第二十七話「贖罪の赤」
中堅戦の選手を呼ぶ白逢の宣言を聞いて、福丸と洲鳥が試合場中央へと歩みを進める。
第一短歌部陣営では、甲賀がフンと鼻を鳴らした。
「苑紅の奴、一年の草凪ではなく部活にも所属しない落伍者を持ってきたか。次を見越しての捨て駒にはちょうどいいだろう」
「浅はかな苑紅らしい考えですね」
傍らに立つ茨刀は憎々しげに応える。
「在原の成績は中の上。悪くはないが、洲鳥には勝てん」
不敵な笑みを浮かべる甲賀と、仏頂面の茨刀の様子を見ながら、苑紅が声を当てる。
「……なんてこと言ってそうな顔してんな、アイツら」
「でも、何で福丸さんを中堅にしたんですか? 順当にいけば蒼空君が中堅かなと思ってました」
「蒼空の実力はバレたっぽいからな。逆に副将戦はノーマークの福丸の相手が来るだろ? って考えたら、蒼空と福丸を入れ替えた方が、勝率が上がるんじゃないかと思ってさ」
「俺の相手が弱くなって、福丸さんの相手が強くなるってことっすよね」
蒼空が少しつまらなさそうに口を挟む。
「そう言うなって。福丸だって、伊達に雲雀の生徒やってるわけじゃねえからさ。蒼空の相手も十分、手練れだよ」
いつでも強い相手と戦いたがる蒼空をあやすように、苑紅は笑った。
「たしかに福丸さんの対戦相手、すごく強そうです」
琴葉が緊迫感のある顔で、洲鳥を見つめる。
「洲鳥は近接戦闘タイプでバリバリにストイックだからな。中堅ともなると、流石にガチ勢が出てくんな」
苑紅は琴葉に受け答えしたあと、試合場にいる福丸に激励を送る。
「福丸! 洲鳥は悶絶筋肉ファイターだ! うかつに近寄るんじゃねえぞ!」
苑紅の雑な声援を背中に受け、福丸は目の前の洲鳥に微笑みかける。
「身内の品のない表現を詫びよう」
「構わん。元は同朋。苑紅の言いっぷりには慣れている」
白逢が片手を高らかに上げた。
「開始めっ!」
宣言と同時に両者が後方に跳ねる。
福丸は首に下げたロザリオを、洲鳥は懐から取り出した火打石を、それぞれ握りしめて詠歌した。
『静寂の水面に揺れるカルヴェール 薔薇より赤く捧ぐ一輪』
『イザナミの成れに臆する伊邪那岐を追いしは火雷の神斧』
両者の前に詠力陣が広がり、パッと輝きを放つと、収束する。
福丸の周囲に出現した詠力陣は、ロザリオの揺れに呼応するように波紋を作る。ロザリオはゆらゆらと福丸の首元で揺れながら、次第に美しい装飾が施された柄の、細身の剣へと姿を変えた。
一方、洲鳥は詠力陣に向け、カチッと一度だけ火打石を鳴らす。飛散した火花が詠力陣に届いたかと思うと、ゴウッと瞬時に燃え広がった。火打石は燃えさかる詠力陣と融合し、パチパチと音を立てながら、刃渡り六十センチほどの極大斧を錬成する。
「さぁ、始まりました! 中堅戦! 第三短歌部の在原の歌戎具はレイピア! 対する橋本の歌戎具は西洋の戦斧。あれは、ハルバートでしょうか?」
「ハルバートにしては無骨ですね。重量だけに注力した大斧というところでしょう」
福丸と洲鳥が向かいあう試合場に、馬時と野口の実況コメントが響く。
「へえ、その斧、ウタで軽量化されてるのかな?」
福丸の言葉に、洲鳥は無表情のままで大斧を構えた。両腕にビキビキと血管が浮かぶ。
洲鳥は大斧を軽く後ろに引き、すぐさま福丸にめがけ、高速で袈裟懸けに振り下ろす。風を切る重い音を轟かせながら振り下ろされた一撃を、福丸は軽い身のこなしで避けた。洲鳥は即座に大斧を引き、肩にドンと乗せる。肩にめりこむような重量感が傍目にも伝わった。
