上
この世界に召喚されたのは、朝食を食べている時だった。
なんの前触れもなく、安物のモスグリーンのカーペットの上に突然光の線が浮かび上がってきて。
光の線はあっという間にいくつもの幾何学模様を描き、呆気に取られている私を囲う。
そして光に包まれたと思った後には冷たい石床の上で座り込んでいた。
周りには映画の世界のような鎧を着込んだ人やローブを纏った人達が何か喚きながらひしめき合っていて、状況が理解出来ないながらに、とにかくやばい事に巻き込まれたんだと動悸がしたのを覚えている。
「よく来てくれた、癒やしの聖女よ」
目の前のひしめき合ってる集団から、一人身なりの良い王様っぽい男性が出てきて偉そうに話しかけてくる。
「私はここアデラルド王国を統べる第二十三代国王、アラノールだ」
自称王様は煩わしそうな顔を隠しもせず、私に向かって言い放った。
「癒やしの聖女よ、その力で勇者を助け、この世界に平和をもたらしてくれ」
何を言ってるんだ、このおっさんは。
もしかしてヤバい奴に拉致られた?
クスリかなんか決めてんのか。
頭の中では逃げなきゃって警報がガンガン鳴ってるのに、どうしたらいいのかまるで分からなくてピクリとも動けなかった。
そんな座り込んだまま呆然と見上げるばかりの私におっさんはイラついたのか、舌打ちされると「癒やしの力を見せてみよ」と睨みつけられる。
「えっ……」
癒やしの力……?
クスリか何かの別名だろうか。
そうだとしてもじゃあどうすればこの場を凌げるのか、てんで分からない。
少しも反応を返さない私に焦れたのか、おっさんが後ろに控えていた人に合図する。
一体何キロあるんだろうって鎧を着込んだ人が前に出てきて、見せつけるように剣を抜く。
その刃先を私に突きつけて、王様はもう一度繰り返した。
「癒やしの力を見せよ」
ギュンと頭の血が引いていって、目元がチカチカした。
全身の毛穴がブワっとひらいて、額から落ちてきた冷汗が目に入る。
呼吸が浅くなって息ができない。
どんなに見つめても剣は微動だにせず、私に突きつけられているままだ。
血の気のない脳じゃまともに考えることも出来なくて。
焦れに焦れた王様が騎士に何か合図を出そうとした時だ。
「こんにちは、癒やしの聖女さま。僕は勇者イズです」
金髪に、真っ青な瞳。爽やかな笑顔を浮かべたイケメンが騎士を押しのけて前へと出てきた。
イケメンは膝をつくと私の手を握り、そっと囁いてくる。
「……何でもいいから、それっぽいこと唱えて」
握られた手に力が籠もる。
間近にある硝子玉みたいな瞳を見上げれば、力強く微笑み返される。
「それっぽい、こと」
「うん、何でも。祈りの言葉でもいいから」
祈りの言葉と聞いて、咄嗟に浮かんだのがその言葉だった。
「―――アーメン」
別にキリスト教信者ってわけじゃない。
ただ思いついた言葉を呟いただけだ。
だけど握られた両手からは途端に眩しい光が溢れ出してきて、その光は真っ直ぐ上へと打ち上がっていく。
光は頭上で弾けるようにして飛散して消えていった。
跡には残滓がキラキラと舞い降りている。
「―――間違いありません。癒やしの聖女です」
勇者は立ち上がった。騎士が剣をしまうのが見えて、体中から力が抜けていく。
「丁重に饗すように」
おっさんは最後まで偉そうに指示すると、私に一瞥をくれて立ち去っていった。
これが、私が聖女と呼ばれるようになった始まりだ。
この世界は私に優しくも厳しくもなかった。
衣食住は保証されているし、一般常識なども尋ねればきちんと教えてもらえる。
けど、異世界人として明らかに距離を置かれているのが分かる。
世話をしてくれるメイドさんとは必要最低限しか会話を交わさないし、そのメイドさんも呼ばないと部屋に来ない。
私はずっと部屋に一人放置だ。
訪ねてくれる人などあの勇者しかいない。
……そう、何故かあの勇者だけは私を気にかけて、マメに訪ねてきてくれた。
「こんにちは、聖女さま」
ノックがして扉を開けると、いつも爽やかな笑顔を惜しげもなく晒して勇者がそこに立っている。
「今日は何をしていたの?」
いつも同じ問いかけ。
部屋に招き入れると慣れた様子でお茶まで入れてくれるのも、いつもと変わらない。
「イズが持ってきてくれた絵本を読んでたよ」
「もう読めるようになったんだ。聖女さまはすごいね」
「他にすることがないから……」
イズは私の前にコトリとお茶を置くと、青い目を煌めかせた。
「それなら、明日はお城の庭園に出かけてみようか。僕が案内するよ」
勇者は私のことに興味をもってくれて、色々と尋ねてくれる。
どんな他愛のない話でもニコニコしながら聞いてくれて、楽しそうに笑ってくれる。
私はその笑顔を見る度に絆されそうになっているのを自覚するのだ。
(しっかりしろ。これだけのイケメンが何の理由もなく私に親切にするか?)
