第二十九話「神在の出雲」
「春日野の み草折り敷き 伏す鹿の角さえ さやに照る月夜かも」
その歌は、遙か昔、明治という時代の歌人・会津八一の原歌であり、名付けの由来だと両親から教わった。
春日野の草原に眠る鹿の角をも、月明かりがはっきりと照らすさまを詠ったこの短歌のように、暗闇に差す一条の光となって、迷うことなく、明るく正しく歩んでいくようにと、願いをこめたと聞いた。
会津八一が生きていた時代。
その頃はまだ、世界は倭歌神のものではなかった。
文明は「科学」という不可思議な力をもって発展し、「科学」による戦争も頻発していたという。私にはとても想像できない。
一方で、和歌の歴史は永い。明治よりもさらに古くから、日本人は歌をこよなく愛していた。だけど、ウタの力を使うのではなく、貴族を中心に、原歌を詠んで遊んでいたらしい。
これは、少し想像できる。
歌は楽しい。
楽しかった。
幼少期。
両親と出かけて、自然の美しさや日頃感じている想いを原歌にして、三人で歌会みたいなことをよくやった。
思い出の中の私は笑っている。
笑っていた。
そういえば、永らくそんな歌を詠んでいない。
詠みたいだけの歌ではなくて、進学や成績のための、歌の勉強をしているから。
***
「夜鹿は将来、政府の歌人になるんだから、勉強を頑張らないといけない」
雲雀の初等部にあがった頃から、これが両親の口癖だった。
父と母が、夜中に口論しているのを聞くようにもなった。
両親の勧めで、私は有名な歌人の経営する私塾に通いはじめた。
その塾のお婆ちゃん先生は、歌人というだけあって、キリッとした雰囲気を持った人で、でも、それよりも、優しい笑顔が印象的で、一緒にいると安心するような先生だった。
お婆ちゃん先生の歌は柔らかかった。
私は先生の歌を聞くのが心地よかったし、それに、先生は本当のお婆ちゃんみたいに優しかった。
だけど、初等部も四年になった頃、父と母は凄まじい喧嘩を始めた。
「もっと成績につながる歌を勉強しないと!」
二人の喧嘩はいつも私の教育方針を巡ってのものだった。
この時は母が押し切り、私は逆らわなかった。
進むべき道は、いつも父と母が導いてくれた。
私は迷わない。そう、名付けられたから。
私は二人がもう喧嘩をしなくて済むように、母の言いつけどおり、新しい塾に通うことにした。
最後の授業を受けたあとで、私はお婆ちゃん先生にお別れを告げようとした。
だけど、先生の柔らかい微笑みを前にしたら、言葉が喉のあたりでつっかえてしまって、涙が出てきたのを見せまいと、俯くことしかできなくなった。
お婆ちゃん先生は、何も言わずに机の引き出しから何かを取り出して、私の手に優しく握らせた。
触れた瞬間、それが何かわかった。
ハッとして手を開く。
鈍く光る銀色の髪留めが、詠力を纏っている。
「これって、歌戎具……?」
「そう、刀の歌戎具よ」
お婆ちゃん先生は、私の手の中に収まった歌戎具を、あたたかい眼差しで見つめている。
「この子は「柊」というの。決して名刀というわけではないけど、先生が子どもの頃、初めて母からもらった歌戎具なの。夜鹿ちゃんにあげる」
「どうして? これはお婆ちゃん先生の大切なものでしょ」
私は、戸惑った。
先生の目の奥に、両親との懐かしい歌会の記憶が映っているような気がした。
「先生はもうお婆ちゃんでしょう?」
お婆ちゃん先生の問いかけに、私は戸惑ったまま頷く。
「でもね、先生にも、夜鹿ちゃんと同じ歳の頃があったのよ。その頃は辛いことばっかりでねぇ。だけど、この髪留めのおかげで耐え抜くことができたわ」
お婆ちゃん先生は、髪留めを持つ私の手をぎゅっと握りしめる。
「今この髪留めを必要としているのは夜鹿ちゃんじゃないかなって思ったの。夜鹿ちゃんの詠力だと、今はまだ、刀への錬成はできないかもしれないわね。でも、きっと夜鹿ちゃんを守ってくれる。だから、もらってくれないかしら?」
