下
「帰りたければ帰るといい。だけどな、俺は追いかけるぞ」
神妙な顔をしてそう言い出したのはベレオスさんだ。
私はギーフォアさんと顔を見合わせた。
「誰も帰るだなんて言ってませんよ」
ギーフォアさんがちょっと拗ねたように言う。
「別に強制じゃない。勇者がいないこの状況で進むのがどれだけの危険を伴うか、分からないわけじゃないだろ」
「心外ですね。そんな薄情者に見えますか」
わざとらしく頬を膨らませるギーフォアさんに笑いが漏れる。
「正直自殺行為に等しい。それでもお前達はついてくるつもりか?」
ベレオスさんがいつになく真剣な顔で訊いてくる。
……私は、信じられるものが何もないこの世界で、ボロ雑巾のように使い捨てられることが怖かった。
“聖女”として利用されるだけされて、使えなくなってしまったら、誰にも見向きもされず捨てられるんじゃないか。
この世界では、私は“聖女”以外の何者でもなくて、私という者に価値はないから。
―――でも、勇者だけは私のことを、知ろうとしてくれたから。
「連れて行ってください、ベレオスさん。私もイズの後を追います」
「……やっぱそうこないとな!」
三人でニヤリと微笑み合う。
勇者が私を受け入れなくなってしまったら。
(勇者に会うのが怖い)
それでも、他でもなく勇者の為なら……。
決死の覚悟で再開した旅は、呆気ないほど順調だった。
勇者は進行方向の魔物を殲滅しながら物凄い勢いで進んでいるようで、私達の前に立ちはだかってくる魔物はほぼいない。
勢いからして殆ど休憩もとっていないんじゃないかって、ギーフォアさんが呆れたようにぼやく。
進んでも進んでも勇者に追いつく様子はなくて、気持ちばかりが焦っていく。
やっと勇者に追いついた時には、彼は既に魔王と交戦している最中だった。
久しぶりに見た勇者は、凄惨な姿になっていた。
左手は二の腕から下が無くなり、右目は潰れて化膿している。
全身どこもかしこも怪我だらけで、それでも彼はただひたすらに聖剣を振り回していた。
ギラギラ光る左目だけが、別れる前の勇者を思い起こさせる。
「聖女さま、回復を!」
ギーフォアさんに言われて、慌てて呪文を唱える。
「“最大限の回復”を!」
その瞬間目が潰れそうなほど強烈な光が打ち上がり、爆発音を轟かせながら四散する。
「何、これ……」
強い酩酊感にも似た目眩に襲われて、地面へと倒れ込んだ。
「聖女さま!」
力強い腕に抱き起こされる。
別れた時と何一つ変わらない姿のイズが抱えてくれていた。
「何故、ここに……」
再会したイズはあまり嬉しくなさそうで、心がズンと重くなる。
「イズ……」
「あれが魔王か?」
大剣を構えながら、ベレオスが顎でしゃくった先。
そこには見渡す限りの大地に蠢く闇が広がっていた。
イズはコクリと頷く。
「生贄となったこの都市で息衝いていた、ありとあらゆる生命の残骸。その集合体の“魔王”だ」
「こんなのを一人でなんて……死ぬ気かよ?」
見上げたイズの瞳は光を失ってなくて。
「死ぬつもりなんてないよ。時間はちょっとかかるだろうけど、ちゃんと最後まで成し遂げる」
イズも再び聖剣を構える。
「聖女さまはもう馬車に隠れていて。君は僕が最後まで守る。だから」
僕のこと、信用して。
チラリと振り返った真っ青な目は出会った頃と同じだった。
すぐにニコリと笑顔の中に隠れてしまったけど、いつでも安心させるように力強い輝きに満ちているその瞳。
イズはベレオスさんと共に再び闇の海へと突進していった。
「聖女さま」
二人は滅多打ちにしながら、闇の海を突き進んで行く。
そんな二人の様子に視線を遣りながら、ギーフォアさんが近付いてきた。
「今まで黙っていたことを許してください」
ギーフォアさんは私の目を避けてるみたいだった。
「聖女さまの力は、癒やしの力。全ての人を癒やし、大地を癒やし、疲弊した生命を癒やす」
「それは……」
「貴方であれば、魔王を癒やすことはできます。でも、勇者はそれを良しとしなかった。貴方に真実を話すことを固く拒み、その力を使うのを禁じた。私は何故、勇者がそんなにも頑ななのか不思議だったのですが……先程の様子で確信しました。聖女さまの癒やしの力の正体は、その輝く命そのものなのですね」
ギーフォアさんは少しの間、瞼を閉じて唇を噛み締めていた。
「それを承知でお願いします」
やがてギーフォアさんがゆっくりと崩折れるようにしゃがみ込み、縋り付くように地面におでこを擦り付ける。
長くて真っ直ぐな銀の髪が、地面の上へくたりと流れ落ちた。
「その力をどうか使っていただけませんか。この世界を救う為に、魔王を癒やして……いただきたいのです」
私は勇者を見ていた。
闇の海に呑まれながらも輝く聖剣を振りかざし、決して引かないその後ろ姿を。
傷付いても傷付いても、頓着することなく前を見据えるその姿を。
―――私は、結局最後まで勇者を信じることが出来なかった。
「“闇の海に、救済を。勇者イズの為に、平穏を捧げます”」
言ったそばから体の力が抜けていく。
キラキラ光る視界の中で、イズが驚いたようにこっちを振り返るのが分かった。
力の入らない体を、ギーフォアさんが支えてくれる。
何も苦しいことはない。
ただ満足感に陶酔して、そのまま気持ちのよい眠りの波が襲ってくる。
ゆっくりと瞼を閉じる。
私は結局、この世界にボロ雑巾のように使い捨てにされてしまったわけだが。
他の誰でもなくイズのために自ら選択して得た結末なら、まぁいっかと思えてしまったと言うのが、ここまでの話になる。
光が、眩しい。
さて、私は今どうなっているのか。
意識があるということは、生きている……ということでいいのか?
やけに重い瞼を持ち上げると、覗き込む真っ青な瞳と目が合った。
「っ……!」
「聖女さま」
イズは暫くこちらを覗き込むように見つめていたが、やがて泣きそうな顔で笑った。
「聖女さまの、名前を教えて?」
「……わたしの、名前は」
小さく呟いた言葉を拾って、イズはくしゃりと顔を歪めた。
見たこともない、随分と不格好な笑顔だった。
「おかえり、ノゾミ」
「ただいま、イズ」
イズは恐る恐るといったように両手を伸ばしてきて、そっと頬に触れてくる。
「君は、僕を信用しなかった」
ポツリとこぼされた言葉に苦笑する。
「イズこそ、私のことずっと信用してなかった」
イズの手に力が籠もる。
「なら、これから君のこと信用する。もう隠し事なんてしない。だから君も、これからの僕を信用して」
近付いてくる顔、囁くような小さい声。
「ずっと、そばにいて」
この世界の全てを信用できないなんて思っていたけど。
柔らかな唇を押し当てた途端に、顔をくしゃくしゃにして涙を流しはじめた目の前の男の事は、信じてみてもいいかもしれない。
孤独な子供のような、老獪な戦士のようなちぐはぐな青年、イズ。
彼もきっと、自分しか信じられなかったことに苦しんでいたのだろうから。
ただのイズとただの私。
お互いを知る口付けを交わして、さぁ一歩踏み出そう。




