第十一話「欠片の花」
蒼空が再び試合場に上がると、人形はまたキリキリと音を立て、そちらを見据えた。
「ぬかるみの、なずなの草を摘む指につたわる春はあるのでしょうか」
原歌を詠む人形を、蒼空は落ち着いた表情で見ている。その顔はさっきまでとはまるで別人みたいだ。
きっとこの人形は、ウタで動いている。だから、蒼空は人形が纏う詠力とか、原歌が帯びている詠力を読んでいるんだろう。
心を探るような時間のあとで、蒼空がゆっくりと口を開いた。
「まぶしさを弔うための冬を抱く 欠片の花は指からこぼれる」
詠歌の残響が消えると、試合場はしん、とした。
蹴り飛ばして来ないところを見ると、さっきよりは感触がいいのかな。
というか、落ちこんでる……?
俯く人形の様子を、蒼空がじっと見守っている。試合場の外でも、全員が固唾を呑んで見ていた。
そしてしばらくしたあと、人形は俯いたまま、絞り出すような声で短歌を詠んだ。
『うしろ髪ひかれつつ落つはなびらは春の残り香すらも残さず』
「苑紅……、あれは原歌じゃなくてウタだぞ……」
福丸が心配そうに言ったが、そのウタに攻撃性はなかった。
詠い終わると、人形は糸が切れたように、ぺたんと地面に座りこむ。
蒼空はそっと人形に近付きながら、返歌を詠んだ。
『散りぎわにいちばん強く光るから春は何度も、何度でも来るよ』
詠みながら、力なく座りこんでいる人形に手を伸ばす。
蒼空の詠歌に呼応し、二人の足元に詠力陣が現れた。そして、武道場全体が明るくなり、桜吹雪が舞う。
蒼空なりに、手向けの短歌を詠んだつもりなんだね。
降りやまない桜吹雪に見とれていると、声が聞こえてきた。
「じゃあ、次はベランジェールを囲んで写真撮ろう!」
パタパタと、草履が床を叩く音がして、人形の元に袴姿の女学生が近寄ってきた。
蒼空が掴んだ手を離すと、人形は桜吹雪に揉まれ、次に姿を現した時には、見違えるような美しい姿を見せた。
「うお……何すかこれ?」
え? 蒼空のウタの効果じゃないの? じゃあこれって……。
「これは……。人形の記憶か……?」
一同が困惑するなか、人形の元に、着物袴の女子生徒たちが集まってくる。
蒼空は一旦、身を引いたようだった。
「ほら、こうするとすごく綺麗になる」
「ベランジェールに花びらを添えてあげてるんだ?」
「折れた桜の枝が落ちてたから、持ってきたんだ。ほら、ベランジェール、これ持ってね」
今や乱れ髪と日に焼けた衣服を纏い、片方の腕を失っているその人形は、艶のある金色の巻き髪に、ガラスのように透き通る青い瞳、高貴なドレスを身につけて、嬉しげな表情をしている。
和気あいあいと話す女学生たちと人形の元に、見慣れた制服姿の生徒たちもやってきた。
「先輩、卒業おめでとうございます」
「ありがとう」
「ここ、今日で閉鎖ですね……」
「うん……。寂しいけど仕方ないね」
「そうですね……。でも、ふふ。私たち明日からは、新築の聡詠館で練習しますから!」
「ずるいな! あんたたち!」
「試合場四面もあるんですよー。バックヤードもすごい広いしー!」
「ずるっ! OBとしてしごきに来てやるよ!」
「うぇえ〜〜」
華やかで幸福感の漂う一幕。だが、次に桜吹雪が押し寄せると、ザザーッと不穏なノイズを生じさせた。
少し大人びた雰囲気の女性たちが、試合場へと上がってくる。
「ベランジェール。今日は聡詠館で後輩たちの稽古なんだ。また会いに来るね」
彼女たちは人形に触れることもなく、その場を去って行く。
再び、ノイズが生じる。
いくら待っても、もう、試合場へは誰も来なかった。
人形はそこにぽつんと座り、大切な場所を守り抜くという使命感が虚しい。
あの日、人形を美しく彩った桜の花は、とうの昔に枯れ、黒ずんだチリと化している。
ノイズはまるで、むせび泣きのようだった。
また武道場が暗くなり、かと思うと、激しい光が窓の外から差しこんだ。
雷が映し出した窓の外。そこにはつる性の植物がびっしりと生え、この場所が誰にも見られなくなって、長い時間が経過したことを感じさせた。
雨が窓を激しく叩き、ほんのり漏れた雷の光が、試合場に座りこむ人形の影を作る。
いつの間にかもう、桜吹雪も、雨も、雷も、何もかも止んでいた。
時の止まった試合場に記憶の粒子が名残惜しげに舞いあがり、ふわりと霧散した。
