第二十三話「玉響の関」
カコーン……と、竹が岩に当たる風流な音が響いた。
ここは第一及び第二短歌部道場・聡詠館の奥の扉を抜け、手入れの行き届いた純日本風の庭園を過ぎたところに鎮座する「聡詠館 奥之院」。
平安貴族の建築様式を扱った優美なこの日本建築は、第一短歌部員の中でも優秀な「六歌席」と呼ばれる者たちのための特別な道場である。
その奥之院の、五十畳ほどある大広間の中心には数段の階段があり、その上に、樹齢三百年を超える松材を使った大テーブルが置かれている。テーブルには六歌席に在位する六名の生徒が座しており、その階段の真下で、宮茨刀は肩を震わせながら、か細い声を絞り出した。
「申し訳ございません……。たかが工藝棟系の一部活と、油断しておりました……」
うなだれる茨刀は、愛蘭によって仕立て直されたフリルの装束ではなく、第一短歌部を象徴する藍色装束に着替えていた。
時は二十分ほど遡る。
甲賀による絢爛装束部への課題を任されたはずの茨刀は、ものの十分でその課題をクリアされたのみならず、フリルとリボンたっぷりの装束を身につけ人格破綻したまま聡詠館に戻り、こう言い放った。
「ふわとろな乙女心に赤色のハート描いて 恋のオムレツ」
両手で作ったハートの形を胸に置いた決めポーズと共に舞い戻った茨刀の姿は短歌部の面々に大いなる衝撃を与えた。
甲賀の激昂により、茨刀はこれまで積み重ねてきた鍛錬の日々を思い出し、あまりの恥辱に自害を決意したが、それすらも「今は時間がない」という理由で棄却されたのだった。
「ははっ。油断の顛末にしてはお似合いだったじゃないか。いっそ京音部にでも入って、歌なり踊りなりを究めたらどうだ~い?」
大テーブルに座る男子生徒が、嘲笑うように茨刀を見下す。足の長い椅子は、背の低い彼が座ると少し不釣り合いだ。六歌席の一人であるその生徒は、ライオンの鬣のごとく金色に染めた前髪を指で触り、整えている。
「申し訳ございません……」
立つ瀬のない茨刀はさらに頭を低くしていた。
つまらなさそうに大テーブルに突っ伏している女子生徒が、両手で伝冊を触りながら口を挟む。
「出た出た、葉蓮の雑魚イジメ」
「事実だよ~。短歌よりアイドルの才能があるって言ってるだけじゃ~ん?」
葉蓮と呼ばれた男子はムッとした様子で言い返し、茨刀は下唇を噛みちぎらんばかりにして黙っている。
第一短歌部員たちは大広間の中でも下座に当たる場所に整然と立ち並び、くしゃみ一つできない緊張感の中、六歌席と顧問である甲賀を見上げていた。
沈黙を破ったのは、大テーブルの最奥で誰よりも背筋を伸ばして座っている静かな少年だった。
「葉蓮、鳴桧。つまらないことで時間を潰さないでくれ」
声の波動が大広間一面に広がり、新たな緊張を生む。
鳴桧は頬を膨らませ、市松模様のミニスカートに黒のニーハイソックスを履いた細い足をぶらぶらさせて抵抗を示したが、楯突くわけではなかった。
「さて、甲賀先生。絢爛装束部の件、なぜ部長の私に相談もなく動いたのですか?」
「す、すまない……」
雲雀倭歌学院の生徒会長であり、短歌部部長でもある宗雅雪嶺は、ただの短歌部員である茨刀には一瞥もくれず、甲賀を涼しい目で射貫いた。
瞬き一つで学院を動かすとまで噂される雪嶺の声に、第一短歌部員たちは体を強張らせる。
「まあいいです。さて、第三短歌部の認定試験は二十分後ですね。まさかこの程度の者達を相手に、我々六歌席の力が必要とでも?」
認定試験のメンバー表が書かれた紙をちらりと見て、雪嶺は溜め息をついた。
