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三十一文字物語  作者: 京屋 月々
第一章 雷乃発声
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第二十一話「千の一振り」

「先生が呼んでいる」と言う真砂経まさつねに連れられ、蒼空そらは廊下を歩いていた。


「真砂経、どこへ行くつもりだ?」

「黙ってついてこい」


 真砂経は蒼空を見ることもなく、足早に廊下を歩いていく。

 渡り廊下を抜けると、第一短歌部の道場「聡詠館そうえいかん」が見えてきた。

 入り口に着くと真砂経は振り返り、親指で中を指し示した。


「入れよ」


 四百畳ほどあるという広い場内では、藍色や白の装束を着た生徒たちが部活の準備を進めていた。

 真砂経が蒼空を、スーツを着た男性のところまで案内する。

 男は真砂経に、ご苦労、と声をかけ、蒼空に向き直った。


「君が草凪くさなぎ蒼空くんだね。私は第一短歌部、及び第二短歌部の顧問の甲賀こうがだ」

「どーもっす」


 甲賀は思いのほか朗らかな顔で話しかけてきたが、蒼空は内心、警戒しながら挨拶した。

 蒼空は甲賀に見覚えがあった。部活見学の時、歌合うたあわせ音頭おんどを取っていた神経質そうな教員だ。


「君は、短歌連たんかれん二年の伊勢いせ苑紅そのべににそそのかされて、第三短歌部設立のメンバーにされたんだってね」

「そそのかされたわけじゃないっすよ」

「ははは。彼女は学院でも有名な不良でね。断りきれなかったんじゃないかと心配したんだよ」

「いやー、どっちかっつーと俺が言い出しっぺみたいな感じっすね」


 そうかそうか、と甲賀はニコニコしながら答え、真砂経に目配せを送る。

 真砂経はニヤリと不敵に笑い、道場の奥へと歩いていった。

 甲賀は微笑みながら話を続ける。


「設立試験では歌合をする。一年生の授業ではまだ行っていないだろうが、歌合はとても過酷で危険だ。苑紅はとても思慮が浅いので、君に十分な説明をしなかっただろう」


 淡々とした口調で苑紅を悪く言う甲賀に、蒼空はムッとしたが、黙っていた。


「真砂経から聞いたところによると、君は少しウタが使えるそうじゃないか? でもね、少々のウタの知識では、かえって大怪我につながるのが歌合だ。だから今日は君に、少し歌合を体験してもらおうと思って準備していたんだよ」

「おい、草凪」


 呼ぶ声に振り返ると、真砂経が畳まれた白装束を両手に持っていた。


「着替えてこいよ」

「へー、これが例の白装束か。ありがとな」


 蒼空は装束を受けとり、案内された道場奥の更衣室へと向かおうとして、武具のかちあう金属的な音がしたのに釣られ、そちらを見やる。

 結界の張られた試合場で、藍色の装束を着た二人の生徒が、それぞれ日本刀と鎖鎌を持ち、歌合をしていた。


「彼らは第一短歌部の一年。二人とも、今日の君の試合相手だ」


 蒼空が歌合に目を奪われていると、甲賀が言った。


「二人? 二試合もするんすか?」

「いや、歌合はとても消耗するからね。一試合が限界だろう」


 甲賀はニタニタと、ぞっとするような笑みを浮かべ、続ける。


「古来より行われてきた歌人の修行方法でね、変則的に、二対一で歌合を行うんだ。ははは。安心したまえ。二人とも中等部での成績がよかった子たちだから、君に大怪我をさせるような危険な戦い方はしない」


