつぶす。そうなれば死はまぬがれぬ。じゃがそこにいたるまでひと月ほどかかる」
「ええーっ? たいへんじゃない? どうすれば治るの?」
「排水桃という果物の実が特効薬じゃ。青と赤の縞模様が特徴の実であった」
「はいすいとう? それってどこにあるのさ?」
「わがはいはドラゴンの縄張りで見た。ミラフィールドの薬屋になければドラゴンの縄張りに潜入せねばなるまい」
「ど? ドラゴン? それって危険じゃ?」
「とうぜん危険じゃ。ドラゴンは最強の魔物よ。しかしのう。わがはいは身体がちいさい。ドラゴンはわがはいをエサとは見ぬのじゃ。そのためわがはいがドラゴンの視界に入っても無視される。そういうわけじゃ。わがはいはドラゴンの縄張りまで排水桃を取りに行こうぞ」
「ぼくも行く」
「だめじゃ。わがはいひとりで行く」
「なんでだよ? ぼくも行くよ」
「そなたの大きさだとドラゴンはエサと見る。食われてしまうぞ」
「行ってみないとわからないじゃないか」
「いいや。足手まといはいらぬ。そなたはミラフィールドの薬屋を片っぱしからあたるがよい。薬屋にあればそれにこしたことはないからのう」
「わ。わかった。じゃそうするよ」
「薬屋になくてわがはいが一週間してもどらなければ冒険者ギルドに行くがよい。腕のたつ冒険者を集めてドラゴンの縄張りに派遣せよ」
言い残してわがはいはデルバイン屋敷を出た。思い起こせばアーサーと出会って以来アーサーのそばをはなれるのは二回目であった。一回目はオークの頭に岩を落としたときである。アーサーが物心ついてからはなれるのははじめてであった。
わがはいが留守の間にアーサーはミラフィールド中を駆けずりまわった。だが排水桃はどこにもなかったそうである。
伯爵は苦悩に頭をかきむしったと言う。
「ドラゴンの縄張りにしか特効薬がないのなら私が行く。シルフィーナを死なせてたまるか」
アーサーは必死でとめたそうな。
「お父さん。一週間。一週間だけ待って。一週間たって手に入らなければ冒険者に依頼して排水桃を探しに行ってもらうからさ」
「一週間? 一週間で手に入るあてがあるのか?」
「う。うん。知り合いが別の町に取りに行ってくれてる」
「そうか。なるほど。王都にならあるかもしれないな。よし一週間待とう」
そんなやり取りをしているあいだにわがはいは全速力で走っておった。眠りもそこそこに夜の森を駆ける。わがはいに危害をくわえるのは銀色狼だけである。銀色狼にさえ注意すればその他の魔物は問題ない。
三日でドラゴンの縄張りに到達した。月夜であった。
ドラゴンは虫の居どころが悪いのか火を吐き出しておった。ドラゴンは夜に眠るのが通常である。夜中にあばれるというのはめずらしい。
わがはいは燃える木をさけて排水桃の実を探した。間の悪いことにドラゴンのすぐそばの木に排水桃がぶらさがっておった。ドラゴンがもう一度火を吐けば排水桃が黒こげになる。ドラゴンの炎に焼かれた排水桃では薬にならぬであろう。
わがはいは猫又である。そもそも猫は足音を立てぬ。そのわがはいがことさら慎重に足音を殺してドラゴンに近づいた。
ドラゴンは巨大だ。建物ほどもある。食い殺されずとも踏まれるだけでわがはいはペシャンコであろう。
ドラゴンが火を吐く前に排水桃を取らねばならぬ。わがはいはドラゴンの前に出た。ドラゴンが火を吐けばわがはいも黒こげである。
ドラゴンの目がわがはいをとらえた。ピクッとドラゴンの顔が動いた。
わがはいは硬直した。恐怖で足がすくんだ。ドラゴンがたわむれにわがはいを殺しませんように。そう祈った。
ドラゴンの鼻息がブシュブシュと聞こえた。ドラゴンの口があいた。
うわっとわがはいは身をちぢめた。排水桃は目の前でゆれていた。なのに飛びつけなかった。こわくて足が動かなかったのである。
ドラゴンの口がゆっくり閉じた。あくびをしただけらしい。
わがはいは意を決して排水桃に飛びかかった。口に排水桃をくわえて枝からもぎ取る。
ドラゴンが目を大きく見開いた。しまった! 眠るのを待ってから取るべきであったか。
しかしもう遅い。わがはいの口には排水桃だ。
ドラゴンの口がまた開いた。のどの奥に炎が見えた。