鳴桧と呼ばれた女子生徒は伝冊を触ったまま異議を唱える。
「私、パス―。てか、こういう雑魚イジメ系は葉蓮のジャンルじゃん」
「え~、僕も鳴桧ちゃんに同じくパスっすね~。勝ったところで加点も付かないっしょ、こんな相手じゃ」
葉蓮も前髪を指でいじりながら参戦を拒否する。
甲賀がつい口を挟みそうになったとき、雪嶺の右側に座る男子生徒がメンバー表をまじまじと見つめ、唐突に笑い出した。
「え、なに、キモいんだけど」
鳴桧の不機嫌な睨みを無視し、男子生徒は笑いつづける。
「うちの寮で初日から大活躍してくれた一年の名前があったもんでね。部活を決めたとは言っていたけど、まさか苑紅の部とは」
「あ〜。天月ちゃんが歌遊びでイジメたって噂の〜?」
葉蓮が天月をからかうように言った。
「イジメだなんてひどいな。少し遊んでもらっただけだよ」
「優等生ヅラしてんじゃねーよ」
天月の返答に間髪を入れず悪態をついたのは鳴桧だった。
「ふふ、相変わらず辛口だなぁ~」
蒼空が入寮初日に歌合をした寮長の天月は、六歌席の一人だった。
甲賀は天月が参戦してくれるのではと多少の期待を込めて様子を窺ったが、感情の読みとれない微笑みが返ってきただけだった。
「天月ちゃんのイチオシなら、印波ちゃん、燃えてきたんじゃないの~?」
葉蓮に呼ばれた男子生徒は、目を瞑り、腕組みをしていたが、その姿勢を崩さないままで原歌を詠んだ。
「世を棄てむ犬は狂へとのぼりつめ 滅ぶべき詩をもてあそび吠ゆ」
ガタイの良い印波には不釣りあいなほど、その原歌は繊細で、第一短歌部の面々は心がさざなみのように震えるのを感じる。感受性の高い生徒は薄っすらと目に涙さえ浮かべていた。
「あらら~。そっけないっすね~。玉串ちゃんはどうなの~?」
葉蓮はそんな印波の原歌を軽くあしらい、六歌席、最後の一人である女子生徒に声をかけた。
玉串と呼ばれたその生徒は、やわらかい絹の羽織りを肩にかけ直しながら、優しい笑顔で言う。
「ふふふ、困りましたわ。わたくしは苑紅ちゃんのこと、嫌いじゃありませんから」
「ちっ、博愛主義かよ」
鳴桧の呟きは玉串の耳にも届いたが、いつものことなのか、にこやかな笑みで返す。
雪嶺は涼しい表情のままでメンバー表をもう一度見つめた。
「第三短歌部の設立メンバーは、五人中三人が入学したての一年生。この三名は高等部からの編入で、一名は工藝棟の生徒。残りの二名は部活もしない怠惰な二年と、一時の感情から短歌部を落伍し、反旗を翻す伊勢苑紅」
そこまで言うと雪嶺は、甲賀を見た。その目は、氷でできた刃のように冷たく鋭い。
「甲賀先生、当然ながらこの程度のことで奥之院の六歌席が参戦することはできません。相応の者達で完膚なきまで叩き潰していただきたい」
「あ、ああ、わかっている……」
鋭い視線を直視できず、甲賀は俯きがちに答える。
「雪嶺部長! お願いです、私にやらせてください!」
汚名返上したいのか、茨刀が立ちあがり、右手をピシッと垂直に挙げる。その目はまだ赤く腫れていたが、闘志がみなぎっている。
「雑魚が雑魚の相手して、負けたらどうしてくれんの?」
鳴桧は茨刀に目もくれず、バサリと斬り捨てた。
茨刀はすがるような気持ちで顧問を見たが、甲賀は目を合わせない。雪嶺が口の端で笑っているのが見えて、茨刀は下ろした手を強く握りしめ、屈辱に耐えた。
「いっそ雑魚専の葉蓮が出れば話早いんじゃないの?」
「おっと~? 鳴桧ちゃんさ~、さっきからちょっと口が過ぎるんじゃな~い~?」