残された人形はやっぱり、乱れた髪と乱れた服で、片腕を失っていた。
「60年か……」
苑紅がそう呟いた時、壁の一部分に灯りがふわっと照らされた。
それを合図に、いくつもの灯りが壁を照らし、武道場全体を明るくした。
「おぉ……。かなり広いな!」
武道場に、ウォーンと重い音が響いた。
びっしり生えていたつるも、窓越しに粒子になり消えていき、外からの光も差しこむようになった。
「ベランジェール。最後の力を使ったんだな」
目線を合わせるように、蒼空がベランジェールの足元に跪いた。
「ベランジェールは、ここ詠心館の留守を守る、ウタ人形じゃった」
おとどはいつの間にか試合場に上がっていた。
「短歌部の武道場は聡詠館に移り、ここ詠心館は閉鎖後、数年ほどで忘れられてしまった。しかし、ベランジェールはこの道場を守りつづけていたんじゃ」
おとどは蒼空の顔を見た。
「お主、先刻のベランジェールとの相聞歌、見事じゃった。歌心を読んだんじゃな?」
「んー」
蒼空は頭を掻いた。
「最初は、ただ春を儚く切り取った歌なのかなと思ったけど……」
「ふむ」
「ちゃんと読むと、深い寂しさの中に、諦めが混じってる気がした。でも諦めの中にも、すげー小っさい希望があったっていうか……諦めきれないっていうか、忘れられないっていうか……。だから、根拠のない希望を詠うよりも、ただ、お前の気持ち、聞いたよって、歌で伝えたかったんだ」
「なるほど。十分じゃ」
「草凪君」と夜鹿が横から声をかけた。
「なぜ、「まぶしさを弔う」と詠ったの?」
「あんま直接的に言うと、ベランジェールが傷つくかもしれないだろ? 寂しいのは仕方ないけど、きれいな言葉で包んでやりてーじゃん」
「そう……」
「ふっ、蒼空らしいな」
福丸が微笑みながらそう言った。
蒼空は、力なく座り込んでいるベランジェールを優しく抱え、側に落ちている片腕も拾い上げた。
「蒼空、お前が最後に詠ったウタは、桜の花びらの具現化だよな?」と苑紅が聞く。
「そっすね。さっきのは多分、こいつが自分を解除するウタを詠んだ時に、溢れた思い出ごと具現化したみたいっす」
「そうか……」
その時、琴葉に抱えられていた巾着袋の中のユポポが、ジタバタともがきはじめた。
「んーーーー!!!」
「わっ! ユポポどうしたの?」
ユポポは顔を紅潮させながら暴れていたが、ウタで包まれた巾着袋からどうしても抜け出せず、脱力して、ついには泣き出してしまった。
「うぇぇぇぇっぇぇぇぇえん!」
「何だよ、どうしたんだよユポポ」
「うぇぇぇん! ユポポがお友だちになるしーー!」
「えぇ……?」
「べらんじぇーる、かわいそうだから、ユポポがお友だちになるしー!」
その場にいた全員が、ハッとした。
そうだった。ユポポは生まれて間もない頃からずっと孤独だったんだ。
ここに来る前は、群れに帰りたくて、家族と仲良くしたくて、健気な努力までしていた。
一人の辛さを誰よりも知っているユポポの涙に、釣られてほろりと来てしまいそうだ。
蒼空は優しい笑みをユポポに見せると、ベランジェールの片腕を高く掲げた。
「苑紅さん、こいつ直してやりてぇっす……」
「だな。天羽に連絡する。服は愛ネェさんにお願いするよ」
「押忍」
頑なにこの場所を守る意志だけを見せていたベランジェールだったが、蒼空たちが心に触れたせいか、ほんのりと柔和な表情に見えた。
ふふ。蒼空ってばついに人形を懐柔するまでに成長したか。
ま、私が育てたようなもんだからなぁ〜。
「そうだ! せっかくなんで、新しい腕はドリルにするってどうすか?」
「は? 何言ってんのお前」
「かっこよくないすか? あ、それか手首にドラゴンの頭がついてて、ボワーッて火吹くやつ!」
会話を聞いているんだろう。ベランジェールは喋れないのがもどかしそうに、困惑顔に変わっている。
何か……ごめん……。ベランジェール。
「それにしても苑紅。ここは部室と繋がってるんだから、実質、第三短歌部の武道場だろう? そもそも武道場欲しさに出場を考えていたんだから、わざわざ部活対抗戦に出る理由もないんじゃないか?」
たしかに! 福丸の言うとおり、掃除すれば使えそうだし。化学部に濃硫酸をぶっかけられるようなリスクのある大会、わざわざ出なくてもいいよね。あ、でも蒼空は……。