わがはいは脱兎のごとく飛んだ。ドラゴンののどの奥からせりあがった火はゴーッと音を立ててわがはいの背中の毛を焼いた。
わがはいは排水桃をくわえたまま地面を転がった。背中についた火を消すためである。
その間にドラゴンの炎が迫って来た。わがはいは背中の火より逃げることを優先した。
ダダダッと必死で駆けた。炎はすぐうしろから追って来る。背中では毛が燃えている。口には排水桃であごがだるい。
はじめから燃えていた大木が燃えつきて倒れて来た。わがはいは急停止をかけた。目の前に燃える倒木が横たわった。前もうしろも炎だ。絶体絶命であった。
万事休すと目を閉じたそのときである。別の燃えていた木が倒れて来た。その木は燃えてない木を巻きこんで倒れた。
ズズーンと地響きがして燃える木の上に火のついてない木が乗っかった。やったとわがはいは火のない木の上を走った。
すぐに下敷きになった燃える木の炎が燃えてない木をもこがしはじめた。炎がわがはいを追って来る。
背中にやけどをして痛い。排水桃を落としては元も子もないからあごに力をこめる。炎からも逃げなければならぬ。足が限界に近い。
ドラゴンがわがはいの背後でまた火を吐いた。炎がゴーッとわがはいの頭上を通過した。わがはいは猫又でよかったと首をすくめた。もっと大きな獣であれば頭部を炎が直撃であった。
わがはいは必死で逃げた。炎からも。ドラゴンからも。
火の粉が雨となり降りそそいだ。熱風が吹きつけると呼吸ができなくなった。
燃える森の木が次々に倒れて来た。わがはいは右に左に飛び跳ねながらよけた。駆けながら飛んで飛びながら駆けた。
気がついたときにはドラゴンの縄張りを抜けていた。わがはいはひと息ついてうしろを見た。森がひとつ炎に包まれていた。炎に照らされたドラゴンは眠っていた。うっぷんは晴れたらしい。人騒がせな竜であった。
わがはいは排水桃を地面に置いて背中を舐めた。毛がなくてやけどが痛い。とうぶん風呂には入れそうにない。
気を取り直して排水桃をくわえた。早くこれを持って帰らねばとミラフィールドを目ざした。
一週間目の朝であった。わがはいは運悪く銀色狼の群れと鉢合わせした。
疲れで警戒がおろそかになっておった。
「ウーッ! ガウッガウッ!」
五匹の銀色狼がわがはい目がけて飛びかかって来た。わがはいは五匹を次々とよけた。
ヒラリヒラリとはいかなかった。ヨタリヨタリとのろのろよけた。
わがはいの鼻先に銀色狼の大きくあいた口が迫る。わがはいは足をとめてかろうじてよけた。わがはいのまぶたの先で銀色狼のくさい口がガツンとしまった。
わがはいの身体をかすめて銀色狼の口が次から次に閉じて行く。かみつかれないのは奇跡であった。
わがはいは最後の力をふりしぼって木に飛びついた。爪を立てて木の幹を這いあがる。追いかけて来た銀色狼も飛びかかった。わがはいの自慢のシッポのすぐ先で銀色狼の口がバクンと閉じた。
間一髪でわがはいは木にのぼり切った。銀色狼五匹は木のまわりで威嚇しながら時おり木に飛びついた。
わがはいは銀色狼が去るのを待った。だがいつまでたっても銀色狼は去ろうとしなかった。それほど飢えているらしい。
昼がすぎてもまだ去らぬ。わがはいはじれた。早く帰らないとアーサーが心配する。冒険者ギルドで冒険者を雇おうとするかもしれぬ。
わがはいは決意をかためた。銀色狼が飛びかかれるぎりぎりまで木を降りた。
「ガウッ! ガウッガウッ!」
銀色狼が飛びかかって来る。その目を狙って爪をくり出した。
「ギャワンッ!」
まず一匹。地面に転がった。
銀色狼は知恵がたりないのであろう。仲間が目をつぶされたというのに同じ攻撃をして来る。今度は二匹が同時に飛びついて来た。わがはいは爪をあやつって二匹の目を斬り裂いた。
「ギャワンッ! ギャワンッ!」
これで三匹。
四匹目の銀色狼も芸がなく飛びかかるだけだ。
「ギャワンッ!」
四匹め。
最後に残った一匹になってやっと逃げ出した。
わがはいはホッとして木を降りた。
木からはなれてしばらく進んだときだ。背後から影が飛びかかって来た。逃げたと思った銀色狼であった。すこしは知恵を使ったらしい。
わがはいは銀色狼と対峙した。ジリジリと時間が流れる。
ピクッと銀色狼の前足がゆれた。
来る!
