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あなたを愛したことなど一度もなかった

作者: 久里

 

 彼は美しいひとだった。

 後ろに一つで括られた淡い金の髪は鮮やかで、白い肌に宝石のような緑の目。スラリと伸びた姿勢の良い体躯。仕草の一つ一つに品があって、とても綺麗に微笑むひと。若くして大魔法士の資格を得て、魔王討伐に大きく貢献したからと伯爵位まで手に入れた。


 稀代の英雄、ルキウス・エインズワース。

 王都の乙女達は貴族も平民も誰もが彼に夢中で、たったひと目でもルキウスの姿を見ようとルキウスが出席する式典には多くの人が訪れていた。

 ルキウスはきっと、選ぼうと思えばどんな高位の貴族の娘でも、お姫様だって選べただろう。それほどまでにルキウスの人気は凄まじく、ルキウスの実力は素晴らしかった。


 だけど、何故か、どうしてなのか。ルキウスが選んだのは私だった。

 生まれは国の外れの小さな村で、何の得意があるわけでもなく、強いて言えば刺繍や繕い物くらい。お姫様のように特別美しいわけでもない。ルキウスに何か利益をもたらせるわけでもない私を、彼は選んだ。


 ルキウスは村に近い山に棲み付いていた、魔物でも魔族とも言えないような〝何か〟の生贄として差し出された私を救い出して、そのまま妻にしたのである。


 彼はとても理想的な夫だった。強く、美しく、権力や財産も持ち合わせていて、何より私のことを一心に愛してくれた。理性的な目、鋭利ささえ感じる普段の表情は、けれど私を見つめる時だけは柔らかな微笑みに変わった。彼はとても綺麗に微笑む人だったけれど、そこにあたたかな柔らかさが加わるのは、いつだって私の前だけだった。

 言葉を尽くして、行動で示すようにルキウスは私を愛してくれた。結婚して何年経とうと、ルキウスは決して他の女性に目を向けることもなかったし、どんな些細なことだとしても、喜ばしいことが起こるたびに花束を贈ってくれた。天気のいい日は外に連れ出して、買い物をしたりカフェで休んで過ごした。


 ルキウスに一心に愛される私を、お姫様も貴族のお嬢様も町娘も、誰もが羨んだ。

 だけど私はどうしようもない人間で、それでも一度として、彼と共にいて幸せを感じられたことなどなかったのだ。


「エレナ、エレナ……!!」


 刺された下腹部がカッとするほど熱くて、それと対照的に冷える指先。血が流れ過ぎたのか頭がぼうっとして、今まで見ていたのが走馬灯だったのだと気が付いた。

 ぼやける視界に映る金色の髪。縋るように抱えられ、手を掴まれていることが何となく分かった。


「ああ、ああ駄目だエレナ、行かないでくれ、っ、どうして、どうして治らない!!」


 ああ、ああ、とうわ言のようにルキウスが言葉をもらす。何のために魔法がある、と、悲鳴のようにルキウスが叫ぶ。どうやらルキウスは今、とても悲しんでいるらしい。ぽたぽたと落ちてくる雫がルキウスの涙だと気が付いて、私はただ、なんだ、と思った。


 なんだ、ルキウス。あなた泣けたの。

 こんなことで、泣けてしまうの。


 そう思うと、なんだか不思議と胸がスッとする思いだった。そうか、と思った。私はずっと、ルキウスを恨み続けていたのだ。ずっとずっと悲しくて、分からなかったけど、私はルキウスがどうしようもなく憎かったのだと気が付いた。









 ▪︎ ▪︎ ▪︎ ▪︎


 ───逝ってしまった。消えてしまった。私を置いて、愛しいひとが死んでしまった!


