第二十六話「般若の歌」
見事な正拳突きを炸裂させ、先鋒戦に勝利した琴葉を苑紅たちが祝福している傍ら、地べたに座りこんだ籠持を絡繰装具部の面々が取り囲んでいた。
絡繰装具部部員の一人が小さな黒板を両手に持ち、天羽が指し棒で示しながら説明している。
「よし! では次は、阿修羅機関砲のウタを詠んでみろ!」
「えーっと……、と、とこしえの~~」
「ちがうッ! 馬鹿者ッ!」
鎧甲冑を着込んでいるため、籠持の表情は見えないが、明らかな狼狽の色を声に滲ませている。
「天羽さ~ん、何してんすか? 籠持の出番っすよ」
籠持を囲む絡繰装具部にひょっこりと顔を出し、蒼空が声をあげる。
「なにッ! 先鋒戦はもう終わったのか!?」
「え、見てなかったんすか?」
「もう少し時間稼ぎになるかと思ったが、致し方あるまい……」
天羽が悔しげな表情で鎧武者を見た時、試合場から茅野白逢の凜とした声が響いた。
「次鋒戦! 第一短歌部・中務真砂経、第三短歌部・山部籠持、前へ!」
白逢の呼びかけを聞くと天羽は、急に据わった目をして登壇口へと進み、指し棒で試合場を差して原歌を詠んだ。
「漢なら呑め博打て遊興べ 派手に散れ 墓標代わりの一升瓶よ」
「え~~~、僕、死ぬんですか~~?」
突然の死を宣言され、鎧武者は及び腰になる。
「そうだッ! 行けッ!」
「うぁ~~ん。 お腹すいたなぁ~~」
ぶつぶつ言いながらも立ち上がり、のそのそと歩く籠持の尻を天羽が蹴りあげる。
鎧武者は蹴られた尻をさすりながら試合場へと登壇する。
反対側からは、不敵な笑みを浮かべた真砂経が、堂々とした面持ちで登壇してきていた。
試合場の開始線まで進むと、真砂経はヨタヨタと登ってくる籠持を一瞥し、それから場外にいる衡也と目線を合わせ、ニヤリと頷く。
両者が開始線につくと、白逢が片手を挙げた。
「開始めっ!」
開始の合図とともに、真砂経は後方へ下がり、腰に携えた短剣を抜く。
―真砂経、あいつは見かけ倒しのハリボテだ。教化のつもりで叩き潰せ。
試合前の衡也からの助言に従い、真砂経は短剣を鎧武者に向けて詠歌する。
ありがとよ、俺の踏み台になってくれて!
『氷輪は弦月となり緋縅の鎧貫く誅戮の牙』
真砂経のウタに合わせて現れた五句体は渦を巻き、詠力紋が現れる。詠力紋が弾けて短剣に吸収されると、刃は強く光り、蛇のように大きくしなりながら伸び、円弧を描く細い三日月のような、両刃の長剣と姿を変えた。
「おぉ! ナイフが伸びた!」
「ショーテルの歌戎具ネ」
驚いた声をあげた梓弓に、愛蘭が返答する。
「ショーテルっていうのは、大きく反った両刃を活かして、相手の盾や防御を越えて攻撃できる剣のことヨ」
「へー! 強力な武器ってわけか。じゃ、“うたじゅうぐ”ってのは?」
「ウタで錬成される武器のことヨ。ウタが通りやすく、特殊な攻撃も可能になる。もう少ししたら授業で習うわヨっ」
ショーテルを構える真砂経の目には、腰の刀を抜こうとするが、鎧に引っかかってもたついている籠持の姿が映っている。
やっぱりあいつ、戦い慣れてねぇな。
真砂経は内心、ほくそ笑んだ。
「籠持! 何をしているッ! YUKIMURA起動のウタを詠めッ!」
「えっ! えぇっ! えーっ!」
「さて、次鋒戦! 第一短歌部は短歌連一年、中務真砂経です! 手元の資料によりますと、中等部を第六席で卒業したなかなかの実力者ですね」
「男子では主席なんだよ!!!」
真砂経が実況席の柿本馬時にショーテルを向けて言った。
「ご覧ください! 中務君、必死の形相で訂正しております! 俺は男子ではナンバーワン! 熱のこもったコメントを実況席にぶつけました!」
「すごく大きな声でしたね。きっと彼にとっては大変重要なことなのでしょう」
実況の馬時と解説の野口がひょうひょうとしたコメントを付け加える。
真砂経は明らかに苛立った顔になっていた。
「なーんだ。偉そうに主席だって言ってたけど、女子を合わせると六番目なんだね」
琴葉が第三陣の控え席で冷たく言った。
「うるせぇ! このブス!」
語彙力のない真砂経の悪態に、琴葉はフッと冷笑を返す。
「さて! 第三短歌部陣営は、またも高等部からの編入生! 山部籠持は装具連の一年であり、数日前までは絡繰装具部の部員でした。絡繰装具部は奇抜な装具を作ることで有名ですが、あの甲冑にも何か奇策が含まれているのでしょうか?」
奇策? 愚作の間違いだろ?