わがはいは爪をのばして身がまえた。
銀色狼が飛びかかる。わがはいはかろうじてよけた。速さは銀色狼のほうが速い。爪をふるうのがわずかに遅れた。
次こそはと立ちあがる。二本足で立つわがはいに銀色狼は動揺したようだ。
飛びかかる動きがにぶった。
いまだとわがはいは銀色狼の目に爪を立てた。
「ギャワンッ!」
銀色狼が地面に転がった。目が見えない銀色狼は敵ではなかった。
わがはいはゆうぜんとミラフィールドに足を向けた。銀色狼の常識に二本足で立つ猫はいないらしい。わがはいは猫ではない。猫又である。とうぜん二本足で立てる。
屋敷にもどるとアーサーに抱きしめられた。
「よかった! 無事だったんだねニャウン!」
わがはいは排水桃を口からはなした。
「再会をよろこんでる場合ではない。早く排水桃をシルフィーナに食わせてやれ」
「わかった」
アーサーが排水桃を手に伯爵の執務室に向かった。
「手に入りました! これが排水桃です!」
「おおっ! それがそうか! さっそく食べさせよう!」
侍女が呼ばれて排水桃が切り身にされた。
シルフィーナの部屋に伯爵を先頭に入る。ベッドのシルフィーナは苦しそうだ。顔はパンパンに腫れあがっている。
伯爵が排水桃をシルフィーナの口に入れた。だが食べない。かむ力がないらしい。
伯爵が排水桃をスプーンの背でつぶす。ヘンリエッタがシルフィーナの口を無理やりこじあけた。伯爵がドロドロにした排水桃をのどに流しこむ。ヘンリエッタが口を閉じさせた。ゴックンとシルフィーナが飲みこんだ。
全員がフウとため息を吐き出した。伯爵がアーサーの顔を見た。
「これで助かるのかね?」
アーサーには答えられない。無言だ。
ヘンリエッタが代わりに口をはさんだ。
「様子を見るしかないわ。待ちましょう」
伯爵は納得できないのかシルフィーナの枕元をはなれようとしなかった。
わがはいはアーサーを室外につれ出した。
「アーサーよ。侍女のナスターシアをシルフィーナにつけるがよい」
アーサーがけげんな顔を見せた。
「なんで? シルフィーナにも専属の侍女がいるよ?」
「排水桃は体内の水を体外に押し出す役目をする。つまり体内の水はすべて尿として排出される。間断なく排出されるそうじゃ。侍女はシルフィーナのおむつを替えるのに大わらわになるであろう。ひとりでは手が足りぬ」
「なるほど。わかった」
アーサーがナスターシアに事情を話して大量のおむつを用意させた。そのあとは侍女が四人がかりでシルフィーナにかかりっ切りになったそうである。邪魔になる伯爵は部屋を追い出されたという話であった。
三日たってシルフィーナの全身のむくみが取れた。五日後にはベッドをはなれることができた。
わがはいもアーサーも胸をなでおろした。そのとき戸をたたく音がした。
アーサーが戸をあけると入室して来た伯爵とヘンリエッタから抱きすくめられた。
「シルフィーナの命の恩人だ! きみを息子にして本当によかった! あの排水桃にいくらかかった? さぞかし高価だったんだろうね?」
アーサーが言葉につまった。猫又のニャウンが取って来たとは言えないせいだ。
「いえ。その。ぼくのこづかいで買える額でした」
「そうかい? じゃ来月からこづかいを倍にしてやろう。そんなことで恩返しにならないが取りあえずそうしとこう。私にたのみがあったら言ってくれ。なんでも聞いてやる」
「あ。じゃひとつ」
「なにかね?」
「お父さんもお母さんもここしばらく寝てないでしょう? いまからぐっすり眠ってください」
伯爵があっけに取られた顔をした。ヘンリエッタがアーサーを抱きしめた。
「わかったわ。これから昼寝をします。ありがとうアーサー。あなたはやさしい子ね」
ヘンリエッタが伯爵の手を引いて退室した。
そこに戸をたたく音がした。
「なにか忘れ物ですか?」
戸をあけたアーサーにシルフィーナがしがみついた。
「お兄さま!」
アーサーが目を白黒させた。
「シルフィーナ? きみ?」
「お兄さまがわたしの命をすくってくれたと聞きました。すごく苦しかったのに嘘みたいに楽になりました。ありがとうございます。お兄さまはわたしの命の恩人ですわ。これまで冷たくしてごめんなさい。でももう一生はなれません」
「いや。はなしてくれないと困るんだけど」
「だめです! はなしません! お兄さまはわたしのものですわ!」
わがはいは顔をしかめた。シルフィーナがアーサーになついたのはよろこばしい。だが極端すぎないか?
