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第26話 王都開城


「この、憎らしいクリスめが。どうやって王宮に忍び込んだか! 恩知らずの小僧よ。育ての親たる継母に剣を向けるとは!」

 恐ろしいほどに、憎しみと怒りと恨みに満ちた視線で、椅子の上の王妃はクリシュナを睨んでいた。しかしすぐに、怯えの色が瞳に浮かぶ。王妃に剣を突きつけている兵の手が少し動いたのだ。度胸はあまりないようだ。

「義母上。もし貴女が、今、この場で、私をクリスと呼ばずに、クリシュナの名を騙る偽者と叫ぶくらいの知恵をもっていたなら、私が今ここに立つことは、貴女の前にこうして立つことは、なかったでしょうに」

 哀れみを感じさせる言葉に、哀れむ感情は入っていないようだった。クリシュナは続けた。「貴女は本当に、ただ我が子を愛することに純粋過ぎた。息子にとって、王位につくことが幸福だと思う愚かな義母上。私はこの国が平和で、民が安心して暮らせていれば、ここには戻らなかった。そうしていれば、あの子はいずれ王になっていたでしょう」

「ここは私の国だ! 帝都へ去った者の国ではない!」

「その国には、貴女しか生きていないのです。もともと私は王位が誰のものになろうと、そんなことは気にならなかった。帝都へ去った者、まさにその通りです。乱れた国の王位に幸福があると考える愚かな義母上。そこには無数の不幸が溢れているだけです。私が帝都を離れて貴女の前に立ったのは、貴女が政道を乱したからです。つまり、貴女が私を本気にさせて、貴女が私をここに立たせたのです。私がここに立つのは、それがこの国の民のためだと考えたからです」

「知ったような口をたたくな」

「もし貴女が外壁を守る兵たちを励まそうとして、王宮の外にいたなら、このようにはならなかった。また、そのような大切なことを貴女に知らせる重臣がいたなら。そして貴女にそのような助言を聞く心があったなら。やはり、このようにはならなかった」

「この、この、恩知らずの恥知らずめが!」

「義母上…」

 クリシュナの言葉を遮るように、謁見の間の正面入口から、たくさんの足音が響いてきた。

「ほほほほほ、衛兵が来たわ。クリス、今ならまだ死罪だけは許しましょう。私を義母と呼ぶその心に免じて、一生を牢で過ごすようにしてあげます。さあ、この剣を引かせなさい」

 さらに剣を向けられ、怯えながら王妃がもう一度言った。「この剣を引かせなさい」

「義母上。あの足音は衛兵ではありません。あれは私の兵です。この王宮に、貴女に従う兵はいませんよ。王都の兵はみな、外壁を守っています。貴女を守っているわけではない。この王都を守っているのです」

 クリシュナの言った通り、ガゼルが二十人の兵と四人の騎士を連れて、謁見の間に入ってきた。王妃の顔がさっと青ざめた。

 クリシュナが王妃から視線を外し、騎士たちを振り返った。騎士も、クリシュナを見つめ返す。その中の年長者らしい一人が、一歩前に出た。王子の兵が王妃に剣を突きつけているというのに、騎士たちには動揺も見られない。騎士たちは王家に仕え、その忠誠は何があっても揺るがないという。王家内部の争いに関心がないという証なのかもしれない。

 しかし、王家内部の争いに加担しないという態度がここまで徹底されているのは奇妙な気がした。クリシュナが王家の争いでの勝者になったから、クリシュナに従う。たとえクリシュナがこの場で王妃を殺していたとしても、騎士たちは動じなかっただろう。それは本当に人として正しいのか。

「騎士団長ネイサムか」

「ネイサムにございます、殿下」

 年長者らしい騎士が丁重に返事をした。王妃を一瞥すらしない。

「先王ダーナラスの第二王子クリシュナが命じる。王都の守備兵を外壁から降ろし、城門を開け。内乱での流血は私の望むところではない。王家の争いも、王妃の政務代行も、今、終わった。剣誓の儀をもって新たなアイステリアの王を定めよ」

「ははっ!」

 騎士団長ネイサムが膝をついてクリシュナを見上げた。他の騎士たちもそれに続く。「王家の争いを治められたこと、お喜び申し上げる。王都はすぐ開城し、もはや血は流れぬでしょう。帝都よりのご帰還、お祝い申し上げる」

 騎士団長はそう言うと立ち上がり、急ぎ足で他の騎士たちを引き連れて謁見の間を後にした。

 いつの間にか、王妃は失禁していた。薄い黄色の水分が床に広がり、鼻をつく臭いがした。わなわなと王妃の唇がふるえ、充血し始めた目が飛び出そうなくらい、王妃はクリシュナを睨んでいる。

 クリシュナはもう継母を振り返らなかった。

 まるで、もう過去のことだとでも言うように。

 私は、王妃を見つめた。高い鼻。深い碧の瞳。目尻と額のしわ。小さめの耳。血の気の失せた頬。赤さの薄い唇。丸い顎。細い首筋。昔、王がまだ隣にいた頃は、さぞ美しかったのだろう。何歳なのかはよく分からないが、歳を取った今でも、美しいと思う。しかし、魅力的かと言えば、そうではない。何か、恐ろしいもの、狂気のようなものを感じる。

 ずっと、この人は自分自身を追い詰めてきたのではないだろうか。王位というものにとらわれて、そこから逃れられなかったのではないだろうか。

 王位という権力者の地位には、何か、私のような者には想像できない恐ろしい怨念でもあるのではないだろうか。

 私は今までずっと、玉座にいるクリシュナの姿を光輝くものとしてとらえ、心に描いてきた。実際に描いたとしても、心にあるものと変わらないだろう。

 しかし、現実にクリシュナが王となった時、クリシュナが、この王妃のようにはならないとしても、王位という特殊な地位に心惑い、私や私たちの知るクリシュナから変わってしまうことがないと本当に言い切れるのだろうか。

 そう考えて、私は苦笑した。たとえ王位がどのように恐ろしいものだったとしても、私たちはクリシュナを信じ、クリシュナに従い、ついて行くしかないのだ。

 突然、頭の中に疑問が湧いた。

 いや、それだけではないかもしれない。

 私の中で、何かが花を開こうとしていた。

 王位についたクリシュナだからこそ、私がクリシュナに対してできることがあるのではないか。私がクリシュナのために絵を描くことで、クリシュナを王位という恐ろしい呪縛から救い出すことができるのではないか。

 王妃の椅子の座ったまま震えている王妃を見ていたら、何故だか分からないが、私にはそういう役割があるのではないかと感じた。


 騎士たちが門を開き、クリシュナ軍は王都を占領した。血は一滴も流れなかった。蛮行もなかった。クリシュナ軍は、正義の軍としての威容を示していた。

 そしてクリシュナは王都でも、住人全員に食糧を配布した。

 翌日、重臣たちの前で、十人の騎士がそろってクリシュナに剣を捧げた。剣誓の儀である。クリシュナはついに、アイステリアの王となったのである。

 その日の夕方、王妃はクリシュナから毒杯を手渡され、それを飲んで死んだ。何も言わず、ただ、少しだけ笑顔になって、王妃は柩の中にいた。その時、クリシュナは初めて、王妃に対する感情を表に出した。それは一瞬のことだったが、私は見逃さなかった。哀しさのような愛情だろうかと私は思った。人前で見せることのできない、敵である義母に対する、クリシュナだけの特別な思いがあったのかもしれない。

 クリシュナの治世はこうして幕を開けた。








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