 身を切られるような絶望を覚えている。

 叫び出したくなる程の衝動。泣き喚きたくなる程の悲しみ。私を番と定めたあのひとの命が私の身体を流れ出ていくのが分かった。


 愛していた、とかけられた言葉が最期だった。有無を言わさず隠された洞窟の中。そこに私を閉じ込める為に置かれた大岩を、手が傷だらけになってなお叩き続けた。カイ、カイ、と何度も彼の名を呼んだ。魔物でも魔族でもなかった。人間でもなければ精霊とも呼べない悍ましいもの。そうあれとして生まれたひとりぼっちであった彼の名を、私だけが知っていた。


 私が生まれた村はとても貧しく、そして厳しい場所にあった。

 この国は、国の中央から外れれば外れる程に神様のご加護が薄くなると言われている。それでいうと私の村は国の最果てに位置しており、魔物の数も中央とは比べ物にもならない程に多かった。


 家も作物も、たくさんの物が壊されて、たくさんの人が死んでいった。

 綺麗事だけでは人間は生きていけないのだと気が付いたのはいつのことだったろうか。いつしか私達の村は、ろくに当てにならない神様に祈るより、確かにそこにいる悍ましいものに縋ることを選ぶようになったのだ。


 最も力の強く、最も知性のある魔物が棲まう森があった。村はある時からそんな魔物に交渉をはじめ、五年に一度、村から多くの作物と一人の人間を供物として差し出す代わりに庇護を求めたのである。


 生まれたばかりの赤ん坊から、働くことのできなくなった老人まで、村は数十年に渡って人間を魔物に捧げてきた。

 捧げられた人々の共通点は、立場の弱い人間であるということ。息子夫婦に先立たれたお婆さんや、口減しの為に両親に捨てられた小さな子供。そして、仕方のない事故によって家族に先立たれた娘もそれに当たった。


 それまで見ることもなかった、見事なドレスを着せられた日のことを覚えている。村長が眉を下げながら「すまないなあ」と慰めのようにかけられた言葉。


「だが、分かってくれるね。これも全て、村に住む皆の為なんだ。生きる為には仕方のないことなんだよ」


 私は、それに何と答えたのだろうか。覚えていないのは、多分どうでもよかったからだ。自分の現状を嘆くには、きっと多くの時間が経ち過ぎていた。


 前回の捧げ物が終わった直後に、私の家族は死んでしまった。その時の私はまだ10にもならないような子供だった。村にとって後ろ盾のない子供というのはとても都合の良いものであり、私は村長の家の元に引き取られ、つまり次の捧げ物にする為に育てられたのだ。


 どうせ五年後に死ぬ子供に敢えて優しくしようなんていう物好きなひとは、そこには居なかった。

 日が昇る前に起きて、夜が暮れるまで仕事をしていた。家畜の世話に畑の世話。掃除に洗濯。ボロ布みたいな服を着て、わずかな食事で日々を繋いだ。うまくやれないと打たれて罵られて詰られるから、怒られない為だけに必死に働いた。


 優しかった両親、大好きだった家族はもう居ないんだって思い出す度に悲しくなった。だけど失ったものはどうしたって戻ってこないし、現状を変えられるわけでもない。多分、あの時の私はとっくに諦めてしまっていたのだろう。


 山ほど積まれた作物に囲まれながら、私は森の奥深くへと運ばれた。そして運び役の若い男達が去って、真上にあった太陽が沈み日が暮れた頃。

 私達は、出会ったのだ。


 とても悍ましい化け物だった。竜のようにも獣のようにも見える頭。腐って溶けたみたいに崩れた黒い身体。赤い色のが私を鋭く睨み付けて、唸り声はゴウゴウと低く恐ろしかった。


 身体は恐怖に強張って、だけど、悲しくはなかった。ただ受け入れるように化け物を見上げていた。

 すると、ふいに彼が言葉を話したのだ。ジッと私を睨み付けるように見つめたまま、泣かないのか、と。どこか不思議がるように。


 それが私達の始まりだった。

 村では魔物とされていたカイは、けれど魔物ではなかった。カイはずっとずっとの大昔に人の手によって作られた生き物だったのだ。食べた物のあらゆるものを引き継ぐ特性を持っていて、だから人の姿をとることも出来た。悍ましいあの姿はカイの本性であり、けれどカイは人にも獣にも魔物にも、あらゆるものに成ることが出来たのだ。


