井戸の伝説
男は手に古びた地図を持ち歩いていた。地図に記されているのはもう誰にも忘れ去られた古井戸、ひっそりと人の世から消えた物だ。
その井戸は「伝説の井戸」と呼ばれていた。知る人ぞ知るそのか細い伝説はこういうものであった。
曰く、その伝説の井戸にはこの世の何よりも美しい女神が宿る。井戸の女神は願いを叶える力を持っていた。その女神の強大な力に目を付けた時の権力者は、女神を我が物にするため争い多くの血を流した。その事を儚んだ女神は自らに力を使って人々の前から姿を消したのだった。しかし女神は完全に姿を消した訳ではなかった。早朝の日が昇るまでの一時だけ姿を表し、女神の力を求め井戸を見つけ出した者に、その力で願いを叶えると言う。
男はその井戸を探していた。男は持てる全てを使って、やっと手がかりを掴み今まさに井戸にたどり着こうとしている。
男には叶えたい事があった。生活に不自由はないし、求めるまま手に入れるだけの財力もあった。自らの力で手に入れたい物はあらかた手に入れた。傍から見れば何かを叶えるには充分に能力を兼ね備えているように見える。しかし男にはただ一つ叶わない願いがあった。
男はとうとう井戸へたどり着いた。感動で震える体と足取りを必死に制して、男はとうとう女神を呼び出した。
「私はこの井戸に宿るもの、あなたの願いを叶えましょう」
「やっと貴女にまた会うことができた。女神よ、私と結婚してくれ」
男は懐から取り出した化粧箱を開けて指輪を見せる。女神は突然の想定外な申し出におろおろと狼狽える。そんな女神に向かって男は語り始めた。
「昔山で遭難した俺は荷物も何もかも失ってさ迷っていた。体力の限界でたどり着いたこの井戸で貴女と出会った。そして貴女は命を助けて欲しいという俺の願いを叶えた。薄れ行く意識のなか気高く美しい貴女に一目惚れした俺は、いつかまた貴女に会いたいと生きてきた。そうしてまた再会できた今、俺が願うことはただ一つ、愛する貴女と結婚したい」
女神はひざまずく男の傍に降り立ち、おずおずと左手を差し出す。男は女神の困惑と緊張した紅顔を見上げて、ゆっくりと左手の薬指に指輪をはめる。
ここに男の願いは成った。井戸と女神の伝説は消え去りその記憶も記録もいつしかすべて無くなる。しかし伝説の続きは、ひっそりと何処かで暮らす夫婦の愛の物語に書き変わっていくのであった。