「軽いかどうか、身をもって試せ」
「これは失礼したね」
福丸は微笑みかけながら言った。
「橋本の重い一撃を難なく躱した在原君! その動きは軽やかです! 手元の資料によりますと、成績は平均点よりもやや上! 部活はしておりませんが、伝網で百五十万フォロワーを誇る有名インフルエンサーの一人に選ばれています!!」
「ふっ! くだらん奴め。雲雀に入学しておきながら伝網に取りこまれおって、堕落にも程があるな」
「え、えぇ……。おっしゃるとおりです……」
馬時の実況に悪態をつく甲賀に、茨刀は懐の伝冊を握りしめながら答えた。
福様……。
福様が伝網で紹介するアパレルブランドの店には必ず足を運ぶこと。福様の紹介していたパンケーキ店に足繁く通ったこと。福様が音楽に合わせてダンスする動画を、何度も見て真似たこと。フォロワーの中でもトップファンに選ばれている茨刀は、福丸への崇敬の念を甲賀に知られないよう、平静を保つのに必死だった。
苑紅は福様を踏み台に、草凪を勝たせようとしている。そんな策略への苛立ちを心の前面に押しだし、イライラした雰囲気を纏う。そうしていなければ、美意識の塊のような福様が試合場に立つところなど見ていられなかった。
じりじりと間合いを詰める洲鳥が、素知らぬ顔のまま腕に力を込め、一瞬の隙を狙って福丸の頭部へと大斧を振り下ろす。異様な詠力を感じ取っていた福丸はとっさに後方に跳ね、糸も通らぬほどの差で大斧を躱した。地面に直撃した大斧から、無数の電撃が炸裂する。
福丸がさっと身構えながら語りかける。
「『火雷の神斧』。雷神を宿した歌戎具の斧ということだね」
「お前、部活をサボっているだけの唐変木ではないな」
涼し気な顔で歌戎具の種明かしをする福丸を睨みつけながら洲鳥が答える。
「苑紅さん! 斧から電撃が出てんすけど!?」
自分が戦うはずだった相手の歌戎具に、蒼空は虜になっているようだ。
「ああ、二年にもなると、最初から歌戎具に何らかのウタを纏わせてると思った方がいいよ。ま、福丸もわかってるはずさ」
「あの身のこなしで中の上……? 相手は洲鳥だぞ?」
甲賀が困惑しながら呟いた時、馬時の実況が響いた。
「第一短歌部の実力者・橋本洲鳥と対等に渡りあう在原君! その涼しげな表情に隠された秘密とは!? ここで、観戦している皆さんのために、在原君のクラスメイト、野球部の青木国満君にゲストで来ていただきました! 青木君、こんにちは!」
「こんばんは」
国満は野球部のユニフォームを着て、少し所在なげにしている。
「はい、こんばんは! 青木君は在原君のご友人で?」
「友人じゃないですけど、まあ、はい」
「第一短歌部の実力者相手とも対等に渡りあう身のこなし! これは一体、どういうことなんでしょうか!?」
スタンドマイクを用意しているにもかかわらず、自分の手に持っているハンドマイクを突きつけてくる馬時に眉をひそめながらも、国満は淡々と応えた。
「アイツ、キモいんですよね。休み時間はウタで薔薇を背負って自撮り。授業で先生に当てられた時も、わざわざ薔薇を背負って発表してる姿を自撮り。先生に注意されると、わざわざその薔薇の花びらをウタで舞うように散らしながら落ちこむんですよ」
「これはキモい! 強さの秘密には一切迫れませんでしたが、キモさが伝わる生々しいエピソード!」
実況席のやりとりを聞き、洲鳥が福丸に侮蔑の目を向ける。
「お前、キモいな」
「凡庸な人々に真の美しさは理解されないものさ」
仰るとおりです……福様……!
