心臓の鼓動
ドッドッド、男は心臓の鼓動がどんどん早くなっていくのを感じる。緊張、そして動揺、この場から逃げ出したい気持ちが、この場に留まらなければならない責任と激しく綱を引き合っている。
何でこんな事になってしまったのか、男は自分の身の不幸を呪い、そして自分が招いた事実に辟易とした。ああ、今すぐ消えてなくなってしまう、そんな都合のいい事が起きたりしないものだろうか、早まる鼓動はしょうもない妄想を呼び起こす。
とは言え、このまま立ちすくんでいる訳にもいかないだろう。自分が動く事が無ければ、状況が変わる事はない、ただただ無意味に時間の流れに飲み込まれていくだけだ。
「はあはあはあ」
いつの間にか呼吸まで早くなっていた。自分が過去に類を見ない程に緊張しているのが分かる。きっと今の自分を鏡で見たら、いつも以上に情けない姿と酷い顔色が映っているだろう。
「行くぞ、行くぞ、行くぞ」
独り言をつぶやいて気持ちを鼓舞する。声に出す意味はないが、声に出てしまうのだから仕方がない。
ドンドンドン、心臓はのたうち回っているかの如く暴れている。冷汗は頬を伝い、背中をぐっしょりと濡らす。しかし男は覚悟を決めた。一世一代の大覚悟、心臓の鼓動は、自らを奮い立たせる太鼓の響きへと変わった。
「せぇーの!」
男は家の中にいた大きな蜘蛛を閉じ込めたお椀を、勢いよく空けた。手に持った袋に閉じ込めて、何とか外へと逃がしてやろう、さあいざいざ。
しかしそこに居るはずの蜘蛛はいなかった。おかしいなそんなはずはない、確かに閉じ込めた筈なのにと、お椀を覗いてみる。
男の顔の上にポトリと大きな蜘蛛が落ちてきた。声にならない悲鳴とクライマックスまで打ち鳴らされる心臓の鼓動は、最高のセッションを奏でながら、男の意識を遠くに運んでいくのであった。