アーサーが顔をわがはいに向けた。助けてニャウンと言っている。
わがはいは二本足で立ちあがって肩をすくめてみせた。どうしようもないと。
アーサーの肩がカックンと落ちた。
それ以来シルフィーナはアーサーにつきまとった。乗馬のときもいっしょに馬に乗るようになった。兵士たちとの訓練は庭のすみで見ている。風呂までいっしょに入ろうとしてさすがに侍女にとめられた。
シルフィーナにつきまとわれてアーサーもまんざらでもないらしい。アーサーにとって自分を追い抜かないはじめての妹だ。兄さんヅラができる人間の妹がうれしいようである。
ある日のことだ。兵士たちとの訓練を終えたアーサーにシルフィーナが近づいた。
「お兄さま。実は金口鳥が死んでしまったの。下町に鳥の専門店があると聞きましたわ。つれて行ってくださいません?」
「うん。いいよ」
わがはいは思い起こした。前回に伝書鳩を買ったとき金口鳥も売っていた。人気の鳥なのか『本日入荷』と書かれていた。
アーサーには自分が貴族の息子だという自覚がなかった。シルフィーナのことも貴族の娘だと認識していなかった。わがはいもシルフィーナが貴族の娘だと考えたことがなかった。
アーサーがシルフィーナの手を引いて屋敷を出た。わがはいはアーサーの肩の上だ。
屋敷町を抜けて商会が集まっている一画に来た。商店の立ちならぶミラフィールド一の繁華街であった。露店がぎっしりと道の両がわを埋めて人々が買い物に興じていた。雑踏と言ってよく迷子にならないようにアーサーがシルフィーナの手をギュッとにぎった。
芋の子を洗うような人波に踏みこんだ。ここを抜ければ下町であった。
道のなかばまで来たときだ。騒ぎが起きた。背中から騒ぎが迫って来る。
「馬だ! 馬車が暴走してるぞ!」
「キャーッ!」
「うわあっ! 逃げろっ!」
「押すなっ! 押すんじゃねえっ!」
人波がふたつにわかれてその空白を二頭立ての馬車が突進して来た。逃げる人々の大波にわがはいたちは飲まれた。
「お兄さまっ!」
「シルフィーナッ!」
アーサーとシルフィーナの手がはなれた。そこに馬車が突っこんで来た。馬車の先には逃げる人々の最後尾があった。このままだと人々の群れに馬車がぶちあたる。
アーサーが腰の剣を抜いた。馬の首に斬りかかる。二頭の馬の首を切り裂いた。
「ヒヒーンッ!」
馬の足が力をなくした。ドウッと馬が倒れる。馬車が馬に乗りあげて横倒しになった。
ワーッという歓声とパチパチパチと手をたたく音が重なった。助かった人々が口々にお礼をのべた。
アーサーが馬車の戸をあけた。横倒しになったものの乗っている人にケガはないようであった。
そのときになってアーサーがハッと気づいた。
「シルフィーナ?」
周囲を見回すがシルフィーナの姿はどこにもない。人波に飲みこまれて運び去られたようだ。
アーサーが人垣をかきわけて下町へのさかい目を見た。やはりシルフィーナはいない。
わがはいはそのときやっと護衛をつけるべきであったと後悔した。シルフィーナは貴族の娘だ。下町にまぎれこんだら誘拐されるかもしれぬ。
「アーサーよ。手分けしてシルフィーナを探すぞ」
返事を聞く前にわがはいは駆け出した。下町はわがはいの庭である。わがはいの知らぬ路地はない。
誘拐犯がかどわかした娘をつれこむ界隈に心あたりがあった。わがはいの足は一直線にそこに向かった。
「やめて! はなして! なにするのよ!」
路地の奥でシルフィーナがふたりの男に足と胴をかかえられて抵抗していた。
「傷つけるなよ! その娘は大金に変わるんだからな!」
頭目らしい男が部下たちに声を飛ばした。大男であった。繁華街で高そうな服を着た娘に目をつけてさらう常習犯らしい。
わがはいはシルフィーナの足をかかえている男めがけて飛びついた。男の目を狙って爪で切り裂いた。首を狙ってもよかったがシルフィーナの前で殺人はまずかろう。