 カイは寂しいひとだった。知性を持ち、心を持っていた。だけど同じ種族は他に一人として居らず、他の生き物には恐れられるばかりのひとりぼっちの生き物で、きっと私達は、ひとりきりというところが少しだけ似ていたのだ。


 傷を舐め合うようなものだったのだろう。私達は自然と寄り添い合うようになって、朝も昼も夜も、ずっと側に居た。

 黒い髪に赤い目の、ほんの少し中途半端に獣の皮膚が残った人間の姿で、カイはずっと私の隣に居てくれた。森を歩き、木の実を食べて、日向の草に寝転び息をした。


 いつからだろうか。

 そうして二人きりで過ごすうちに、私が抱くのは恐怖や達観のような、寂しさのような仕方のない感情ばかりではなくなった。

 ただ純粋に喜ぶことを思い出したような、星を眺めて感動する心を取り戻したような感覚。私がひとつひとつ取りこぼしたものを拾い集めるのと合わせるように、カイがひとつひとつ、知らなかったものを手に入れていたことが嬉しかった。


 不器用だったカイはいつしか優しさを手に入れて、思いやってくれるようになった。握りしめすぎて少し萎れた小さな花。両手いっぱいに集めた木の実。私の手を引いて歩いてくれた森の中。うさぎや鳥を捕まえて、顔に血を飛ばしながらニコニコと笑ってくれたひと。


 あれが恋だったのかはわからない。

 だけど、私は確かに彼を愛していた。

 あんなに悍ましく恐ろしかったカイの本性だって、ちっとも怖くなかった。硬い鱗に身体を預けて眠る夜が幸せだった。私にとって、カイの側は世界中のどんな場所よりも安心できるところだったのだ。


「エレナ!」と私を呼んでくれたカイ。大人の男の人みたいな肉体で、子供みたいに笑うひとだった。竜みたいな鋭い目は、だけどいつだって少年のようにキラキラと輝いていた。

 本性の姿に戻る時は、決まって長い爪で私を傷付けないようにその大きな手を丸め込んでいた。私から抱き付くと、いちいち大袈裟に喜んでくれるのが嬉しかった。


 ある時、「はじめて生まれてきて良かったって思えたんだ」とカイは言った。

 人間の姿。星空みたいに、静かな顔付きで私を見つめていた。


「何百年も、何千年もひとりで……、魔物も魔族も人間も、仲間がいる他の奴らが羨ましかった。俺を作った人間は、俺を壊せなかったし、俺を自分の子供みたいに愛することもなかった。俺は多分、ずっと寂しかったんだよ」


 カイの大きな手が、そっと私の髪を撫でた。

 壊れ物に触れるみたいな優しい手付きが、私はなんだかとても悲しげに思えてならなかったことを覚えている。


「だから、俺は俺に怯える奴らが憎かった。拒絶されるのが嫌で、不快で、悲しいのを抑え込めるみたいにただひたすら食べてた。こんな人生に何の意味があるんだって、何回も考えたよ。……でも」

「……カイ?」

「でも、俺は……、俺はきっと、エレナに会うために生まれたんだ。ああいや……、それも少し違うかな。エレナと会えたから、俺が生まれたことにも、俺の人生にも、はじめて意味が生まれたんだよ」


 そう言うと、カイは笑った。「自分以外の何かを大切に思えることって、こんなに幸せだったんだな」って微笑んだ。優しくて、あったかくて、少しだけ泣きそうみたいな感じに不器用な笑顔。

 ささやかな力が私を優しく抱き寄せた。私はそれがとても、泣きたくなるほど幸せだった。大きな力を持つカイが私を思い切り抱きしめられないのなら、ちっぽけな力しか持たない私がその分強くカイを抱きしめたかった。