 蒼空は真砂経に渡された白装束を持ちながら、以前、苑紅から教わった、「教化きょうか」という言葉を思い出していた。


「了解っす。着替えてきますね」


 蒼空は更衣室へと歩き出す。


 その頃、苑紅の隠れ家では、苑紅と福丸ふくまるが、琴葉ことはを見守っていた。

 琴葉はぎゅっと目を瞑り、意識を集中させている。


「いいぞ、そのまま頭に思い浮かべるんだ。「火」そして「熱」。熱い歌心うたごころで詠むんだ!」

「はい!」

「今だ!」


 『ゆらゆらと地獄の炎が立ち昇りはがねの釜を赤く熱する!』


 弱々しいながらも詠力陣えいりょくじんが現れる。

 光の粒子が火の粉となるのを、三人は期待と不安の両方を感じながら見守った。

 しばらくすると、コポ……コポポ……と水が沸騰ふっとうする小さな音が、琴葉の目の前にある鉄瓶てつびんから聞こえてきた。


「わぁ! できました!」

「上出来だ! よし、茶を飲むぞ」

「はい!」


 琴葉は喜々として、三つの湯呑にお茶を注いだ。


「なぁ、苑紅。琴葉にウタの特訓をするんじゃなかったのか……?」

「仕方ねぇだろ。ほとんど素人なんだからさ。それにお茶を入れるのも一年生の大事な仕事だ」


 三人はソファに座り、ズズ……とお茶を飲む。


「それにしても蒼空はおせーな! すぐ来るんじゃなかったのかよ!」


 苑紅はダンッと湯呑をテーブルに置くと、大きな声でそう言った。


「先生に呼ばれたって言ってたので、すぐ来ると思ったんですが……」

「先生って誰だよ?」

「え? 誰でしょう……? でも、真砂経くんがそう言ってたらしいので……」


 おいおい、と苑紅がソファから立ちあがった。


「真砂経に連れていかれたのか?! そんなの甲賀の差し金に決まってんじゃん!」

「えぇ……?!」

「甲賀のやつ、何を企んでるんだ……?」


 福丸も立ちあがり、首につけていたネックレスを外す。


「黒幕が甲賀であれば、検討はついているが……」


 福丸はネックレスを片手に持ち、十字型になった銀色のペンダントトップを下に垂らした。


 『幻惑のからす降り立つカルヴェール 受難の城に雛救う十字みち


 福丸の短歌に呼応して、垂らされた十字飾りの下に詠力陣が広がった。

 詠力陣は溶けるように十字飾りに吸いこまれ、くるくると回りはじめる。探るように力強くウネウネと動いたかと思うと、鎖をピンと張り、水平に一方向を示した。


「やっぱり聡詠館の方向か。やれやれ……。手のかかる一年だ」

「甲賀の野郎……! 蒼空に手ぇ出してたら許さねぇっ!」


 苑紅はソファに掛けてあったドテラを掴み、バサッと着込んだ。


 一方、聡詠館では、白装束に着替えた蒼空が道場に姿を見せたところだった。

 甲賀は不気味な笑みを顔に貼りつけたまま、部活の準備を進めていた生徒たちに声をかける。


「おーい、お前たち。最初に言っていた通り、部活の前にちょっと体験の歌合をするぞ」


 部員たちは甲賀のかけ声に、大きな声で返事をし、駆け足で試合場の周りに集まってきた。

 先に藍色の装束を着た生徒たちが、試合場を取り囲むように正座し、その後ろには蒼空と同じ、白装束を着た生徒たちが立ったままで整列した。

 甲賀はゆったりとした足取りで試合場のすぐ脇まで歩く。

 さっきまで練習試合をしていた二人が、開始線に並んで立っている。


「さあ、君、来たまえ」


 試合場の二人は、日本刀と鎖鎌くさりがまを持ったまま、ニヤニヤと蒼空を見ている。

 蒼空が試合場に入ると、藍色装束の生徒から、くすくすと含み笑いをする声が聞こえた。


「おや。更衣室に貸し出し用の基戎具もといじゅうぐがあったはずだが……?」

「あー、俺、武器は使わないんで」


 蒼空は開始線に立ち、軽く屈伸をした。