「えーっ! 駄目っすよ! 俺、出たいっす! って、ウワ!」
ベランジェールを抱えて試合場から降りてきた蒼空の足元の床が割れた。蒼空は腰のあたりまで床下に落ちてしまった。
「わわっ! 大丈夫? 蒼空君!」
「うぇぇ、これ床が腐ってんのか……」
ベランジェールが傷つかないよう、先に上げてやり、割れた床を眺める。そして、
「うおーー!」
蒼空は床の腐った部分を見極めながら、バキバキと床を割り、前進しはじめた。
「見て! 苑紅さん! すげー腐ってる!」
「壊すんじゃねえよ! バカ!」
苑紅が蒼空の頭をポカンと殴った。
「60年もメンテ無しだもんな……。木造建築だとこんなことになるのか。うーん、まあ、試合場は作りが頑丈だから大丈夫だろうけど……」
「試合場も長くはもたんぞ」
おとどが口を挟む。
「60年経っても結界が生きているのは、試合を全くしてないせいじゃ。練習とはいえ試合を続ければ、保って一週間じゃろうな」
「てことは……。やっぱ武道場全体の改修が必要か。金がいるな」
「部活対抗戦、出るしかありませんね!」
「よーっし! そうと決まれば、まずは探検でしょ!」
蒼空は床板をバリバリと潰しながら前進していく。
あぁ……。古いものを壊し、新しいものを創る。蒼空はそんな星の下にあると、私は勝手に思っていたけど、こんな直接的に古いものを壊すなんて……。
「だから壊すなって言ってんだろ!」
蒼空は「痛てー」と言いながら、ゲンコツを受けたところを撫でている。そして、腐ってない床に上がってくると、おそるおそる探検を続け、ある扉に近付いた。
「苑紅さん、開けるっすよ」
「ああ」
ゆっくりと扉を開く。湿っぽい空気が一気に流れ出し、中が見え始める。壁には刀を立てかける留め具がいくつもあり、槍などの長い武器を置くための掛け具も置いてあった。
「武器庫っすよ! 武器庫! あっ! 刀一本残ってる! って、ウワっ!」
ハイテンションで武器庫に入った蒼空は、バキバキと木が割れる音とともに、再び腰まで埋まってしまった。
苑紅は手を額に添え、俯いている。
もはや怒る気力も失せたのか……。
「苑紅さーん! こっちシャワールームあります! すごい! レトロだけど清潔! って、ウワーッ!」
隣の小部屋からも、すでに耳なじみのある音と、琴葉の悲鳴が聞こえてきた。
苑紅は額に手を置いたまま、ついに溜め息を吐いた。
「苑紅さん、こっち……」
夜鹿が小部屋の扉を開いており、中を指差した。
苑紅が差されたままに近付き、ひょいと覗きこむと、木造のロッカーがいくつも置かれていた。
「更衣室かな」
「苑紅さん、壁……」
「うわ、短歌がびっしり書いてあるな。卒業生が書いたのかな? どれどれ……。「微粒子が風で受粉するくらいの確率だよね きょうでお別れ」か。いいねぇ〜」
床の穴から脱出した琴葉と蒼空が、服を払いながら小部屋を覗きこんだ。
「うおー、これ卒業短歌っすか」
「60年以上前の先輩ってことですよね? すごい!」
夜鹿が優しく壁を撫でながら、一首の短歌を詠んだ。
「「湖を昇る朝日みたいでした 影がはなれて、はなれきらない」。いい歌……」
「お、いいの見つけたな夜鹿。あたしも良いの見つけよー」
「「さよならを溶かしてまぜたコーヒーに、ミルクが揺れて消えてそのまま」。これ、すげー良くないっすか?」
「うぉ、いいな! それ! これか」
苑紅が壁に書きつけられた短歌を見る。
「名前書いてんな。月島吉乃……。って、これ、うちの学長先生のじゃねーの?」
「うぉ、マジすか! 学長先生、この部にいたんだなー」
やっぱあんな化け物じみたお婆ちゃん先生だけあって、高校生の頃からこんなませた歌詠んでたのか〜。
「すげーな! あっちの歌はもっと古い世代の短歌じゃねーの!? って、ウワー!」
腐った木が割れる音とともに、とうとう苑紅が腰まで埋まった。
「ひひ。苑紅さん、これでおあいこっすね〜」
「……うるせぇよ」
その時、秘密通路の入り口とは逆の壁にある大扉がバタン! と大きな音を立てて開かれた。
「話は全て聞かせてもらったぞッ!」
「わっ!? 天羽か?」
毎度、トリッキーな人だな。
どうやってここに来たんだろ。隠し扉でもあるのかな?