 カイは背中に回された私の手に一度びっくりとして、だけど、やがて「ああ、」って息を吐いた。


「多分、これが愛だ」


 人と関わることもなく、人の心を知ることのなかったカイにとって、それははじめて知る答えだったのだろう。

 私は「ええ」と頷いて、「そうね」と笑って、「愛してる」ってカイをもっともっと力を込めて、ぎゅっと抱きしめた。

 そうして私はカイの全部を受け入れて、カイの番となり、カイと同じだけの時間を生きられるようになったのだ。


 愛していた。大好きだった。大切だった。

 誰にも祝福されることのない二人だっただろう。だけどそんなことどうだって良かった。気にしたことも、考えたこともなかった。

 カイと居るだけで私は世界中の誰よりも幸せだったし、それにカイとなら幸せになれなくっても良いとさえ思えた。私はカイとなら、不幸になったって良かったのだ。


 私達は唯一だった。

 カイと棲む森の奥深くの場所が私の世界の全てであり、それはきっとカイも同じだった。国の最果てだからか、度々訪れるドラゴンさえ軽く仕留めてしまえるほど強い力を持っていたカイならば、きっと行こうと思えばどこへだって行けただろう。だけど私達は互いが居ればそれで良くって、二人で暮らすその森は、魔物が蔓延り毎日何処かで魔物同士の争いの声や断末魔が上がっていたけれど、それでも私達にとっては楽園に等しかったのだ。


 旅をしていたルキウスが、私達の元を訪れるまでは。


 カイは気付いていたのだろう。長くこの世界を支配していた魔王。ルキウスは、そんな魔王討伐に最も貢献した魔法使いだった。優れた魔法使いであるだけでなく、勇者に剣の稽古を付ける程剣士としても優秀で、彼に指導されたことによって勇者一行は魔王を討ち滅ぼすほどの力を身に付けたのだ。ましてやカイは私に命を分けた状態で、勝てる確率は殆どないに等しかっただろう。


 カイは私を隠し、ルキウスを迎え撃った。そして三日三晩の戦いの末に敗れて死んで、人為的に作られた生き物だったからだろうか。骨さえ残さず消えてしまった。


 私はそれを、隠された洞窟の中で、ただ泣き崩れながらに感じていた。カイに命を分けられた私が、ただの人間に戻っていくのがわかる。カイの命が流れ出ていくのがわかる。悲しくて悲しくて、涙が溢れて止まらなかった。

 二人でどこまでも逃げてしまいたかった。だって私達は、互いがいればそれだけで良かったのに。でも、それをさせなかったのは私だった。私が居たから、カイは逃げられなかったのだ。


 崩れた大岩。開かれた洞窟。崩れ落ちる私の姿を見て、ルキウスはハッとして息を呑んだ。

 それはきっと、私がほんの少し膨らんだお腹を抱きしめるように抱えながら、カイを呼んで涙を流していたからだ。










 ▪︎ ▪︎ ▪︎ ▪︎


「お母さま!!」


 幼い声に呼びかけられて、私は引き戻されるように目蓋を開いた。

 何度かまばたきをして、見知らぬ天蓋を視界に収める。ゆるやかに顔を横に向ければ、そこには小さな男の子が、はらはらと涙を流しながら、まるで祈るように私の手を握っていた。


「………レ、イ?」

「っ、お母さま、お母さまあ……!!」


 レイはわっとますます泣いて、飛び掛かるように私の首元に抱きついてくる。やけに重い身体をグッと力を込めて動かした。柔らかな髪。私と同じ茶色の髪の毛。この色が、レイの本当の色ではないことを私は知っていた。