刀が抜けず取り乱している籠持に対し、真砂経は容赦なくショーテルを構えて駆け出す。
「わ! わ!」
猛然と向かい来る真砂経の武器が目に入り、籠持は抜刀することも詠歌することも諦め、背を向けて逃げ出す。
「馬鹿者ッ!! 武士たる者、敵に背を見せるなどという生き恥を晒すなッ!」
はっ。あいつには武士道もクソもねぇよ。
天羽の怒声も耳に入らないのか、恥も外聞もなく逃げ惑う籠持の背中に、真砂経がショーテルを振り下ろす。
「わぁあぁっ」
一寸足らずで届きはしないものの、籠持の恐怖心を煽るに程よい斬撃が幾度か繰り返された。
「ほらほら、そんなに逃げたいなら、どこまででも逃げてみせろよ」
真砂経は足を止め、ショーテルを構えると詠歌の態勢に入った。
「マズいッ」
誰よりも深刻な面持ちで試合を見守っていた天羽が、さらに大きな声で籠持に指示を出す。
「籠持ッ! YUKIMURAを起動させろ! 死ぬ気で詠めッ!」
逃げ惑いながらも、ようやくその声が耳に入ったのか、籠持は真砂経から少し距離を取った場所で立ち止まる。
「は、はい~! えーと……」
「今さら遅せぇんだよっ」
真砂経は瞬時に詠力を纏い、身構えながら詠歌した。
『銀の光の下に無限の裁きを晒す弓張の月』
籠持も真砂経に続き、たどたどしい構え方で短歌を詠む。
『定めなき浮世を憂う兵は怨恨の種 食みて いざ翔つ』
「よしッ! 目にものを見せてやれッ!」
歓声の中、天羽の声がひと際、大きく試合場に届く。
真砂経の眼前に現れた五句体は収束すると輝く詠力陣となり、その中心からいくつもの三日月型の刃が放たれた。複数の刃はそれぞれ弧を描き、籠持に向かっていく。
「危ない!」
琴葉が声をあげたその時、籠持が身につけた鎧の、兜面の両眼が、ヴンッと黄色く光った。
真砂経によって放たれた三日月の刃が甲冑に届くかと思われた時、赤色の鎧武者は一瞬で抜刀し、鋭く巧みな太刀さばきで全ての刃を叩き落とした。
「……腹、へった……」
鎧武者は振るった太刀をゆっくりと下ろし、ぼそりと呟く。
真砂経と籠持の見事な攻防に、観客から歓声があがる。
「おいおい! 籠持のやつ、やるじゃねえか!」
蒼空とともに籠持のルームメイトでもある梓弓が嬉しそうに言う。
「あの鎧は、積怨系の歌心を高める作用があるようだね」
「何すかそれ?」
天月の解説に、梓弓は素直に質問をぶつけた。
「纏っている詠力から察すると、籠持君の鎧は、恨みに関するウタの効果を上げる装具だと考えられるね。ただ、絡繰装具部が製作した装具だし、今の刀さばきを見ても、色んな機能が盛りこんでありそうだね~」
天月は嬉しそうに言った。
「絡繰装具部の秘密装具がついに火を吹いた! 野口さん、これは一波乱ありそうですね!」
「あれは、なかなか危険な装具ですね。積怨系の装具なら、本人の精神汚染もありますよ」
「なるほど! 身の危険を顧みず、怨みを力に変える山部君! 手練の侍がごときオーラを纏っています!」
実況の馬時が言うとおり、先刻までの逃げ腰な態度をやめ、隙を見せなくなった籠持にたじろいでいたのは、もちろん、相対している真砂経だ。
「真砂経、臆するな! 攻めていけ!」
「は、はい!」
クソッ、何だあいつ……、気味悪りぃ……。
衡也が飛ばした激に、真砂経は意を決し、ジリジリと籠持に近付く。
しかし、先に詠歌したのは籠持だった。