茨刀は、そう思っているのは自分だけではないと信じながら、心の中で叫ぶ。
福丸が間合いを取り、洲鳥が徐々に詰めていく。最初から変わらない構図が続き、またも洲鳥が大斧を横薙ぎに払った。
「苑紅さん、どうして洲鳥さんはウタで攻撃しないんでしょうか?」
戦闘を見ていて、琴葉は疑問をぶつける。
「あいつは根っからの近接戦闘タイプだからな。もちろん歌戎具は使うけど、それよりも自分の肉体至上主義なんだよ」
「ウタに頼らなくても勝てるっていう自信があるんですね」
「ははっ、アンタも似たようなもんだよ、琴葉」
琴葉は照れを隠すように試合場に向き直った。
攻撃を紙一重で躱した福丸は、退いた体を瞬く間に前進させ、レイピアで洲鳥の胸に刺突する。洲鳥は力任せに大斧を引き寄せ、太い刃でレイピアの一撃を防いだ。
福丸はフッと笑い、身をよじらせて回転しながら斬撃を幾度か繰り出す。そのたびに洲鳥は大斧を巧みに操り、斬撃を弾いた。福丸は攻撃に区切りをつけると後方に跳び、レイピアを抱くようにして詠歌する。
『通い路に幻華捧げしカルヴェール 彼らの罪を赦し給いて』
強い。
身のこなし。詠歌のタイミング。静と動のバランス。どれを取っても中の上などという評価では不釣りあいだ。元より全力を尽くして殺しにかかるつもりだったが、それに加え、慎重に試合を進めなければ危険だと洲鳥は感じていた。
返歌のタイミングを失った洲鳥は、瞬時に距離を詰める。
福丸の詠歌は幻覚系だろう。ならば、幻覚に惑わされるよりも前に潰す……!
すぐさま反撃が来ると予測していた福丸は、洲鳥の踏みこみに合わせ、一直線にレイピアを突く。洲鳥は即座に大斧で刺突を受けると同時に、蹴りを放つ。福丸の体は蹴りを受けたところから無数の花びらとなり、赤く散った。
幻覚の効果か。
洲鳥が本体を探す間もなく、数歩離れた場所から福丸が現れ、レイピアを横に払う。素早く大斧を翻し防御する。
間合いをはかりながら、洲鳥は舞い散る薔薇の花びらを見た。
……この花びら、本物か……? とすると、幻覚系ではない……。
洲鳥はある仮説を立てた。
奴の詠歌は、私の攻撃を受けることがトリガー。トリガーが発動すると、一本の薔薇を身代わりとして消費し、超人的な脊髄反射で攻撃を避ける。
この仮説が正しいなら、さっきのウタは幻覚系ではなく、体術系か。
だとしても……。
洲鳥は斧をぐるりと翻し、構える。そして、福丸を睨めつけるように見据えた。
「お前、こんなややこしいウタを、攻撃のたびに詠む気なのか?」
福丸は無言の笑顔で応えた。
高速で迫る斧の刃が、その笑顔を掠める。福丸は淀みない足さばきで攻撃を防ぐ。
奴から感じる詠力は決して強くない。それに、長歌ではなく短歌ならば、強い効果は一回が限度。ならば、詠わせなければいい。詠われたら、返歌で相殺する。
勝つことを疑わない洲鳥だが、力業で押し負かせるほど弱い相手ではないと悟った。
連撃を躱しつづける福丸だが、繰り返しの斬撃がついに小さな綻びを作る。その瞬間を、洲鳥は見逃さなかった。不可避の角度からの攻撃は、強烈な電撃を発しながら福丸を両断する。
相手にとって不足はなかった。
洲鳥は大斧に断ち切られた福丸の姿を確認する。
しかしそこには、無数の赤い花びらが舞っているだけだった。
効果が残っていた? ならば、三度殺すまでだ。さらなる詠歌も許さない。
洲鳥の攻撃をトリガーとして、薔薇と引き換えに瞬間移動した福丸の、短歌を詠む声が聞こえる。
『壁を背に君は抱かれ瞳を開く 「恋」と聞こえて「愛」に来たから』
……何?