「…、わたし、は、」

「お、お父さまが、お母さまのこと助けてくれて……!お、お母さま、死んじゃうかもしれないって、っ、でもっ、」

「レイ……」


 ひくひくと泣く小さな男の子。私の息子。私とカイの、人と人ではないものの合いの子。

 レイ自身も知らないこと。あの後ルキウスは私を連れ帰り、妻にして、お腹にいたレイを我が子と偽ったのだ。全部を隠して、私達のことを庇ってくれた。


 本当なら、私もレイも、始末しなければならなかったはずなのに。偉大な魔法使いであるルキウスは、魔法師協会の一員として世界の平定を担う役割を持っている。

 だというのに彼は、まるで世界からこの事実を隠すように振る舞った。まるで守ってくれるみたいに。

 それがカイを殺したことの贖罪だったのかは分からない。だけど、ルキウスがこの秘密を守る為にどれだけ尽くしてくれていたのかは知っていた。

 彼はその為に、助力を願った勇者の誘いを断って、勇者一行に加わらなかったのだ。ただ教え、時に力を貸すだけに留め、臨月を迎えていた私の側を決して離れなかった。


「もう大丈夫よ。お母様なら、平気だから……」

「っう、ひくっ、」

「泣かないで、レイ……」


 大丈夫、大丈夫、と何度も頭を撫でる。

 掠れた声に、やけに重苦しい身体。私はこの感覚を知っていた。カイと居たときに、全く同じ状況になったことがあるのだ。

 だけど、まさかと思う。そんな筈はない、と頭のどこか冷めたところが否定する。


「レイ、その辺りにしてやりなさい。お母様は治療が済んだばかりで、まだ疲れているだろうからね」

「っ、」


 聞こえてきた声に、私はハッと視線を巡らせた。そしてようやく、ここがルキウスの部屋であったと気が付く。

 息を呑んだ私が何かを言う前に、レイが「お父さま」と目を潤ませた。ルキウスはそれにレイの頭を撫でると、「そんな顔をしないで」と苦笑して優しく言葉をかける。


「お母様のことはもう大丈夫だから、お前も一度部屋に戻りなさい。食事を抜いただろう。食べなければ、お前の方が身体を壊してしまうよ」

「、でも……」

「不安なら、今日はここで寝ると良い。寝巻きに着替えておいで。急拵えになるが、ベッドをもう一つ作るから、今日は私と眠ろう」

「!お父さま、ほんとう……!?」

「ああ。部屋には一人で戻れるね?」

「はいっ!」


 レイはそう言ってパッと笑うと、「お母さまの分も何か持ってきてあげる!」とパタパタと嬉しそうに駆けていった。素直で屈託のない笑顔は、やはりどこかカイを思わせる。私は僅かに微笑みながらレイの後ろ姿を見送った。


 子供特有の軽快な足音はすぐに遠ざかる。

 部屋に残されたのは、私とルキウスの二人。嫌な静寂が部屋に満たされた。


「───、エレナ……」


 先に話したのは、ルキウスだった。

 彼はベッドの側の椅子に腰を下ろし、「身体の調子は?」と、彼にしては随分と衰弱した様子で問いかけた。レイの前では隠してくれていたのだろう。レイはルキウスを父と慕っている。両親がどちらとも衰弱した様子であれば、

 私はルキウスの問いに、少しの沈黙の後、「少し、怠い程度よ」と答えた。


「怪我が痛む様子はないわ。……治してくれた、のね」

「……ああ。そうとも答えられるね」


 歯切れ悪く答えたルキウスに、予感が現実味を帯びてくる。心臓が嫌な音を立てるのを抑え込むように手を握り込めて、ルキウスの言葉の先を待った。

 彼はどこか諦めたような、それとも受け入れたような表情でそこに居た。ルキウスの手が私に伸びる。だけど触れる直前で、躊躇うように触れるのをやめた。


「私の命を君に分けた。すまない。勝手なことをした」

「……どう、して」


 だってそれは、禁術と呼ばれる類のものなのでしょう。

 言いかけた言葉を、私はすんでのところで呑み込んだ。言葉にする勇気が無かったのだ。頭がまだ混乱していて、現状が呑み込めない。だけどルキウスは、まるでそんな私に追い打ちをかけるように、言葉を躊躇わなかった。