重ねた手のぬくもり、その温度から伝わる優しさに、私はとめどなく流れる涙を何とか押しとどめ、震える声で「ありがとう」と言った。
「大丈夫よ、柊があれば、どんなことがあっても大丈夫よ」
これが、柊との出会いだった。
***
母が見つけてきた新しい塾には、お婆ちゃん先生の私塾とは比べものにならないくらい、たくさんの生徒がいた。
その塾では、ウタの目的に合わせて歌心をコントロールすることを学んだ。
それは、自由に詠う原歌ではなく、訓練と呼ぶにふさわしい授業だった。
私は真面目に教科書の原歌を学び、歌心を制御しながら原歌を詠う訓練を続けた。
初等部も最終の六年になり、中等部への進学テストを間近に控え、私は初めて柊の錬成に成功した。細身ながらも凜とした佇まいの白い刀身に流れる詠力は、私を守るという強い意志に満ちていた。
柊は、光を失いかけていた私を導く月のように見えた。
だから、私は迷うことなく、正しい道を進むことができるのだと確信した。
成績上位で中等部へあがり、進級後も上位を維持しつづけた。
だけど、両親の関係は悪化していくばかりだった。
父も母も、口々に「勉強しなさい」と言った。
勉強していれば二人が喜ぶと思い、私はがむしゃらに成績を伸ばすためのウタを学んだ。
でも父と母は、わかりあうことはなかった。
中等部二年の秋、両親はついに離婚した。
柊があれば、どんなことがあっても大丈夫。
お婆ちゃん先生が言ったとおり、柊は私を癒やしてくれているような気がした。
その後、私は母に引き取られた。
母は父がいなくなってからますます、「政府歌人にならなきゃダメよ」と繰り返した。
勉強を頑張れば、歌心をコントロールすれば、政府歌人になれば、父も母も、きっと喜んでくれるはず。
だけど、政府歌人になっても、きっと父と母は和解しない。
だからもう昔のように、家族で歌会をすることはないだろう。
高等部にあがり、当然、短歌部に入部した。
政府歌人を目指す成績上位者は第一短歌部にまとめられている。
規律を守り、成績を上げるためのウタの訓練に励む真面目な生徒ばかりが、私の周りにいる。
だから、彼が一体何をしているのか、全く理解できない。
「チービ チービ」
「ぐぬぬぬぬぬ……」
「なぁなぁ、ちょっと見てくれよ。『女の子にランボウしたらダメェ!』キリッ」
「ぎゃーはははは! 似てる似てる! ちょ、もっかい!」
歌合の最中なのに、対戦相手の私に完全に背中を見せて、観客と口喧嘩している。
しかも、すごく弱い。
きちんと戦わないといけないのに、どうしてこの人は、こんな自由な振る舞いをしていられるんだろう。
でも、木の弦のウタ。あれは見事だった。
私の連撃も全部躱したし、反撃のタイミングのたびに私の顔を見てニヤッと笑う。
最初は性格が悪いのかと思ったけど、実際、実力は三年生にも匹敵する。
あえて反撃しないのには何か作戦があるのかもしれない。
油断してはいけないと、私は自分を戒める。
「あの」
「んだよ?!」
口喧嘩のトーンで返事され、すごく睨まれた。
負けているのは自分のせいなんだから睨まないでほしい。
「乱暴しないで、どうやって勝つつもり?」
「ん? ま、そうだな~」
まるで教室で友だちと話してるみたい。
ここは戦場なのに。
「そーだな、うん、やっぱ、その刀を奪う! で、勝つ!」
この人、実力はあるけど、馬鹿なんだ。だから口喧嘩が弱いんだ。
さっき苑紅さんから潜在詠力の話を聞いたところなのに。
底抜けの明るさは感じる。だけど、
「無理」
「無理じゃねえよ」
「無理」
「証明してやる」と言ったあと、また観客席と口論を始める。
私は人と人とが口喧嘩しているのを見るのが好きじゃない。
だけど、「証明してやる」と言ったその声にはなぜか、お婆ちゃん先生が柊をくれたときみたいな、安心するような響きがあったような気がする。
彼の言動は、凪いだ心を波立たせるものを持っている。
早めに殺そう。
「もう、終わりにする」
「そうだな、俺が勝って、終わりだ!」
また、笑っている。
何がそんなに面白いんだろう?
