第三十話「異怪の媼」
あの試合から、早くも二日間という時間が過ぎた。
第三短歌部の設立試験。
歌合の審判を学長が直々に依頼してきた理由が、今となっては少しだけ理解できる気がする。
学長室の前で立ち止まった私は、扉をノックした。
「長歌連教諭、茅野白逢です」
お入りなさい。と年齢を感じさせない凜とした声が内側から響いてくる。
ここに入室するたび緊張するが、今日は少し、緊張の種類が違うようにも思う。
私だけでなく、甲賀先生からも設立試験については報告書を提出している。
今になって学長室に呼び出されたということは、内容を仔細に伝える必要があるからだろう。報告書だけで伝わらないものがあることは、私も重々承知していた。
ふわり、とカモミールの香りが漂ってきて、この場にいることへの緊張と、あの日の戦慄が少し和らぐ。ソファーに腰かけた私に、学長・月島吉乃は優雅な物腰でハーブティーを注いだ。
「あの試合のことを聞きたくてね」
「はい」
おっとりとした口調と微笑みは、まるでただのご老人のもののようだが、この人は世界最強の歌人・六歌仙の一人だ。そんな学長が、わざわざ私を呼びつけ、話を聞かねばと思わせるあの、草凪蒼空という生徒は、一体何者なのだろう。
彼が型破りな生徒であることは、第三短歌部の設立試験・副将戦が始まってすぐにわかった。
試合開始前だというのに試合場から抜け出したり、観客と口喧嘩を始めたりという破天荒な振る舞いは、さして問題ではない。
抜群の反射神経と、短歌のセンス。
雲雀に通う多くの生徒が進学系に特化したウタを学んできている。九条夜鹿もそうだった。
しかし、彼の返歌は独創的で、それでいて返歌ノ理を身体感覚として身につけている。
さらに試合後半の近接物理攻撃への高速回避と合わせた詠歌の試み。
幾度かの失敗を重ねたものの、九条夜鹿を相手に、高速戦闘中に詠力を整え、発動可能と思われるレベルのウタを詠むという芸当は、雲雀の三年生でも上位に食いこむ者しかできないだろう。
審判を務めながら、私は彼のたぐいまれな才能に驚いていたのだ。
だが、そんなことすら今となっては全て、些末なことでしかない。
言葉選びに慎重になりすぎていた私の前で、学長があの短歌を口にした。
「神在の出雲に闌ける天地に霜降りて殖ゆ 玉の緒の張る」
原歌として聞いても、まだ少し体が強張ってしまう。
私は動揺を抑えるため、カモミールティーに口をつける。
「報告書にあった、この短歌について教えてくれますか?」
「はい。すみません」
たった一口飲んだカモミールティーのせいか、じわりと体中の毛穴から汗が噴き出す。
学長はいつもと変わらぬ微笑みをたたえて、私の話に耳を傾けていた。
***
彼があの短歌を詠んだあとすぐ、九条夜鹿の斬首によって、歌合は決着しました。
歌合が斬首によって終わることは滅多にないですから、彼女のずば抜けた剣術の才能に場内は沸きました。草凪蒼空の首が地面に落ちたのを確認してから、私は九条さんの勝利宣言を行おうとしたのです。
その時でした。
試合場はものの一瞬で不気味な詠力に呑みこまれてしまったのです。
私も、身動きを取ることすらできませんでした。
すみません、少し寒いですね。ブランケットをお借りします。
そうです、私たちは目撃したんです。
首を落とされた草凪蒼空の体が意思を失い、試合場の地面に崩れ落ちた後、糸で吊される操り人形のように立ちあがったのを……。
ええ、もちろん目を疑いました。
私も、実際に見るのは初めてでしたし、同じ試合場に立っていた九条さんも、あの場にいた多くの雲雀の生徒たちもそうでしょう。あれは明らかに、「今際ノ歌」でした。
え?「今際ノ歌」についてですか?
一般的な知識としては知っています。
死の危険が迫る極限状態となった時、生への執着を払い、純粋に死を受け入れる覚悟をして歌心を整え、詠歌する。この条件が整った場合にのみ発動するウタ、ですよね?