「君を失いたくなかった」

「、」

「迷わなかったといえば嘘になる。だが、君の居ない世界を想像したら、そんな迷いなど簡単に無くなった。そんな世界は耐えられない。生きている意味がないんだ」

「……わからない、わ。どうしてあなたが、私に拘るのか。こんなにも、優しくしてくれるのか……」

「エレナ、それは」

「私は、あなたに返せるものなんて、持っていないし……、それどころか、あなたを恨んでさえいるのよ。カイを奪った、あなたを……」


 あの頃。カイは私にとって全てだった。北であり南であり東であり西であり、昼であり夜、話であり歌だった。月も太陽も水も炎も、世界の全部はカイで出来ていて、そんな世界は私にとって楽園に等しかった。

 今でも思う。あのままカイとあの場所に居れたなら、あれからカイとどこへだっていけたのなら、どんなにしあわせだっただろう。たとえ世界に背いても、神様に背いても、人のように生きられたのなら、人間になりきれないまま駄目になってしまえたら、どんなにしあわせだっただろう。


 カイが遺してくれたレイを守りたくてルキウスの妻になった。ルキウスはずっと、私の身に余るほど完璧な夫だった。

 だけど私は、カイと並べる、不完全でいびつな人生の方がずっとずっと愛しかったのだ。ルキウスが贈ってくれる丁寧な花束よりも、かつてカイがくれた不器用で不恰好な、握りしめてしなしなになった一輪の小さな花の方が好きだった。


「あなたを愛したことなんて、一度も無かった……っ」


 分かっている。理解している。あれは仕方のないことだった。当然のことだった。それが例え人間から言い出したことだとしても、五年に一度の生贄を受け取っていた魔物の存在を、人の味を覚えた魔物の存在を、世界の平定を担う魔法協会の一員であったルキウスが見逃す理由はなかった。ルキウスはただ自分の仕事をしただけだ。ルキウスは決して私からカイを奪おうとしてカイを殺したわけでも、レイから父親を奪おうとしてカイを殺したわけでもなかった。

 それが自然の摂理で、世界の法則だったからカイは死んだのだ。私とレイは、ただルキウスの慈悲によって生かされた。


 眠っている間、過去のことを思い出したからだろうか。気が付けば私の両目からはぽろぽろと涙が溢れていて、止められない。

 ルキウスは私に命を分けたと言った。優秀な魔法使いは多く魔力を持つ分、人よりも何倍も、高位の魔法使いになる程何十倍にもなる長い人生を歩むという。それはつまり、私もまたそれだけ長く生きるということで。


 だけど、私はどうしたって思うのだ。カイの居ない世界で無為に生き延びて、長く生きることに、一体何の意味があるのだろう。

 カイを喪った悲しみは、時を経てもちっとも薄れることがない。むしろカイの居ない毎日を過ごすたび、私はこの世界にカイが居ないことを思い出して、泣き叫びたくなるほどの悲しみを覚えた。大きな手のひら。私の声を聞くために少し猫背になった高い背丈。へにゃりと笑う表情が可愛かった。私は確かに、あの人を愛していた。


 だから、どうしたって恨まずにはいられない。自覚をしたら尚更だった。私はルキウスが憎いのだ。邪悪な愛する人を奪った、正しく偉大な魔法使いのことが、憎くて憎くて堪らない。


「───君の。星を見上げる時の、静かな微笑みを愛している」

「………、え……?」

「道の端に咲く小さな花を見つけて笑うところ。刺繍をする時の真剣な横顔。レイを見つめる時、僅かに柔らかく細められる目。澄んだ声の優しい子守歌。ふとした時の寂しげな表情は、胸が締め付けられるような気分になるが、それも君のものだと思うと愛おしい」

「な、にを、」

「いつか君に、微笑みではない笑顔を、心からの笑顔を浮かべて欲しいと願っている。晴れやかに笑う君を見たい。君に恋をしたきっかけも、愛した理由も、私自身確かなものを言えはしないけれど……、君のどこを好きなのか、愛しているのかは、幾つだって並べることができる。運命というものがあるのなら、君だと思った。っ、君が良いと思った……!!」