「先生、武器も使わないんじゃ、一瞬ですよ」


 鎖鎌を持った生徒が余裕の表情で甲賀に軽口を叩いた。


「ははは! 勇敢なことは良いことだ!」


 甲賀は微笑んでいたが、鋭い目で生徒の口を封じた。試合場に緊張が走る。


「よし、では……、始め!」


 開始の合図とともに、二人が武器を身構え、全身に詠力を纏った。蒼空も身構え、詠力を纏う。

 一人は刀を中段に構えた。もう一人は鎖鎌を片手に持ち、もう片方の手で鎖に繋がった分銅ふんどうを回しはじめる。


「おい、お前ら! この間の借りを返してやれよ!」


 真砂経が場内の二人にげきを飛ばした。

 蒼空は真砂経の言葉を聞いて、今一度、二人の顔をよく見る。


「あー、お前らか」


 琴葉が書いた原歌げんかの短冊を、真砂経が丸めて捨てた時、後ろで笑っていたのがこの二人だった。


「ちっ……。お前まさか忘れてたのかよ……」

「ははっ、悪い悪い」


 男子生徒は軽口で答える蒼空に歯ぎしりし、鎖鎌を前に突き出し短歌を詠んだ。


 『いかよ 大蛇のごとく渦を生み雷火の鎖 愚者のに落つ』


 刀を持つ生徒も、合わせたように詠歌えいかする。


 『我が剣にたぎる大義の神炎は邪鬼を裂くべく大地を走る』


 蒼空は、二人同時に詠歌されるのが初めてだったため、返歌が合わせられず、ひとまず間合いを取ることにした。

 鎖鎌の先で回る分銅が白い光を放ち、詠力紋えいりょくもんがバチバチと飛び散りはじめる。その対角線上で、もう一人の生徒が持つ刀刃とうじんが炎に包まれた。

 二人は蒼空に逃げ道を与えず、ジリジリと近付いてくる。

 まだ刀の間合いに入っていないうちから、下から地面を斬るように刀が振りあげられる。刀刃の炎が試合場の地面を伝わり、蒼空に向けて一直線に走ってくる。

 素早く横に移動し、走る炎を躱すと、目の端で稲妻が走った。


「おっと」


 間一髪、稲妻を避けた蒼空は後方に跳ね、身構える。


「ははは! いい動きをしてるじゃないか!」


 甲賀が試合場の外で腕を組み、笑っている。

 バチバチと放電している分銅は、波打ちながら、鎖鎌の生徒の手元に戻っていった。


「次は逃がさねぇぜ」


 二人は再びフォーメーションを組み、対角線上から蒼空にゆっくりと近付く。

 今度は蒼空が両手を合わせ、先んじて詠歌した。


 『光なき霧中の森の地を出でしくぬぎの幹は凛々(りり)としたりき』


 眼前に五句体ごくたいが現れ、すぐに形を崩すと、蒼空の周りを漂う白い霧となった。


「そんな目くらましが効くかよ! 喰らえっ!」


 再び刀を持った生徒が蒼空に向かって地面を斬りつけると、炎の壁が高速で走った。

 白い霧の中で、蒼空は迫る炎を避けた。

 刹那せつな、分銅が投げられる。分銅は空中で稲妻となり、猛烈な勢いで蒼空を襲った。

 霧が濃く、様子を窺えないものの、稲妻の鎖が獲物を捉えた感触がはっきりとある。ぐるぐると巻きついた鎖は、猛烈な勢いで放電を始める。


「ははっ! 今だ!」


 刀を持った生徒が、身動きの取れない蒼空の、剥き出しになった腹部を横薙よこなぎに斬りつけた。斬撃ざんげきは見事に蒼空を捉え、腹に深く刀身とうしんが食いこむ。


「決まった!」


 試合場を取り囲む藍色装束の一人が声をあげた。

 と、次の瞬間。蒼空を斬りつけたはずの少年が、地面と平行に吹き飛んだ。

 手には刀もなく、丸腰の少年は五メートルほど離れた場所で思い切り尻を強打した。


「え?!」


 鎖鎌の少年は狼狽うろたえた。分銅の鎖はずっしりと重く、獲物がかかっている感触に間違いはない。

 焦げついた匂いがあたりに立ちこめている。白い霧が晴れていくと、放電の終わった分銅の鎖には、人の形に似た樹の幹ががっちりと絡みついていた。幹は少し焦げており、その中央に刀が突き刺さっている。