『眇めみる籠目に函りし裏鬼門 百年千年いついつ出やる』
「ほぅ」
「なかなか心得ているな」
絡繰装具部の面々は口々に籠持を褒めているが、周りで聞いている者たちには何がなんだかわからない。
間合いをものともしない唐突な詠歌にぎょっとしながらも、真砂経はすぐに手をかざし返歌の態勢を取る。
『編み交わす籠目もろとも燃え盛る薪炭と化す 深炎の壁』
籠持の掌の前に生じた詠力陣から、黒いモヤが放たれた。
黒いモヤはドクロの形に凝集し、真砂経に向かい飛んでいく。
「う~ん、なるほどねぇ」
感情のよくわからない曖昧な笑みをたたえながら、天月が唸る。
「どうしたんすか?」
梓弓が問いかけると、天月はふっと口元だけで笑って、
「まあ、見てなよ~」と言った。
一方、真砂経の手の前に生じた詠力陣からは、真っ赤に燃える炎が壁を作るように広がった。
黒いモヤは、炎の壁に近付くにつれ、骸骨の体を成していく。上半身ができあがったかと思うと、炎の壁の中央に両手をかけ、両開きの障子を開くようにスススス……と炎を開いた。
「うわぁぁ!」
炎の壁を開き、内側へと侵入した黒い骸骨は、真砂経をぎゅっと抱きしめ、それから、ただの煙になってぼわりと消えた。
真砂経は悲鳴をあげたことを恥じる余裕もなく、ヨタヨタと後退しながら、体にダメージがないことを確認した。
「な、なんだ、やっぱり見かけ倒しじゃないか」
真砂経が周囲を見渡すと、黒い煙がほうぼうから立ちのぼっている。
「え……」
試合を観戦する学生たちの熱い歓声や、見慣れた第一短歌部の面々の顔は一つも見えず、真砂経は先の見えない夜の荒野に立っていた。
「な、なんだよこれ……」
その時、アハハ! ウフフ! と四方から、子どもたちの笑う声が聞こえてきた。
真砂経は身を強張らせ、反射的にショーテルを身構える。
どこからともなく、真砂経の腰ほどの大きさの黒い紙人形たちが走ってきて、真砂経は逃げる間もなく取り囲まれ、円陣の中心に幽閉される。
「かーごめ かごめ」
「うわぁあぁ……なんだ、こいつら……」
真砂経はショーテルを振りかざし、斬りつけようとしたが、足は動けども、なぜかその場から進むことができない。
「籠の中のーとーりーは」
「いーつーいーつ でーやーるー」
「か、金縛りかっ!?」
楽しげに回る黒い紙人形たちの中央で、真砂経は進むことも退がることもできないまま、事態を見つめているしかなかった。
「夜明けのーばーんにー」
「やめろっ! クソッ!」
ぐるぐると自分を中心に回る紙人形たちを見ていると、真砂経は闇に囲まれたような恐ろしい気持ちになってきて、頭を抱えてしゃがみこんだ。
「つーるとかーめがすーべったー」
耳を塞いでも声は頭の中に響き、真砂経は目に涙を滲ませる。
「後ろの正面 だーあーれー」
歌い終わると、アハハ! アハハ! と紙人形たちの笑い声が聞こえてくる。
真砂経はずっとうずくまっていたかったが、意図せざる力が体を動かそうとしてくる。抵抗しようとしてもできず、真砂経は頭を持ちあげ、後ろを振り向かせられると、黒いモヤの向こうから、焼いた鉄のように赤い甲冑武者が、ぬらりと姿を現した。
「……腹ぁ……減ったぁ……」
鎧武者は両手で握った刀をゆっくりと上に掲げながら、真砂経に近付いてくる。
「うわぁあぁあぁ!!!」
