八雲 辰毘古/『私がいなくなった日』
――自分というものがあまりによく迷子になるものだから、
(『エビセン』より「私がいなくなった日」329頁)
作者紹介に、「SFやファンタジーに深い造詣を持ち」とあるから、この書き出しを見て、「こりゃ主人公の頸椎にコードの差し込み口があるに違いない」と想像したが、全然そんなことはなかった。これは現代もの。場所はおそらく東京都だ。物心がついたころよりある、社会的存在の「私」と、人間性(適当な言葉が見つからないのでこう書いた)を持つ「自分」の二つに折り合いをつける物語。主人公は、迷子になった「自分」にまつわる特徴について、幼少期の絵画神童物語から悲しい結末を迎える思春期の恋愛に至るまでを題材に読者に紹介するも、社会人となった今にあっては、迷子のまま戻ってはこない「自分」について特に意見はない。強いて言えば「生活に支障はない」。意見は、むしろ周囲という社会が言うのである。「君には自分」がないと。それは自覚していると私は言い、それを社会方面の問題だと言って対策を練るが、そういう問題として扱わず、しかも主人公を放っておかないのが、今回の本当の舞台装置のようである。
職場の要請(君には自分がない問題)への回答は保留のまま、まかされた作業に何の問題もない、そんな定時で帰る主人公を、都心に転がす作者の腕はかなりのものだ。何であれ主人公の目を通して心理描写と化す。大都会のターミナル駅の看板なんて、本当だったらべっとりじっとり油がついて黄色みがかったものだろうが、きっと取り替えたばかりだったのだろう、そこに描かれるものは澄みきった青空に見え、人を小馬鹿にしたような場違いな大企業の広告も、なんだか社会の仕組みから外に連れ出す天の声に聞こえてくる。都会の心象風景によって暗示される心労も本人には意識されない。しかし体は正直なもので、それらはやがて居酒屋に彼を連れて行くが、すかさずマルメラードフ風の酔漢が絡んでくる。「君、世界文化の上から下まで試してみたんだがね(言葉の通りでさぁ)、そいつら俺の機嫌を取ってくれるなんて、どうもそうではなかったんだなぁ」。現代の放蕩貴族は絶望をかく語りき。
「自分というものがあまりによく迷子になるものだから、」しかし、きっとそれは、思い込みに過ぎなかったのである。たしかに、それはほんの弾みだった。今回はたまたま飲み過ぎただけだったかもしれないが、いつかくるひと押しだった。駅ホームを照らすLED照明の強い光の眩しさは、酔漢が予言した絶望が耳から離れない主人公の中から、悲しみを連れ出した。彼は不意に伸ばした手で、「自分」の袖をつかみ取る。
久しぶりに書きましたが、以前の紹介文と形式が似ているかもしれないと感じながら書いていました。