「くそっ」


 濃い霧が立ちこめている間、蒼空は樹木の下に身をかがめつつ、隙だらけだった刀の少年を、ただ力いっぱい蹴り飛ばしたのだ。


「面白れぇなー、二対一!!」


 蒼空は「教化」という歪んだ教育を身をもって体験し憤りを覚えつつ、二対一という明らかに不利な勝負に興奮も感じていた。

 鎖鎌の生徒は苛立たしげに鎖を引っ張るが、強く幹に絡みついているせいでびくともしない。蒼空は分銅を握りしめ、素早く短歌を詠んだ。


 『益荒男ますらおおのが尾を噛む聖蛇へびなりて 栄えたごとく萎える渦雷うずらい


「あいつ、ウロボロスの返歌のつもりか……?」


 真砂経が場外でギリリと歯噛みする。


「おい! 触るんじゃねえよ!」

「わかった! 返すよ!」


 蒼空は分銅をぱっと離し、鎖鎌の持ち主に向かって笑顔を見せた。

 バチバチと弾ける詠力紋を帯びた分銅が、幹に巻き付いた方向と逆に回転しはじめる。


「逃げろっ!」


 切迫した真砂経の声で、少年は自分の武器であるはずの鎖鎌の異変に気付く。しかし、少年が受け身を取るよりも早く、分銅は放電しながら高速回転し、そのまま稲妻となり放たれた。


「あっ」


 稲妻は避ける間もなく鎖鎌の少年の額に直撃した。

 分銅の衝撃と稲妻をまともに受けた少年は頭をらせ、そのまま地面に仰向けに倒れる。直後、額に青い「封」の文字が浮かびあがった。


「おー、これが封印かぁ」


 ウタで現れた樹木は、役目を終えたとばかりに白い粒子となって霧散し、幹にめりこんでいた刀がガランと音を立てて地面に落ちた。

 蒼空は刀を拾うと、先程蹴り飛ばした少年に向き直る。

 尻を打った生徒は立ちあがり態勢を整えつつ、鎖鎌の少年が倒れる様子を見ていた。二人の間にはまだ五メートルほどの距離がある。


「ちっ、調子乗ってんじゃねぇぞ……」


 丸腰の少年が毒づきながら刀を取り返そうと身構えたとき、蒼空が刀を胸の前に置き、短歌を詠んだ。


 『果てのない虚空へ向かう一振りは 「一」にして千 「千」にして一』


 刀は詠力を帯び、白く光りはじめる。


「ほらよ」


 蒼空が刀を大きく放り投げた。

 五メートルの距離を、刀は放物線を描きながら少年の元へと返っていく。


「こいつ……!」


 少年は何かを察したのか、刀から距離を取りはじめる。しかし、刀は空中でくるりと向きを変えると、さきを少年に向けて静止し、ブゥゥンと音を立て無数に分身した。


「くそっ……!」


 空中に浮かんだ無数の刀は、逃げ惑う少年めがけ、一直線に落下しはじめる。刀の落下は加速度的に速くなり、少年は身動きが取れないまま悲鳴をあげ、恐怖のあまり尻餅をついた。

 無数の刀は、少年の脇、腕、足の間など、体の輪郭をなぞるように垂直に地面に突き刺さった。

 少年は青ざめ、戦意喪失したばかりでなく、意識を失う寸前まで追い詰められた。

 試合場にいる全ての人間が、言葉を失ってその光景を見ていた。

 蒼空はふぅとひと息つくと、両手を頭の後ろで組み、やれやれという表情で試合場を降りようとする。


「き……きみ! 草凪くん!」


 思わず甲賀が蒼空に声をかけた。


「え? あー、やっぱ封印しないとダメなのか。しょうがねぇなぁー」


 蒼空がきびすを返し、指を鳴らしながら、無数の刀に縛りつけられている少年の元へ向かおうとした。

 少年は近付こうとする蒼空を見て、恐怖に震え、声にならない叫びをあげる。


「いや! いいんだ! 草凪君、待ちたまえ!」

「ん?」


 蒼空が向き直ると、甲賀は蒼空の両肩に手を置いた。


「草凪君、いや、蒼空くん! 君ほどの逸材が苑紅の部などにいては宝の持ち腐れだ。君が第一短歌部に入れば、すぐにも選抜メンバー入りを果たし、この国を牽引けんいんするような歌人へと育成することができる。どうだ? 今ならまだ第一短歌部に君を受けいれることができるが……?」

