【下】
「セブン、今日は裁判所で弁護してきて」
「今日は国際便のフライトだよ」
「ハリウッドスターの通訳ね」
「体操の世界選手権」
ピアノコンクールで成功を収めて以来、僕はあらゆる仕事を任されることになった。そのどれもが知識も経験のないものばかりだったが、なぜかやってみるとできてしまうのだ。それもプロ並みに。人から尊敬されるくらいに。
おかげで、緊張は解けてきた。というか、絶対に失敗しないのだから安心感さえある。気持ちに余裕が出てきたからか、周囲からの評判も上々だ。
「おう、セブン。顔色良いじゃねぇか」
「なんか明るくなったよな」
「お前には笑顔が似合うぜ」
僕自身もそう思う。最近は笑うことも増えてきた。こんなに生きているのが楽しいと思えるなんて、生まれて初めての感覚だ。
(--生まれて初めて?)
自分で思ったことに引っかかる。
そういえば、僕は何歳なんだろう。生まれた場所は? 住まいは?
今まで疑問に思わなかったことが、脳裏をよぎる。
唯一わかっているのは名前だけだが、それも周りから聞いたからで……。
(僕はいったい何者なんだ? そして、ここは……?)
考え込みながらオフィスを出ると、閉まったドアの端がぐにゃりと歪んだ気がした。
「--であるため、僕はこの細胞を発見することができました。実験は苦難の連続でして……」
今日の仕事はノーベル賞のスピーチ。僕は世紀の大発見をした偉大な学者なのだ。
「教授、この喜びをまず誰に伝えたいですか?」
「そうですね、僕がここまで来られたのもひとえに家族とスタッフのおかげなので……」
--家族?
「あとは故郷の皆さんにも伝えたいですね」
--故郷?
「さすが教授、素晴らしいお言葉ですね。では、最後に一言お願いいたします」
「今回の発見が医療の進歩に繋がることを心より願っております。そして、僕もまたより一層の精進を重ねてまいりたいと思います」
完璧なスピーチ、完璧な受け答え。もはや、僕にできないことはない。今の僕は無敵なのだ。
「セブン」
会場を出ると、後ろから誰かに声を掛けられた。
驚いて振り向くと、そこにはいつもの同僚たちが並んでいる。
「セブン、もうお前はここに来なくて良いよ」
「え……?」
「君は何でもできる。何者にもなれるんだ」
突然、突き放すようなことを言われ、僕は戸惑う。
「どうして、そんなことを言うの? 僕はここにいちゃいけないの?」
「君のいるべき場所は、ここじゃないだろう。もう戻らなきゃ」
「戻るって、どこへ……?」
「君の世界にだよ」
自分の世界--そう言われた途端、急にいくつかの光景が脳裏に浮かんできた。
ゴミが散乱した床、落書きされた靴、花瓶が置かれている机、人気のない屋上……。
そうだ、僕は--
「セブン、お前はもう大丈夫だ。自分の世界を創り上げていけるよ」
「でも……」
「立ち向かえなかったら、逃げてもいい。みんなと上手くやろうなんて考えなくていい。君は大した人間で、いるだけで価値があるんだ。だから、君は君でいればいい」
その言葉は僕の心に染み込んでいった。
ずっと誰かにそう言ってほしかったのだ。ありのままの僕で良いのだと……。
「セブン、お前ならできるよ」
「ピアノだって弾けたしな」
「いやいや、ノーベル賞のほうが凄いって」
なんだか可笑しな会話に、僕は思わず吹き出す。あらためて聞いてみると、本当に滅茶苦茶だ。
「そうだね、やってみるよ。僕は僕の人生を歩いていく。きっと何でもできるし、何者にだってなれるはずだから」
そう、僕の可能性は無限大。自分の人生は自分で創り上げていけるのだ。
「じゃあな、セブン。達者でな」
「俺たちのこと、忘れないでくれよ」
「お前はいつでもナンバーワンだぜ」
温かい言葉を送ってくれる皆の姿が、だんだんぼやけてくる。そして、僕の体も……。
「さようなら、みんな。ありがとう……ありがとう……」
きっと僕は一生忘れない。彼らのことも、「セブン」のことも--
……誰かが僕を呼ぶ声が聞こえる。規則的に刻まれる機械の音とともに。
暗闇に包まれていた世界も徐々に明るくなっていき、まばゆい蛍光灯の光がぼやけた目に降り注ぐ。
そこはもうあの天国ではなかった。
「…………お…………七生っ……!!」
きっともうピアノは弾けないし、ノーベル賞ももらえないと思う。
でも、それは「今のところは」というだけで、勉強したらピアニストにも学者にもなれるかもしれない。弁護士にもパイロットにも通訳にもスポーツ選手にも……。
だって、僕には無限の可能性があるのだから。未来は七色に輝いているのだから--