その度に、警戒心が叱咤してくる。
こんなに都合のいい世界があるか?
聖女とは言われるものの何をすることもなく、出会って間もない好青年は驚く程に優しい。
―――そんなわけないだろう。
大方あの偉そうな国王から、私をしっかり懐柔するよう言われているに違いない。
現に、かなりの頻度で部屋に二人きりになっているのにメイドさんたちも皆知らないフリだ。
(絆されたら、終わりだ)
聖女の力とやらを何に使うのかは知らないが、搾取し尽くされボロ切れのように捨てられる未来なんか迎えたくない。
彼と笑顔で談笑しながらも、警戒心を忘れるなと自分を戒める。
そんな優しい笑顔の勇者への不信感が強くなったのは、王様に謁見の間に呼び出された時だった。
「勇者一同よ、時はきた。今こそ魔王を浄化するために、その一歩を踏み出すのだ!」
跪いた姿勢のまま、横目でチラリと盗み見る。
謁見の間には私と勇者、そして見知らぬ二人も同じように跪いていた。
「……ところで勇者よ、聖女にはきちんと話をしたのであろうな?」
勇者は顔を上げ、いつもの爽やかな笑みを浮かべる。
「勿論です、陛下。不備なく進んでおります」
戸惑ったままの私の頭上で、話はどんどん進んでいく。
「それならばいいが……聖女の様子だと本当にわかっておるのか、怪しいが」
「ご心配要りません。全ては平和のために、恙無く」
「……フン」
おっさんは追い払うように手を振った。
勇者に手を引っ張られ、それが退出の合図だと気付く。
「ねぇイズ、さっき王様の言ってたこと……」
そのまま廊下まで先導するように手を繋いでくれた勇者に、自分から話しかけたのはこの時が初めてだったか。
勇者は立ち止まると、一拍おいてこちらを振り返った。
その顔に浮かぶのは、いつもと変わらない笑顔。
「聖女さまは、何も心配しなくていい」
握られた手に力が籠もる。
「ちょっと旅に出なきゃいけないんだけど、僕と一緒だからね。君の事は僕が守るから」
私は……勇者に得体の知れない恐怖を感じた。
だって私、何も説明受けてない。
魔王とか勇者とか、意図的なものを感じるくらい誰も説明してくれなかった。
癒やしの力なんてのを使ったのも、ここに来た時の一回だけだし。
私はただ、自分の現況を把握しなきゃいけなくて説明してほしいだけなのに。
目の前の勇者は僕が守るの一点張りだ。
不信感を顕にした私に気付いたのか、勇者は反対の手でぽりぽりと頭をかく。
「聖女さま、お願いだよ。僕に全てを任せて、ね?」
笑いかけてきた勇者に、私は笑顔を返せなかった。
それから急に旅の準備で忙しいと、勇者はぱったり訪れなくなった。
次に顔を合わせたのはあろうことか出立日当日だ。
その場には謁見の間にいたあの二人がいて、この時にやっと旅のメンバーだったことに気がつく。
「……おいおいその格好、本当に旅に出る気あんのかよ?」
私を見るなり目つきを鋭くして声を上げたのは焦げ茶の髪の大柄な男性。
装備からして剣士っぽい。
「これはまぁ……とんだ聖女さまですね」
もう一人は真っ直ぐな銀の髪が素敵な美人さんだ。
こっちはローブと杖を持っているところからして魔術師か?
何にしろ歓迎されていないことは私にでも分かる。
二人に気圧されて思わず後退った私を、誰かが後ろから支えた。
「気にしなくていいよ」
バカみたいに笑顔を振りまいている勇者だった。
「聖女さまはずっと馬車で寛いでいてもらうから。他のことは全部僕たちがする。何も問題はない」
「「はぁ?」」
素っ頓狂な二人の声が響く。
「何言ってんだテメェ。この旅の目的を忘れたか? まさか、逃げようってわけじゃねぇだろうな」
「アホらしくて話にならない。馬車に乗ったままでどうやって魔王を倒すというのです。こんな茶番が続くなら、私は降りさせてもらいますけど」
頭に血が上り、握り締めた拳が白くなる。
「……から」
「どうしたの?」
こちらを覗き込んでこようとする勇者を、睨みつけた。
「ちゃんとするから、私にも分かるように説明してよ!」
勇者の顔から笑みが消えた。
勇者のそんな顔を見たのは、この時が初めてだった。