『柊は冴ゆれる風に花揺らし 歩幅は速る如月の道』
『如月の冴ゆ 月かげに速る雲 さやさや薫る 舞いし柊』
私の詠歌を受けて、彼は“返歌ノ理”の二秒間に、十分な余裕を持って返歌を詠む。
馬鹿なのに、詠力は、とてもしなやかだ。
木の弦のウタといい、この人の歌は進学系短歌の定石から外れたものばかりだ。
手強い。
詠歌によって、私の体捌きと斬撃の速度が向上する。
おそらく、彼の詠歌も体捌きの向上だろう。
二倍の速度になった連撃は、またしても変な身のこなしで避けられる。
やることなすこと、全て塾や短歌部で教わらなかった変なことばかりだ。
きっと、変な人から変な訓練を受けてきたんだろう。
ようやく笑顔を見せる余裕がなくなってきたみたいだ。
柊の潜在詠力の分、この人の回避は追いつかなくなっていく。
動きを先読みし、丁寧に追い詰める。
回避できないタイミングで強めの斬撃を放つと、右手の手甲で柊を受ける。
腕が痺れたんだろう。手を震わせながら、彼は間合いを取るため後方に下がった。
「く~! 痛ってーな! やっぱ、すげーなお前! てかこの装束すげーわ。助かった~」
あの手甲にはどうやら、鎧戎具の一部が使われている。
それに、ウタが織りこまれているんだろう。
でなければ、柊を受けることはできない。
「蒼空ちゃん! その手甲だけじゃ、何度も斬撃を受けつづけることはできないわヨっ! 過信は駄目ヨ!」
野太い声が観客席からあがり、私もつられて目線を向ける。
髪型も服装も奇抜だから、きっと装束連の人だ。
「へぇーー! 歌装束って深いんだなー。勉強になるわぁー」
のんびりと、間の抜けた顔で掌を握ったり開いたりしている間に斬撃を放つ。
慌てた顔になって、思い出したように避ける。
のんびりしなければいいのに。馬鹿な人だな。
続けざまに斬撃を繰り出すと、ようやく危機を察知したというように、真面目な表情になった。
体捌きだけでは避けられない斬撃を放つ。
後方に跳ねることは予期していたので、私はその隙に詠歌する。
『狂い咲く逆手挿し木の柊は表鬼門の邪気を祓いし』
すぐに返歌が詠われる。
『丑寅の鬼も道連れ花見酒 弥生桜はつぼみをひらく』
彼は返歌の直前、また、ニヤリと笑ったように見えた。
どうしてこの人のウタはこんなに清らかで柔らかいんだろう。
乱暴しないというのも本気なんだと思う。
「鬼も道連れ」か。それに、私の詠歌に対して「如月」に「弥生」。まるで歌遊びに誘うような、自由な作歌。
そういえば、この人は部活見学で私の試合を見たと言っていた。この人の実力なら、最適な形でトリガーを発動させても私のウタを止めるだろう。
なら、距離があるうちに、さっさとトリガーを発動させてしまおう。
逆手に持った柊を地面に突き立てると、彼の足元に向かって詠力紋が伸びる。
それに合わせて彼は地面を平手で叩く。掌を中心にして、詠力陣が広がる。
詠力紋は、彼の催す宴に呑みこまれたみたいに詠力陣と融合していく。無数の刀刃が出現するはずの逆手挿し木のウタは、代わりにうららかな桜の花びらとなって辺りに舞った。
すぐさま詠歌して、高速化を重ねがけする。
『萌え出づる生命麗し新緑の皐月の頃に吹きし追い風』
効果の相乗化はせず、持続時間が倍になるように調整する。
そうすれば、高速化のウタの効果は私の方が長い。鈍化した彼と高速化の続く私では、勝負は決まったようなものだ。
彼は返歌を詠むが、私はまだ残っている最初の高速化の効果で距離を詰め、首の両断を狙う。
すんでのところで躱されたものの、返歌を遮ることには成功した。
これで、彼にはもう三十秒ほどしか高速化のウタの効果が残されていない。
あと三十秒、詠わせなければいい。
私は高速の連撃を繰り出す。
攻撃は躱しているが、顔には焦りの色が浮かんでいる。
手甲は三度、斬撃を受けた。
ウタの崩壊が近いんだろう、詠力紋が小刻みに弾けている。
観客や実況の声は一つの大きな生物の鳴き声のようで、誰のものか、何を言っているのかわからない。
さすがの彼も焦りを感じているのか、攻撃を避ける傍ら、詠歌を試みはじめた。
でも、それは無理。
高速の斬撃を躱しながら、詠力を整えてウタを発動できるくらい集中するなんて、絶対に無理。
彼は何度か詠歌を試みていたけど、柊の斬撃はそれを許さない。
五度目の斬撃を受けた手甲はついにウタの効力を失ったようだ。
柊に斬り飛ばされた右手首が試合場の地面に落下した。
彼が降伏するかと、一瞬だけ斬撃を緩める。
だけど、彼は脂汗を掻きながら、「やっぱクソ痛てーな!」と言って、私とちゃんと目を合わせて、笑った。
「そう」
彼に残された時間は十秒もない。
斬撃を避けながらもまだ詠歌を試みる彼の顔は、これまでで一番真剣だった。
私は柊を最適のタイミングで振りあげる。
刹那ともいえる一瞬に見えた、黒曜石のようにぬらぬらと光る彼の目が印象的だった。
『神在の出雲に闌ける天地に霜降りて殖ゆ 玉の緒の張る』
彼が詠歌を終えた直後、柊はその首を両断した。何度か経験した斬首の手応え。
彼の首が重い音を立てて試合場に落ちた。
連撃のさなか、詠歌を終えることに成功したのは、すごいことだと思う。
とても強い人だった。
だけど、私の方がさらに強かったから、彼に学ぶことはないんだろう。
私はこれからも、迷うことなく、正しく歩んでいく。
それだけだ。