達人揃いの省庁歌人であっても、危険すぎるゆえに使用が禁止されているほどですから、並大抵の歌人では試みたところで発動条件も整わないでしょうね。
百歩譲って、草凪君のおそるべき身体能力とセンス、そして自由な発想をもってすれば、自らの死をトリガーに「今際ノ歌」を発動させることは可能でしょう。実際、彼はやってのけましたから。
そこまでは、まだ何とか、私の理解の範囲内にありました。ですが……。
***
言いよどむ私に、学長はさらにカモミールティーを勧める。
唇だけでなく、舌まで渇きを感じていた私は、それでまた少し、気持ちが落ち着くのを感じた。
「歌儡……と記載がありましたが」
「……はい。他に適した言葉がなく」
カップをテーブルに置く。
あの歌合での光景は、忘れたくても忘れられないだろう。
***
草凪君の死体は、首のないままでゆらりと動き出しました。
私が動けないのと同じように、おそらくあの時、九条さんも斬首を行った体勢のまま、動くことができなかったのだと思います。いつもは冷徹なほどに感情を表に出さない生徒ですが、さすがに動揺の色が見えたような気がします。
快活で野性的で型破りな、世界は明るいものだと信じてやまないような彼の、どこにこんな感情が、と思うような詠力が、全身から溢れだしていました。憎しみ、悲しみ、苦しみ、殺意。それらを凝縮したような、異様で強大な詠力は、学長もお感じになられたことと思います。学長がお出でになったのも、あの詠力を感じてのことではないでしょうか。
指一本動かすことができないまま、あのバケモノのような詠力と対峙するのは、九条さんであっても恐ろしかったのではないかと推察しています。でも彼女は草凪君から、いえ、その体の後ろに集まりつつあった、詠力の塊から、目を背けることはありませんでした。
報告書に書かせていただいた歌儡とは、このことです。
詠力の塊は、次第にヒトの形に近付いていき、全員がその経過を見守るなか、髪の長い女の姿となりました。
この女は、歌儡にしてははっきりとした、それでいて草凪君のものとはまったく別の個体としての、意思を感じました。学長が今日、ここに私をお呼びになったのは、この女のことでしょうか。
甲賀先生の報告書がどのように書かれていたかはわかりませんが、草凪君のものでない以上、あの禍々しい詠力は、おそらくあの女のものであると私は思います。
それから、女は右手を動かし、ゆっくりと下から手招きをしました。すると、切断され、試合場の床に転がっていた草凪君の生首と手首から火の手が上がり、一瞬で灰と化したのです。
観客席から悲鳴があがり、私も心音の高まりを感じました。
依然、体は金縛りにあったような状態でしたが、この光景を目撃してしまった生徒たちの心のケアについて考えなければと思いました。それくらいの事態が、起こっていたのです。
女は私たちが同じ空間にいることも、生徒たちの悲鳴も何も気にしていないように、優雅に手を引き戻しました。すると今度は、切断されていたはずの草凪君の体に火の手が上がり、首と手が新たに形成されたのです。
九条さんによって斬られた際に付いた封印の青い鎖にはヒビが入り、パン、と音を立てて弾け飛びました。草凪君は両目を閉じ、女に操られるままにゆらゆらと体を揺すっていました。
草凪君の安否確認もできないまま、今度は女がゆっくりと、その手を九条さんに伸ばしました。
助けにいくこともできず、九条さん自身も身動きが取れません。彼女は催眠術にでも遭ったように女から視線を外すこともできないようで、食い入るように女の目を見ていました。そしてあの女が、静かに唇を開いたのです。
『毀せ』
そうです、それは短歌ではありませんでした。
にもかかわらず、九条さんの周囲には複数の詠力陣が現れました。はい、複数です。そして次の瞬間、九条さんの持っていた刀は詠力を奪われ、その手から弾け飛んだのです。
初めは草凪君が「今際ノ歌」を成功させたことに驚愕していたのですが、本当にあの一首の短歌だけで、ここまで複雑な効果を生み出すことが可能なのか、疑問に思いはじめていました。
彼が詠んだのが「今際ノ歌」なのかどうかすら、わからなくなってしまいました。
女はゆっくりと左手を挙げ、掌を開きました。そこには、九条さんが歌戎具としている刀が、錬成前の銀色の髪飾りの状態で握られていたのです。
落とされた髪飾りは、女の操った草凪君が受け取りました。
そしてとうとう彼はうっすらと、目を開いたのです。
すみません、もう一杯、いただいてもいいですか。悪寒がひどく……。はい、大丈夫です。
草凪君は目を虚ろに開きました。それと同時に女は名残惜しげな笑みを浮かべました。むくむくとヒトの形になっていった時とは反対に、女は詠力の粒子となり、数瞬のうちに消えてしまいました。
女がいなくなると、草凪君は闇色をしていた瞳に徐々に光を取り戻して、そしてパッと、見開きました。歌合の途中であることを思い出したというような、彼らしい表情でした。
九条さんは立ち尽くしていました。
私も、おそらく九条さんも体のこわばりが取れ、動けるようになっていましたが、あまりのできごとに茫然自失としていたんでしょうね。私は、彼らがまだ歌合の途中であることを考え、様子を見続けることにしました。