洲鳥は、福丸の短歌に閉口し、返歌を詠むことができなかった。
「『壁を背に君は抱かれ瞳を開く』……。魅了系のウタか? お前、私を壁に追い詰めて、壁ドンする気なのか?」
「エデンの園に連れていくと、約束しよう」
数歩先に現れた福丸の言葉に、洲鳥は白けたように大斧を構えた。
壁ドンだと? 私がアイツに壁ドンされる? 馬鹿な。
体術で劣るとは思えない洲鳥は、もはや勝利を確信した。次に詠歌した時が、アイツの最期だ。
「出ました! 青木君のエピソードを裏打ちするようなキモ名言!」
「このトリガーが発動されるかどうかが、勝負を決する可能性もありますね」
煽るような実況解説に、観客席は熱を帯びる。
両者の試合を見守る蒼空が、苑紅に尋ねる。
「あのウタ、壁ドンがトリガーてことっすよね。洲鳥さん相手だと難易度高くないっすか?」
「仕方ないさ。それが、福丸が詠いたい歌なんだよ。アイツは歌心に忠実だ。保険かけてトリガー甘くしても、魅了系のウタは効果が出ない。そんかわり、壁ドンが決まれば確実に、勝つ」
「面倒くさいけど、決まったらヤベー短歌ですね」
歌心に忠実であればあるほど、ウタの効果はあがる。
しかし、刹那に命のやりとりが繰り広げられる歌合において、歌心のままを詠うことがいかに困難か、蒼空は実感として知っていた。
「福丸さん、すげぇな……」
「そーさ。アタシも最近知ったけど、アイツ、見えないところでめちゃめちゃ努力してるんだよ。だからこその、この配陣なわけさ」
「苑紅さんでも最近知ったんですか?」
驚いたように琴葉が苑紅に訊く。
「ははっ。まあね。でも、アタシは決して福丸を捨て駒なんて思っちゃいない。一つでも多く勝ち星を獲って、第三短歌部を認めさせたいのさ」
苑紅はニヤリと笑ったが、その後すぐに苦い表情になって試合場を見る。
「でも、この局面はちょっと、いや、かなり詰んでるな……。洲鳥は詠う隙をもう与えてくれないよ」
福丸がレイピアを構え、高速の刺突を重ねる。洲鳥は大斧を巧みに操り、攻撃をさばく。
いくつかの攻撃をいなした時、福丸にまた、一瞬の隙が生まれる。洲鳥が繰り出す大斧が、その瞬間を捉え、容赦なく胴を薙ぎ払った。
「終わりだ」
バリバリという轟音が中空に響き、福丸の体は上半身と下半身に両断される。しかし、二つに分かれた体の影は、やはり花びらとなり弾けた。
三度目?! こんなに長く強い効果が、たった一度の短歌で持続するわけがない。
一瞬のうち、洲鳥の頭を駆け巡った疑問に、福丸が唇を耳元に寄せて答えた。
「僕の十字剣「ロザリウム」は、薔薇を捧げたウタの効果を強めてくれる」
洲鳥の動きを封じるように片手が伸びる。
ドン! という音とともに、結界の壁に背を当てた洲鳥の周囲に、真っ赤な薔薇が茂った。
いつの間に?! コイツ、相当強い……。
「決まったーーッッ! 壁ドンのトリガーだ!」
洲鳥と福丸の視線が重なる。
洲鳥は、握っていた大斧を力なく下ろす。斧頭がドス、と音を立てて地面に刺さり、小さな電撃を発してから沈黙した。
「お前は、人知れず努力していたんだな」
まっすぐに見つめる洲鳥に、福丸は微笑みかける。
「白鳥は、水面下でもがく足を決して見せない」
「……そうだな」
苑紅と蒼空が身を乗り出す。
「……っしゃ!」
「完璧っすね!」
福丸はさらに優しい声音で囁く。
「さあ、戦いは終わりだ」
洲鳥に抵抗する様子はない。トリガーが決まったのだ。歌心に忠実に詠われた福丸の短歌の効果は計り知れない。
とろんとした目の洲鳥は、福丸以外のものは何も存在していないかのように、まっすぐな視線で話しはじめる。
「私は、恋を捨てると強く心に決めて高等部にあがった」
福丸は無言で洲鳥の話を聞く。
「恋は辛い。もう、恋なんてしたくない。高等部では無心にウタを磨こう。そう思っていた」
洲鳥の片目から、ダイヤの一粒がこぼれ落ちる。その様を間近で見ていた福丸の心が、石を投じられた湖面のように揺らいだ。
「凍らせた心 まんまと溶けてゆく 果たす気もない君の言葉に」