真砂経はもはや半狂乱となり、鎧武者に背を向けようとする。しかし、体は真砂経の思いとは裏腹に、武者の太刀を真正面から浴びるように、向き直ってしまう。
『真砂経!』
どこからか衡也の声が聞こえてきて、真砂経は今、自分は試合中だったのだと思い出す。
『真砂経! それはウタの幻覚だ! ウタで祓え!』
黒いモヤに包まれた世界の中で、衡也の指示は伝冊の向こうの音声のように鈍く響く。だが、真砂経にはそれだけで十分だった。
「はい!」
真砂経は片手で拝み詠歌する。
『籠目より今こそ出やる好機と見し 虚像の鬼は悪しき罠絶つ』
足元に現れた詠力陣から、白い光が広がっていく。
「天月さん、つまりさっきの真砂経の詠歌は」
「そう、単純な詠み違いだね~」
戦況を見守りながら、天月は淡々と言葉を紡ぐ。
「籠持君のウタは『幻覚系』に分類されるものだった。対して真砂経君の返歌は、『拘束系』を阻むためのもの。高熱が出ているのに解熱剤じゃなくて下痢止め薬を飲むようなものだね~」
「だからあいつ、金縛りか? って言ってたんすね」
「そう、あのセリフが出る時点で、彼は籠持君のウタの術中にはまっているってわけだよ」
試合場では、真砂経がウタで出した光が、紙人形たちに大きなダメージを与えていた。
「キャー!」
光に触れた黒い紙人形たちは、悲鳴をあげながらモヤとなり消えていく。光の広がりに従って、世界を構築していた黒いモヤも暴かれていき、気付けば真砂経は試合場の上に戻ってきていた。
「腹ぁ…………」
寸前まで近付き、刀を振り下ろそうとしている鎧武者から、さっと距離を取り、ショーテルを構え直す。
「真砂経! そいつは足が遅い! 速度で翻弄しろ!」
声のする方を見ると、衡也ががなり声をあげている。
「はい!」
真砂経はすかさず詠歌した。
『ぬばたまの黒衣纏いし豹尾神 月を蝕み金環を成す』
手の前に生じた詠力陣が弾けると、光の粒子が真砂経の体に染みこんでいく。
「お遊びは終わりだっ!」
真砂経は横に跳ね、加速度的に歩速を上げていく。
何度もフェイントをかましてから鎧武者の背後に回り、上段からブンとショーテルを振り落とした。
鎧武者は巧みな刀さばきでそれを払い、真砂経は体を退ける。
撹乱させるような不連続な動きと斬撃に鎧武者が次第についてこられなくなったのを見計らい、真砂経がショーテルを振った。
鎧武者は必死でショーテルに食らいつき、太刀を合わせたが、円弧を描いたショーテルの切っ先が、ガンッ! と大きな金属音をあげた。
「よしっ!」
真砂経の一撃は兜に直撃し、頭部にダメージを受けた籠持は、二歩三歩とたたらを踏んで、力なく太刀を下ろした。
「副部長……」
深刻な表情で試合を見つめる天羽に、絡繰装具部の部員が声をかける。
天羽が「うむ……」と歯切れの悪い返事をした時、
「終わりだ!」
威勢の良い真砂経の声がそれを遮った。
真砂経はトドメの一撃を与えんと、地面を蹴って跳ねあがる。
その時、鎧武者の兜がブルブルと震え始め、大量の赤い瘴気が体中から吹き出した。
「な、んだ……?!」
真砂経は途中でブレーキをかけるように足を止め、片手で顔を覆う。
ガラン、と音がしたかと思うと、鎧武者はその手から刀を落とし、ピクリとも動かくなった。瘴気も止み、まるで息絶えたロボットのように立ち尽くしている。
「はは……、死んだか?」
