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セブン  作者: 花宮 月
1/3

【上】


目を開けると、そこは見知らぬ街だった。

いくつもの雑居ビルがこちらを見下ろすように建っていて、その中を緩やかに伸びた道路に自分だけがぽつんと立っている。誰もいない、灰色がかった街。

なぜこんなところにいるのかはわからないけれど、どこに行けば良いのかは不思議とわかっていた。前へ前へ、左へ右へ。導かれるように、足が自然と進んでいく。

通りの奥まで来ると、そこには古びた建物があった。一軒家ではなく、小さなビルのような中層の建物。その玄関を通って階段を上っていくと、薄暗い廊下の中にいくつかのドアが見えた。表札や看板がないので、それぞれが何の部屋なのかはわからない。でも、“僕”は何の迷いもなくひとつのドアの前に立っていた。「ああ、ここに入れば良いのだ」と思いながら--


「おはよう、セブン」


ドアを開くと、そこはオフィスのような空間になっていた。白を基調とした清潔な内装に明るい照明、そしていくつかのデスクと電話が並んでいる。その中を十人弱の社員たちが歩いたり座ったりしていて、入ってきた僕に親しげに挨拶をしてきた。


「今日も時間どおりだな、セブン」

「待ってたぜ、セブン」

「早くこっちに来いって、セブン」


皆一様に、僕のことを「セブン」と呼んでいる。僕の名は「セブン」というのだろうか。なぜか自分の名前を思い出せない。


「何をぼうっとしてんだよ。寝ぼけてんのか?」

「この前は寝坊して遅刻してきたもんな」

「しっかりしてくれよ、エース」


どうやら僕はここで長いこと働いているらしい。彼らのことも仕事のことも、まったく記憶にないけれど。


「ほら、今日の仕事だぜ。目を通しておきな」


そう言われて渡された紙に目を落とす。そこには日時と場所、そして仕事の内容が書かれていた。

しかし、読み進めていくうちに、僕は目を見開く。それは、どう考えても僕にできる仕事とは思えなかったからだ。


「……ピアノコンクール……?」

「ああ、一発ぶちかましてこいよ。みんなお前を待ってるぜ」


どうやら、僕はコンクールで演奏しなければならないらしい。ピアノなんてまったく弾いたことがないというのに。


「僕にはできないよ。楽譜だって読めないんだから」

「何言ってるんだよ、いつもどおりにやれば良いんだって」

「いつもどおり……?」

「ああ、お前ならできるよセブン」


いったい何を根拠に……と思ったが、どうも僕に拒否権はないようだ。皆、にこにこと僕を見つめ、出かけるのを待っている。

もしかして、僕を誰かと間違えているのだろうか。そもそも、これは何のための仕事なのか。

まったく訳がわからないが、仕方なく僕はオフィスを出た。適当にばっくれようと思って--




しかし、また目を開けると、僕は黒いスーツを着てピアノの前にある椅子に座っていた。いったい、どうやってここまで来たのだろう。まったく記憶がない。

驚いて周囲を見回すと、上から下まで満員の観客たちが僕をじっと見つめていた。

--ごくり、と僕は息を呑む。

どうやら、ここは本当にコンクール会場であるらしい。そして、僕は出場者。今まさにピアノを弾かなければならないのだ。

どうしよう、どうしたら良いのだろう……。何を弾けば良いのか、いや何も弾けないではないか……。

とてつもない焦りと不安で、頭が真っ白になる。

次第に、弾き始めない僕に対して観客がざわつき始めた。「どうしたのかしら?」「いつになったら弾くの?」と、訝しむ声が聞こえてくる。

もう迷っている時間はない。一刻も早く、舞台袖に下がらなければ。どうせ僕にはピアノなんて弾けないんだから。どうせ僕には何もできないんだから……。


『--お前ならできるよ、セブン』


あきらめて椅子から立とうとしたそのとき、不意にオフィスで言われた言葉が頭の中に流れてきた。何の根拠もないのに、僕のことを信じて疑わないというような不思議な言葉。

きっと僕をその気にさせるために言った社交辞令だと思うけれど、その響きは温かく、少しだけこう思わせてくれた。やればできるかもしれない、と……。


(……弾いてみようか)


ふと、馬鹿げた考えが浮かぶ。ピアノなんか触ったこともないのに、コンクールという厳粛な場なのに、滅茶苦茶に弾いてやろうかなと。

そう思った途端、自然に手が前に上がっていた。そして、ずっと待ちぼうけを食っていた鍵盤に両手を置く。

何を弾こうかなんて、まったく悩まなかった。僕の指はずっと以前からこれを弾くと決めていたみたいに、軽やかに美しい音を奏で始めた。会場全体を華やかに艶やかに色づけて、僕の興奮と聴衆の熱気を煽って、蝶のように風のように盤上を舞い続けた。いつまでも、いつまでも……。

そして、気がつくと、演奏は消えるように終わっていた。それまでの空気とは打って変わって、物音ひとつしない静寂な世界。僕の乱れた心音と呼吸の音だけが、かすかに聞こえる。

ほっ……と息を吐いて震える腕を鍵盤から下ろすと、いきなり地面が割れるように揺れた。それから、耳を襲ってきたのは雷のようにけたたましい音。

驚いて客席を見ると、千人近い観客が総立ちになって僕に拍手を送っていた。涙を流す者、賞賛の声を掛ける者、満面の笑みを浮かべる者……皆一様に僕を褒め称えている。

その異様な光景に圧倒されながらも、僕はじわじわと身体が熱くなっていくのを感じた。それはスポットライトが熱いからでも、汗をかいているからでもない。

僕はこれまでに感じたことのない気持ちに満たされながら、いつまでもその景色を眺めていた。


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