葉蓮は指をパキッと鳴らし、瞬時に全身から強い詠力を発した。
「は? あんた喧嘩売ってんの?」
鳴桧は伝冊を触る手を止めると、強い詠力を纏った。
二人の詠力は五十畳もの大広間ですら狭すぎると言わんばかりに空気をビリビリと震わせる。
六歌席からは離れた場所で整列しているはずの第一短歌部員たちは、一様に突き刺すような頭痛や耳鳴りを感じた。
「ま、待ちなさい! 葉蓮、鳴桧、一旦、落ち着こう、な?」
一触即発の二人の間に割って入るように制したのは甲賀だった。
顧問教諭の情けない声に興が削がれたのか、葉蓮は大げさに椅子にもたれかかり、鳴桧は「うざ」と呟いてから、また伝冊を触る手を動かしはじめた。二人の詠力は立ち消え、あたりには重い緊張だけが残る。
ただでさえ御しがたい六歌席が、小競りあいであっても詠力をぶつけあえば、大惨事に繋がりかねない。甲賀は肝を冷やした。
「衡也、前へ。大将は君だ」
雪嶺の声に、藍色装束のちょうど真ん中あたりに立っていた一人の生徒が「ハイッ!」と大きな返事をして前に歩み出る。苑紅が短歌部を辞めた日、第二短歌部の生徒に対して行き過ぎた「教化」を行っていた男子生徒だ。
「苑紅は俺の教化の邪魔をしやがったんでね、シメてやりますよ」
衡也は悪い笑みを浮かべ、原歌を詠んだ。
「北方に蠢く邪鬼を薙ぎ払う 右方に掲ぐ毘沙門の戟」
甲賀は原歌を聞き、内心安堵する。
衡也は苑紅との歌合では負けなしの実力者だ。それに加え個人的な怨恨は力を増強してくれる。六歌席を含めた戦略会議が始まってからようやく、甲賀の心に余裕が生まれた。
雪嶺は平然とした表情のまま、衡也を鼓舞する。
「衡也、その意気込み、結果で示すことを楽しみにしている」
「ハイッ!」
衡也は背筋を正し、腹に力を込めて返事をする。
雪嶺はその返事に形だけ頷き返し、それから眼下に並ぶ藍色の装束たちを眺めた。
「橋本 洲鳥、九条夜鹿、中務真砂経、永田 刈薦」
雪嶺に名を呼ばれた生徒たちが返事をして一歩、歩み出る。
「君たちに認定試験への参戦を任じる」
一筋縄ではいきそうにない四人の生徒は、しかし雪嶺の言葉に黙って耳を傾けている。
雪嶺はまた、氷のまなざしで一人ずつ刺すように見つめた。
「君達は全国屈指の歌人育成機関である雲雀倭歌学院の第一短歌部を背負って歌合に臨む必要がある。わかるな?」
「ハイッ!」
「“いい勝負”などと言われないよう、圧倒的な実力で愚かな異端児どもを駆逐してくれることを期待する」
「ありがとうございます!」
雪嶺の号令で第一短歌部員たち、全員がメンバー五人に対して拍手を送り、奥之院の大広間が熱気を帯びていた、その頃。
「琴葉! 時間がないから歩きながらウタの復習をするよ! ほら、さっきやったように、熱い歌心で火のウタを詠んでみて!」
「は、はいっ! えーと、えーと」
苑紅一行は倭歌棟の隠れ家に向かい、足早に廊下を進んでいた。
琴葉は中空を見つめ、短歌を考えている。
「あ! できました!」
「あっついな! ぶわっと火がでて ぶわわわわ! あちちあちあち! とっても困る!」
琴葉の原歌を聞いた苑紅は片手で頭を抱える。
「だぁあーーー!!! なんっだそれ! ほんと!!!」
「ダメですか……。ごめんなさい……」
「ガチの歌合でそんなの詠んでたら一瞬で封印されちまうよ! クソ、マジでヤバいぞ……!」
シュンとしおらしく肩をすぼめる琴葉を、蒼空がいたわるように見ていた。