ええ、「今際ノ歌」が発動し、草凪君の封印が解かれた以上、決着が着いたとは言い切れませんから。
「わっ! あれ! あれ?!」
草凪君は慌てたように九条さんから距離を取り、自分の体を気にかけているようでした。斬り落とされたはずの手首も、斬首されたはずの頭も、傷口すらなく癒えていました。
九条さんが、「それ」と、彼の左手を小さく指差しました。彼は、自分の手の中にある銀色の髪飾りを見ると、喜色満面というように、無邪気な笑みを顔いっぱいに広げました。
「おぉ!? そっか。成功したのか! 死ぬトリガー!」
草凪君としては、「暴力をせずに歌戎具を奪う」という宣言を果たしたことに喜びを覚えていたんでしょうね。
でも、観客はおろか、実況のプロたる伝網連の生徒たちも、味方である第三短歌部陣営も、そして私も、彼のその純粋な様子と、先ほどまでの光景とのギャップに言葉を失っていました。恐ろしかったのです。
ええ、草凪君もさすがに、周囲の空気が意識を失う前とあまりに変わってしまっていることに気付いたのでしょうね。立ち尽くす九条さんに、教室でお喋りするように話しかけていました。
「なぁ。なんか空気悪りーんだけど、俺死んでる間、何かあった?」
「……覚えてないの?」
「まーなぁ、死んでたからなぁ」
九条さんは草凪君を見つめたまま、しばらく黙っていました。でも、他の誰も、声を出せる状況ではなく、九条さんは重い口を開きました。
「……あなたは「今際ノ歌」を詠んだ。多分、ここにいる全員が初めて見た。だから困惑してる」
「いまわのうた……って何だ? 死ぬトリガーのやつ?」
「……あなたはそんなことも知らないのに、あの短歌を詠んだの……?」
「へへっ。どんな時でも詠うって、決めてんだよ。それが、歌人としての覚悟だからな」
「そう」
九条さんは草凪君に背を向けて、私に向かって手を挙げました。
「はい。私の負けです」
「……あ。……えっと……。勝者! 草凪蒼空!」
教師として、学長に審判を任された身として、非常にお恥ずかしい話ですが、私はあの時、おののいていました。
私の勝利宣言により、場内はようやく時間が動き出したようにざわめきが聞こえはじめました。重苦しく、困惑と恐怖に満ちたざわめきでした。
「夜鹿って、何か良い名前だな! ほい、これ」
唯一、いつもと変わらない様子の草凪君は、九条さんに歌戎具の髪飾りを手渡していました。九条さんは髪飾りを愛おしそうに撫で、破損がないか調べているようでした。
「お前さ、すげー強えーよな! また歌合やろーな!」
屈託なく笑いながら試合場を降りていく草凪君に、九条さんは戸惑ったように頷いていました。
***
「私が高等部の時に草凪君に対峙していたらと思うと、とてもではありませんが、また歌合をしたいと頷くことはできなかったと思います。九条さんは、とても強い子です」
最後まで話し通すことができたという安堵から、私は少し、口を滑らせる。
「学長、私は「今際ノ歌」を初めて見たのですが、あのような、壮絶な効果が起こりうるものでしょうか?」
「……そうですねぇ」
学長はのんびりとティーカップを傾ける。私も、気持ちを落ち着けるため、カモミールティーを口に含んだ。
「それにしても、大変な仕事を任せてしまいましたね。各試合で、色んな感情の詠力が流れてきたので、私はとても楽しかったのですが」
「今際ノ歌」について、あの女について、草凪蒼空について。
学長はおそらく何か、私たちのあずかり知らぬ情報を持っている。本当は、続く大将戦についても尋ねたいことは山積みだった。
だが、学長はそれらを私に告げる気はないだろう。私の役目はここまでだ。
「この部屋で、聡詠館の詠力を感じ取ってらっしゃったのですか?」
「もちろんよ。不可避の速攻で叩き潰された詠力。空腹の怨みの詠力。恋心の通いあう詠力、これは原歌もありましたね。ふふ、とても楽しかったわ」
何ということだろう。
学長室から遠く離れた聡詠館での詠力を、ましてや原歌に纏うゆらぎのような詠力まで、感情を読み解くレベルで感じ取れるなんて……。
「霊峰で甘露片手に幽谷を見臥せ まどろむ異怪の媼」
書斎机の上で香箱座りになった黒猫・おとどが原歌を詠んだ。
学院を統べるこの方を、遙か高みから下界を見物するバケモノに例えるなんて、おとどらしい言い草ではあるが。
私のそんな気持ちを知ってか知らずか、おとどはゆらりと尻尾を振り、目を細めてこちらを見る。
「白逢。吉乃にはっきり言ってやればよかろう。貴様は化け物か、とな」
「あらあら、化け猫にそんなこと言われるなんて」
「黒豹じゃと、何十年言わせる気じゃ」
おとどと学長の憎まれ口の叩きあいが滑稽で、つい口元が緩む。
口に出したことで、あの試合で起きた異常事態が多少、昇華されたような気がする。
とはいえ、あの女の禍々しい詠力も、後味の悪さも、記憶から完全に消え去るということはないのだろう……。
カップの中で透き通るカモミールティーに映る自分を見ると、そこにあの女の影が憑いているような気がして、さっと目線を逸らした。