真砂経が様子を見ようと一歩踏み出した時、グゥゥンと不快な音が聞こえ、眼前に赤い煙でできた骸骨が現れた。
骸骨は歯の並んだ口を笑うように開き、両手で真砂経の頬を包むように触れる。
「ひ」
息を吸いこみ、声も出ない真砂経に、骸骨がカタカタと囁いた。
『朽ちテなお』
「副部長あれは……」
「うむ。暴走である」
籠持の声とは明らかに異なる機械的な重低音が試合場に響く。
『夜ノ紅きに染ム池ニ』
『響く嘆きハ怨ぞ忘れジ』
詠歌されていることがわかっても、真砂経は返歌を考えることも、逃げることもできなかった。
詠歌が終わると強い風が吹きわたり、瘴気の下から鎧兜が見えた。
赤黒く光る両目が真砂経を呪うように見据えている。
鎧武者の背後から、まだ真新しいヌメヌメの血で染まった、骨に皮がへばりついたような腕が十数本、生えてきて、真砂経の全身を力強く掴む。
死してなお尽きぬ恨みが、その力強さに表れていた。
「ぁ……」
拷問を受けているような人間の叫び声が四方から聞こえる。
真砂経は恐怖に支配され、その拷問を自分自身が受けているように感じていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
謝れど謝れど、拷問の悪夢は終わらない。
足元には、数十、数百という者たちの流した血が沼となって広がる。
沼の底から伸びた数十本の腕が、競うように真砂経の体を引きずりこんでいく。
「ごめ、なさい…………」
歯の根の合わない謝罪を続ける真砂経の耳元で、骸骨がさらに囁いた。
「天羽! あれ、籠持のやつ、ヤバいんじゃないの?!」
戦況を見守る苑紅が、天羽に向かって大声で問いただす。
苑紅の声に応えず、射るように試合を見つめる天羽の周りで、絡繰装具部の面々が、何やらヒソヒソ声で話している。苑紅はゴクリと唾を飲みこみ、祈るような気持ちで鎧武者を見守る。
『無我無常 般若ノ声は何ウタふ 苦悶の末ニ歎けとウタふ』
「般若砲かッ!」
天羽がそう叫んだ時、真砂経の耳に花火の音が聴こえた。
目の前に仮装をした子どもたちが現れ、楽しげにハロウィンのパレードを始める。 恐怖に支配された真砂経は一歩も動くことが出来ず、ただただ怯えていた。
そして、次に真砂経の眼に入ったのは、甲冑の大部分が剥がれ落ち、能面をつけた籠持の姿だった。
能面はモンタージュのようにカシャカシャと形を変えると、般若の顔となり真砂経を睨んだ。
「よけろ! 真砂経!!!」
衡也の声が試合場に響いたが、真砂経の足は動かなかった。
般若面の口元から、幾重にも重なった詠力陣が回転しながら生じ、強烈な詠力紋がバチバチと弾けた。
刹那、その詠力陣から強烈な太いエネルギー波が放たれた。
偶然なのか、真砂経をよけるように放たれたエネルギー波は横薙ぎに周囲をえぐり、瞬時に赤黒い炎が大きく上がった。
真砂経は腰を抜かしながら、呆然としてその様子を見る。まさにこの世の終わり、地獄だった。
『一切ノ術は夢幻と兵ハ 物思ふノミ 嗚呼 野辺霞』
幾度目かの籠持の詠歌を耳にした時、真砂経は川のせせらぎが聴こえるほとりにいた。
隣には麦わら帽子を被った若き釣り人がおり、真砂経に向かってひょうきんな声で告げる。
「川の主のおでましだってばよ!」
パンッ! と紙吹雪が散った時、真砂経はまた、試合場に引き戻された。