 こんな風にルキウスが感情を剥き出しにして話すのは、きっとはじめてだった。まるで子供みたいに、ルキウスは言葉を重ねて言い募る。縋るみたいな手で、だけど私には触れず、シーツを掴んだ。


「君が私を恨んでいても良い。憎んでいても構わない。当然のことだと分かっている。私は君の大切なものを奪った。それはきっと、私にとっての君にも等しい存在だったんだろう。だとすれば、私には最早、君に愛を乞う資格もない。それでも、そばにいて欲しい」

「わ、私、は、」

「振り向いて欲しいとは言わない。許して欲しいとも。ただ、君のそばに居たいと願っていたい、その為の努力をしていたい。君を、ただ君を失いたくないんだ……!どんなに罵られても、詰られても、憎まれても恨まれても嫌われても、物を投げつけられようと、ナイフを突き付けられても構わない。身勝手な願いと知っても諦められない私を、世界は愚かと嘲笑うだろう。幻滅するだろう。それでも私は君と居たい。それでも、君を愛している」


 君が生きていてくれるなら、この世界の摂理も法則も、何もかもがどうでも良いとさえルキウスは言い放った。

 私はただ呆然としてルキウスを見上げる。この人は本当に、私の知るルキウス・エインズワースというひとなのだろうか、と思った。ルキウスはいつだって理性的で、理知的で、優しく微笑むことはあっても心乱すことなんて一度としてなかった。常のルキウスは私やレイを匿うことを選んだことが不可解でならないほど、大魔法士らしい模範的な魔法使いであったのだ。


 私は多分、今日になってはじめてルキウスの心に触れたのだろう。何年も妻として側にいて、今この時、はじめてルキウスの本心を知ったのだ。

 もちろん、だからといって私の恨みは晴れることはない。憎しみが薄れることもない。カイは私にとって全てであり、世界そのものだった。


 だけど、もしも、ルキウスにとっての私が、私にとってのカイも同じような意味を持つのだとしたら。そうだとしたら、きっと私は、ほんの少しだけルキウスを理解できるのだろうと思った。

 不可解で不思議でしか無かったルキウスの選択を、理屈ではない選択を、私ははじめて僅かに理解する。


「………きっと、私はあなたを愛さない」

「ああ」

「恨み続けて、憎んで、いつか殺してしまうかもしれない」

「君がくれるものならば、私はそれが毒でも死でも喜んで受け入れるだろうね」

「レイを守る為だけに、利用しているようなものよ」

「承知の上だ。それに、私はレイも愛している。素直で可愛くて、何より、君から生まれた子だからね」

「………ばかなひと」


 私はそっと目蓋を閉じた。それに合わせて涙が落ちる。

 どうしてだろうか。私はふと、いつかの未来、遠くの将来。ルキウスをほんの少し受け入れられるような気がした。許すわけではない。愛するわけでもきっとない。それでもほんの少し、ルキウスというひとを受け入れられるような気がしたのだ。


 だって、きっと私達はどこかで似ている。いつか私は彼を理解し、理解はやがて許容になるのだろう。

 それが良いことかはわからない。少なくとも、今の私にとっては受け入れ難いことだ。この予感が外れますようにと祈っている。


 だけど、今だけは。せめてレイが大人になるまでは、このままでも良いと思っていることもまた、事実だった。


「ばかな、ひと……」


 だいきらい、と涙を流して子供のようにこぼした悪態に、ルキウスが苦笑するのがわかる。

「それでも愛している」と語る言葉は、今までのどんな言葉よりも、ずっと優しげだった。





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― 新着の感想 ―
エレナからは、なんか強者のみを惹きつけて虜にするフェロモン的なものでも出てるのだろうか?
[一言] 電車の中で読むんじゃなかった、涙腺崩壊しました。美しい物語でした。
[気になる点] なぜ、誰に刺されたのだろう。 [一言] カイとの描写が美しすぎて…圧倒されました。
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