「はい?」


 甲賀の熱のこもった勧誘に、蒼空は困惑の顔を浮かべ、そして微笑んだ。


「俺、第三短歌部に入るって決めてるんで。設立試験、楽しみにしてますよ」


 蒼空は試合場をあとにし、颯爽さっそうと更衣室に向かった。

 甲賀はその後ろ姿を呆然と見送った。

 試合場では白い腕章をつけた部員たちが、二対一にもかかわらず、蒼空に惨敗した二人の生徒の治療を行っている。

 そのとき、張り詰めた空気を裂くように、外から騒々しい声が聞こえた。


「やっぱり聡詠館か!」

「……あのヤローッ」


 バンッ! と、入り口の扉を思い切り叩いて開く音が響く。


「蒼空!」


 苑紅は道場内に上がりこみ、学生たちが一つの試合場に集まっているのを見て、そちらへ向かった。後ろから、手に十字型のネックレスを持った福丸と、琴葉が続いてくる。

 歌合が終わったらしい試合場では、二人の学生がともに治療を受けている。その様子をいぶかしげに睨んでから、苑紅は甲賀に詰め寄った。


「おい、蒼空はどこだよ!?」


 苑紅は、甲賀の顔がいつもより青ざめていることに気付き、妙だと思った。以前まで同じ部活の部員だった顔ぶれも、何となく皆、何か怖いものでも見たような顔で、黙りこんでいる。

 異様な気配が道場内に満ちていて、苑紅がさらに甲賀へ食ってかかろうとしたとき、奥から蒼空が歩いてきた。


「苑紅さーん!」

「蒼空!!」


 苑紅と福丸、琴葉は、蒼空の元へ駆け寄り心配そうな顔で見つめた。


「お前、大丈夫だったのかよ?!」

「いやー、久々に興奮しましたわ! あ、でも天月さんとの歌遊びも良かったな……」

「は? お前、何があったんだよ?!」

「今度の設立試験のために、特訓してもらったんすよ」

「えぇ……?!」


 苑紅はもう一度、治療を受けている二人の学生を見た。

 蒼空は小走りで真砂経に近付くと、「ほい」と丁寧に畳んだ白装束を渡した。

 真砂経は小さく舌打ちをし、奪い取るように装束を受けとった。


「お前、せっかくの甲賀先生のお誘いを断るなんて、いずれ後悔するぞ」


 憎々しげに言う真砂経に、蒼空はニコッと笑顔を返した。

 甲賀がゆっくりと苑紅に近付いてくる。努めて笑顔を浮かべているが、先ほどからの妙な顔色の悪さは変わらないままだ。


「苑紅」


 呼ばれた苑紅はほとんど反射的に、甲賀をキッと睨みつける。


「設立届は受け取った。第三短歌部の設立試験は、本日ここ聡詠館にて一七時より行う」

「はぁ!? あと一時間しかないじゃん?!」

「参加できないなら届けは棄却する」

「そうは言ってねぇだろ!」


 甲賀のやり口の汚さに、苑紅は短歌部を退部したときの出来事を思い出し、頭に血がのぼるのを感じる。


「試験は正式な歌合と同じ形式で行う。つまり、歌装束のない生徒は参加不可だ。もちろん、準備はしているはずだね?」


 はらわたが煮えるほど頭にきていたが、苑紅は返事ができず、ギリ、と歯を噛みしめる。福丸、蒼空、琴葉も反論できず、苑紅の後ろ姿を不安げに見守ることしかできない。

 その様子を見て、甲賀は青い顔に、ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべた。


「人数さえ揃えて、歌装束があればいいんだろ!」

「そうだ。もしどちらかが揃わなければ、その時点で設立を否認する。その場合、二度と届けを受理することはできんからな。念入りに準備をしておくように」


 甲賀は一瞬、目だけで蒼空を見ると、両手を叩きながら部員たちに練習開始のかけ声をあげた。


 残された第三短歌部メンバーは聡詠館を後にした。

 道場を出て数歩先で、苑紅が思わず立ちどまる。


「一時間後なんて、間に合うわけないじゃん…………。クソッ……」


 苦渋に満ちた声に、誰もかける言葉が見つからなかった。



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