しかし苑紅は第一短歌部の選手層の厚さを知っていた。到底、今の琴葉で叶うような相手ではない。
一勝はくれてやるしかないか……。
五試合中、過半数を勝利すれば設立が認められるのなら、あとのメンバーでカバーするしかない、苑紅はそう考えていた。
隠れ家に到着し、苑紅はウタを詠む。
『牙をむく海の潮目に漕ぎ出でむ 遊子に開くたまゆらの関』
いつもは反抗的な倭歌錠も、この時ばかりは苑紅たちに加勢しているのか、すぐに解錠された。
「こういう時は絶対開くんだよね……。ガチのサボりの時は開かないくせにさ……」
苑紅はボソッと呟き、背後にいる一年生二人を振り返った。
「あたしと福丸は歌装束に着替えるから、アンタたち一寸待ってて」
「了解っす」
絢爛装束部で歌装束に着替えたままの蒼空と琴葉は隠れ家の扉の前で待機する。
「え! 紅ちゃん、まさか一緒に着替えるのかい……?」
「あっち向いてろ! オラァ!」
「ギャッ!」
おそらく苑紅が福丸の尻を蹴りあげているのであろう音を聞きながら、一年生二人は自分たちの歌装束を改めて眺めていた。
「蒼空君はウタが上手くていいなあ」
琴葉がぽつりと言った。これまであまりネガティブなことを口にすることのなかった琴葉も試合を前に緊張しているのか、弱音を吐いた。
「私の短歌、真砂経君たちに馬鹿にされたし、最初の授業の原歌披露の時もみんなから笑われたし……。第二短歌部とか「教化」のことは変だと思うんだ。だから苑紅さんや皆のために頑張りたいけど、やっぱり今の私の実力じゃ無理なのかなぁ」
「うーん」
蒼空は返事に困ったが、思ったことをそのまま伝えることにした。
「勝つことも大事かもしんねーけどさ、琴葉はまず、歌合に出るってことに意味があんじゃねーの? 戦う時は一人だけどよ。でも俺たちチームだろ? だから、琴葉は琴葉なりに頑張れば、大丈夫だ」
蒼空の言葉を聞いて、琴葉は自分の歌装束を触りながら小さく頷いた。
「お待たせぃっ!」
着替えを済ませた二人が勢いよく扉を開いて出てくる。
福丸は、薄く透けるような素材の、パープルの長い羽織りの中に、天の川を写しとったような、黒地にラメの入ったシャツを着ている。動くと裾がなびいて、いつも以上の優雅さを演出した。
苑紅は胸にサラシ、下は黒のレギンスを穿いて、いつものドテラをバサリと羽織るだけの軽装だった。
「苑紅さん、そのドテラって歌装束だったんすか?」
「あぁ、これは特別なんだよ」
蒼空の問いかけに、苑紅は一瞬優しく笑い、気持ちを切り替えるように目に力を込めた。
「よし、もう十分前だ、聡詠館に行くよ!」
四人は拳を突きあげ、走り出した。
いよいよ第三短歌部の設立試験が始まる。苑紅たちはまだ見ぬ敵をそれぞれの心に描きながら聡詠館へと向かっていた。
廊下の角を曲がった直後、先頭を行く苑紅が急停止する。
「なんだ!?」
「どうしたんだ? って、何だこいつは?!」
苑紅たちの前には、全身に真っ赤な鎧を着こんだ鎧武者が立ちはだかっていた。
鎧武者の面具は鬼のような怒りの形相をしており、その下の表情は窺い知れない。
「甲賀のやつ、最後の最後まで邪魔しようってのか……!?」
鎧武者は一歩、一歩と近付いてきて、面具の鼻口の穴から赤い瘴気を漏らしている。
苑紅は腰に差した扇子を取り出し、後輩達を庇うように身構えた。
「タ……」
鎧武者はカタカタと震えながら苑紅を見据え、何か言わんとしている。
もう時間がないぞ、と福丸が苑紅の肩を叩いたとき、鎧武者の囁きが四人の耳に入った。
「タスケテ」