急いで穴から脱出した苑紅が、試合場越しに天羽に声をかける。
「天羽! 話は聞いたって、どっから聞いてたんだよ!?」
「馬鹿者ッ! 先のような登場をするのであれば、このセリフを言うのが作法であろうがッ!」
「何も聞いてないのかよ……。てか、何でこの秘密の部屋がわかったんだよ!」
「秘密? 貴様、頭でも打ったか? こっちへ来い」
天羽に手招きされ、一同は大扉から外に出た。
「うっわ……、何だこれ」
そこは小さな中庭を挟んだ学院内の通りで、生徒たちが人だかりになっており、わいわいと伝冊で撮影していた。
「苑紅……、ここは短歌連校舎の表通りだ」
「あぁ。地理的にここかなとは思ってたけど。ベランジェールの封印が消えて、やけに目立つようになっちまったってことか……」
そこに、ハンチング帽に腕章を付けた生徒が駆け寄ってきた。
「苑紅さん! 伝網連広報部です! 突如現れたこの謎の建造物! これはまたもや第三短歌部の仕業と考えてよろしいのでしょうか!?」
「あ、えと、まぁ、はい」
「第一短歌部の陰謀により、練習場を奪われたと報道されておりましたが、その心配はなくなったんでしょうか!?」
「ま! そうだね!」
「打倒! 第一短歌部ということで、心からのコメントをお願いします!」
「オラァ! あたしらが優勝すっから覚悟しとけよ!」
うぇーい! と蒼空と琴葉が煽るような声援を上げ、福丸は額に手を置きうなだれ、夜鹿は冷ややかに見ていた。
何はともあれ、練習場ができたのは、いいことだよね、蒼空。
*****
「……だって〜。あはは〜。鳴桧ちゃん、あとで伝網連サイト見てみて〜。苑紅に、ちょーー喧嘩売られてるよ〜?」
うっざ。葉蓮マジうっざ。
長いものには巻かれるくせに常に自分がナンバーワンとか勘違いして見下してくる。
あ~もう嫌い嫌い。
まあいいや。こんなゴミクズ気にしてたってしょうがない。
私は多重錬成の試験中なんだから。
「お〜。鳴桧ちゃん、いいじゃ〜ん。装束かっけぇー。歌人って感じ?」
「は? 葉蓮うっさいし。 ただの多重錬成だろ。いつも通りの歌装束だし」
イラついたせいで詠力がダダ漏れした。チッ。
ていうかこの時代劇の家来みたいに跪いてるこいつもうざい。いちいちデカめの詠力出すたびにビビってるあたりがうざい。何だっけこいつ、うばらと? いばらと? ま、どっちでもいいけど。
「まっっさか、六歌席ともあろう鳴桧ちゃんが、部活対抗戦みたいな色モノイベントに出るなんてね〜」
「甲賀のバカが点数くれるって約束してくれたからね。じゃなきゃ、こんなの出ないし」
「羨ましいなぁ〜〜! 鳴桧ちゃん、役得ぅ〜〜〜!」
「さっきから、あんたうるさいんだけど。弾き飛ばされたいの?」
「わ~ぁ。怖い怖い。戎具錬成済みの鳴桧ちゃんじゃ、さすがに喧嘩売りづらいよね〜〜」
私の歌戎具は、私を全て理解してくれている。
そう、誰の戎具よりも信頼関係がある。
だから、誰にも負けない。
認めさせてやる。
「苑紅たちをぶっ殺すだけでしょ。雑魚は雑魚らしく弾き飛ばすだけ」
「鳴桧ちゃんの戎具は多人数向けだもんね〜〜。すごいの期待してる〜〜。応援しよ〜〜っと」
「うっさ」
こんな茶番? だっけ? とにかく、とっとと終わらせてやる。
だって私、誰にも負けないから。