静かに詠まれた原歌に、福丸の表情が歪む。
「あの女、まだ詠歌えますの?」
「いや、あれは原歌だね~」
どよめきの起きた観客席で、紫乃も天月と言葉を交わす。
「洲鳥さんは完全に福丸君に魅了されているよ。だから、福丸君を攻撃するようなウタは詠えない。あの原歌は、ただただ福丸君への恋慕の念を詠んでいるだけ。とても、良い歌だね~」
第一短歌部に所属していながらも、どちらの味方につくでもない天月はにこりと笑った。
「まさかの原歌! 在原君に魅了された橋本さん! まさかの原歌を詠んでいます!」
「あー、あれ、もう駄目ですよ」
場内を盛りあげようと大声で実況する馬時を尻目に、国満が断じる。
「福丸、あいつ豆腐メンタルなんです。歌合の授業でも、いつもメンタル面で耐えきれなくなってひっくり返されるんですよ。だから成績が振るわないんです。ほら、あの顔」
「あれは……」
国満が福丸を指差したちょうどその時、第三陣営にいる苑紅が小さな声で言った。
「あの顔は、駄目な時の福丸だ」
恋する乙女と成り果てた洲鳥の原歌は留まるところを知らない。
「「アイシテル」 夜風のような囁きは 雲に流れる でも、「愛してる」」
詠歌が終わるよりも早く、洲鳥を囲むように咲いていた薔薇に、ガラスのようにヒビが入る。
これまで歌合をしてきた女子生徒の多くは、魅了された途端に戦意喪失し、試合の続行が不可能となる。しかし、洲鳥は試合終了を告げるよりも前に、恋心を込めた原歌を詠った。
いたずらに乙女の心を操ったことに対し、福丸は強すぎる感受性と人一倍の優しさが仇となり、洲鳥の純粋すぎる原歌に耐えきれなくなってしまったのだ。
深い罪悪感に苛まれる福丸を追い詰めるように、洲鳥の原歌は止まらない。
「恋い焦がれ 千々にみだれて 燃えつきて 灰になっても待つ 君の恋文」
洲鳥を囲む薔薇が、パーンッと砕け散る。情熱的に赤い花びらの欠片が霧散していく。福丸は片手で頭を抱え、力なく数歩後ずさる。
ひどく哀しげな表情の福丸の前で、洲鳥がゆっくりと大斧を上段に構えた。
「おい! トリガー切れてんぞ!」
「福丸さん! 詠歌んで!」
苑紅と蒼空の叫びも空しく、福丸はどこか悟った表情で両膝を地面に着き、掌を胸に置くと、詠力を纏った。
洲鳥はこれ以上、詠わせてなるものかと思ったが、福丸からは攻撃的な詠力が感じられない。
『哀れなる罪の赦しを請う 薔薇の赤に命を捧ぐ アーメン』
「そうか」
洲鳥が短く答えると、大斧を袈裟懸けに振り下ろした。電撃が、福丸の上半身に迸り、ダメージの大きさを物語る傷が広がる。その傷口から、いくつもの青い鎖が伸びていった。
福丸の頭上に詠力陣が形成され、無数の薔薇の花びらが舞い降りる。最後のウタは、封印と同時に薔薇を纏う効果を持っていた。
歌心を忠実にまっとうした福丸は優しい笑顔を浮かべ、深紅の花びらに包まれながら、試合場に伏せた。
「勝負ありっ! 勝者、橋本 洲鳥!」
観客席から大歓声が湧いた。
「福丸!」
倒れた福丸の元に駆け寄ろうとした苑紅を、白い腕章を付けた生徒が制止する。
「すぐに療治しますから」
療治班の生徒たちは、薔薇をかきわけるようにして、地面に伏した福丸を取り囲み、療治のウタを施す。
洲鳥が拝むように大斧を掲げる。大斧は光の粒子を纏いながら、二つの火打石へと戻った。それを懐にしまい、一礼する。
福様……! お美しゅうございました……!
苑紅たちのように駆け寄ることもできない茨刀は、伝冊をきつく握りしめた。
試合場を降りながら、洲鳥は複雑な気持ちを胸に抱いていた。
奴のレイピアは、私を傷つけなかった。奴に本気で刺突する気があれば、負けていただろうか……。考えても仕方のないことだとわかっていながらも、ふと、試合場を振り返る。
それはほんの一瞬のことだった。
洲鳥はすぐに向き直り、試合場の階段を降りる。
しかしまた、足を止めて振り返った。
気になるのか? この私が、あいつのことを?
不快、かつ、不要な感情だ。
洲鳥は歯を噛みしめ、無表情を貫いたまま、試合場を後にした。