「ギャアッ!」
男がシルフィーナの足を地面に落として目を押さえた。
もうひとりの男がひるんでいるすきにわがはいは爪を男の目に見まった。
「ウワッ!」
シルフィーナの上半身も解放された。
「なんだ? こいつ? 猫?」
頭目が剣を抜いた。わがはいとにらみ合う。
わがはいが飛びかかる。頭目が剣でわがはいの爪に合わせた。
キン! かんだかい音が路地にひびいた。
わがはいが飛ぶ。頭目が爪を剣ではらう。
飛ぶ。はらう。飛ぶ。はらう。飛ぶ。はらう。飛ぶ。はらう。
決着がつかなかった。頭目の腕はなかなかであった。
頭目が攻勢に出た。剣でわがはいに斬りかかる。わがはいは爪で受けた。
斬る。受ける。斬る。受ける。斬る。受ける。斬る。受ける。斬る。受ける。
きりがなかった。わがはいは一計を案じた。
わがはいは飛んだ。頭目が剣を顔の前にあげた。
ここは路地であった。建物の窓がある。わがはいはその窓にいったん着地したあと頭目の背後から飛びかかった。うしろから手をのばして頭目の首を爪で斬った。
血が前にブシューッと噴き出した。頭目の身体がガックリとひざからくずれた。
頭目の死を確認して顔をあげるとシルフィーナが口をカタカタとふるわせていた。歯の根が合わぬほど怖いらしい。地面に腰をおろしている。腰が抜けたのかもしれなかった。
わがはいはニカッと笑顔を見せた。
「こわがらずともよいシルフィーナよ。もうすべて終わった」
「キャーッ! ばっ! 化け物っ!」
どうやらシルフィーナが恐れたのはわがはいであった。
「わがはいは化け物ではない。猫でもない。猫又である」
「えっ? ねっ? 猫又? なにそれ?」
「猫が三十年生きると魔物になるそうじゃ。わがはいはそれゆえしゃべれる」
「ま? 魔物? 猫じゃないの?」
「さよう。もう猫ではない。魔物である」
「うそ?」
「うそではないぞ。その証拠にしゃべっておるであろう? ただし伯爵とヘンリエッタにはないしょにたのむ」
「大人に猫がしゃべるって言っても信じてもらえないわよ」
「それもそうであるか。まあこんなところにいてもしようがない。アーサーの元にもどろう」
わがはいはシルフィーナの肩に飛び乗った。シルフィーナがビクッと全身をふるわせた。
「こわがるでない。わがはいはシルフィーナに危害はくわえぬ。タダメシを食わせてもらっておる家のご令嬢じゃからな」
シルフィーナがおそるおそる立ちあがった。
「路地を出たら右じゃ」
歩きながらシルフィーナが声をひそめた。
「アーサーお兄さまもニャウンがしゃべれるって知ってるの?」
「知っておる。わがはいはアーサーが赤子のときから面倒を見ておる。アーサーに常識と文字を教えたのもわがはいである」
「ふうん。じゃお兄さまが剣の達人なのも?」
「もちろんわがはいのおかげじゃ。まあそこいらへんはのちほどくわしく話してやろう。そうそう。鳥屋に行くならその先を左じゃぞ」
「ううん。いい。いまはお兄さまに早く会いたい」
「では右に曲がるがよい。アーサーにははぐれたときはふりだしにもどれと言い聞かせてある。下町の入り口で待っておるはずじゃ」
アーサーの姿が見えるとシルフィーナが走り出した。
「お兄さまっ!」
シルフィーナがアーサーに抱きついた。
アーサーがシルフィーナの肩に乗るわがはいをマジマジと見つめた。
「ニャウンがぼく以外の者の肩に乗るなんて」
わがはいはアーサーの肩に飛び移った。
「シルフィーナにはわがはいの秘密を打ち明けた」
「えっ? 打ち明けたの?」
「さよう。そなたの妹じゃからかまわぬであろう」
「あれほど秘密にしろって釘を刺してたのに?」
「大人にはである。子どもは大人ほど欲に満ちておらぬ」
今度ははぐれないようにアーサーがシルフィーナをおんぶして屋敷に帰った。