状況を飲みこめず唖然としている真砂経の前に、鎧甲冑の武装を全て解除した、生身の籠持が立っていた。
「お……、おなか、すいた……」
そう言い残し、籠持はドミノが倒れるように、前のめりにパタリと倒れた。
数秒の間を取り、白逢が片手を挙げる。
「勝負あり! 勝者、中務真砂経!」
観客席からは歓声ではなく、ザワザワとどよめきがあがる。
「籠持!」
決着のかけ声を聞いてすぐ、籠持の元に蒼空と琴葉が駆け寄る。
「おい! 籠持、しっかりしろ!」
「あ、蒼空くんだ~……」
「籠持、大丈夫か!? お前またあんなヤバいウタばっか詠んで……」
「え~? なんのこと……?それより、おなかすいたなぁ~」
詠力の消耗と空腹によってか、普段以上に気の抜けた籠持の声を聞くと、蒼空は少しほっとしてニコリと笑った。
「さっきくれた羊羹があるよ、あっちで食べよう!」
「わぁ~い」
琴葉が励ますように言い、蒼空と二人で両脇から抱え、試合場を降りていく。
腰が抜け、へたりこんでいた真砂経の元には誰もやってこず、「真砂経!」という飼い犬を叱りつけるような声で正気を取り戻した。
「はい……」
「戻れ」
衡也に呼ばれ、真砂経は這うように自陣へと戻る。
勝利した実感は毛ほどもなかった。
「無様な試合だったな」
衡也は真砂経と目を合わせることもなく言った。
「すみません……」
「第一短歌部の試合に相応しくない内容だ。猛省しておけ」
「はい……」
真砂経は狐につままれたような気持ちのまま、選手席の空白に正座した。
試合場を降りた籠持は、苑紅と天羽がギャンギャンと噛みつきあっているのを目撃する。
「なーにが「豊富な人材と技術をもって支援」だよ! 負けてんじゃんか!」
「あれは真砂経が「緊急用限定解除及び暴走の後の速やかなる自決ボタン」を押したからだッ!」
「何でそんな危ねぇボタンが頭のてっぺんに付いてんだよ!」
「使い勝手も考慮したユニバーサルデザインだッ!」
「だぁーー! んだよそれもう! それで、籠持は無事なのかよ!」
「ふむ、そこに生き証人がおるぞッ!」
二人からギンと睨まれ、蒼空と琴葉にもたれかかるようにして歩く籠持は、あはは、と薄ら笑いを浮かべた。
「籠持~~!」
「大丈夫か!」
苑紅たちよりも先に絡繰装具部の面々が籠持を囲む。心配しているのかと思いきや、
「籠持、自決準備に入ったYUKIMURA内の様子を教えよ」
「戦には負けたが、実践データの採取ができたことは大きな収穫と言っていいぞ」
「籠持の健康状態、脳内、精神への汚染がないかも調べられるな」
部員たちはきらきらと目を輝かせ、籠持を担ぎあげた。
「えっ、えっ、羊羹は、羊羹はぁ~~~?」
琴葉が慌ててポケットから羊羹を出そうとするのも待たず、絡繰装具部部員たちは籠持と甲冑を抱え、足早にどこかへ去っていった。
戦績は一勝一敗。
勝利後とは思えないような重い空気が流れる第一短歌部陣の控え席から、筋肉質の女子がすくっと立ち上がった。
「私が次の奴を殺せば済む話だ」
眉をしかめ、攻撃的な目付きのその女子に、福丸が優しい一瞥を送る。そして、片手に持った薔薇を顔に寄せ、原歌を詠む。
「涙すら 夜に輝く銀河すら殺意ですらも 美に跪く」
「あぁ、そうかい。すぐに殺してやる」
「中堅戦! 第一短歌部・橋本洲鳥、第三短歌部・在原 福丸、前へ!」
試合開始を告げる、白逢の宣言が響いた。