【上】
目を開けると、そこは見知らぬ街だった。
いくつもの雑居ビルがこちらを見下ろすように建っていて、その中を緩やかに伸びた道路に自分だけがぽつんと立っている。誰もいない、灰色がかった街。
なぜこんなところにいるのかはわからないけれど、どこに行けば良いのかは不思議とわかっていた。前へ前へ、左へ右へ。導かれるように、足が自然と進んでいく。
通りの奥まで来ると、そこには古びた建物があった。一軒家ではなく、小さなビルのような中層の建物。その玄関を通って階段を上っていくと、薄暗い廊下の中にいくつかのドアが見えた。表札や看板がないので、それぞれが何の部屋なのかはわからない。でも、“僕”は何の迷いもなくひとつのドアの前に立っていた。「ああ、ここに入れば良いのだ」と思いながら--
「おはよう、セブン」
ドアを開くと、そこはオフィスのような空間になっていた。白を基調とした清潔な内装に明るい照明、そしていくつかのデスクと電話が並んでいる。その中を十人弱の社員たちが歩いたり座ったりしていて、入ってきた僕に親しげに挨拶をしてきた。
「今日も時間どおりだな、セブン」
「待ってたぜ、セブン」
「早くこっちに来いって、セブン」
皆一様に、僕のことを「セブン」と呼んでいる。僕の名は「セブン」というのだろうか。なぜか自分の名前を思い出せない。
「何をぼうっとしてんだよ。寝ぼけてんのか?」
「この前は寝坊して遅刻してきたもんな」
「しっかりしてくれよ、エース」
どうやら僕はここで長いこと働いているらしい。彼らのことも仕事のことも、まったく記憶にないけれど。
「ほら、今日の仕事だぜ。目を通しておきな」
そう言われて渡された紙に目を落とす。そこには日時と場所、そして仕事の内容が書かれていた。
しかし、読み進めていくうちに、僕は目を見開く。それは、どう考えても僕にできる仕事とは思えなかったからだ。
「……ピアノコンクール……?」
「ああ、一発ぶちかましてこいよ。みんなお前を待ってるぜ」
どうやら、僕はコンクールで演奏しなければならないらしい。ピアノなんてまったく弾いたことがないというのに。
「僕にはできないよ。楽譜だって読めないんだから」
「何言ってるんだよ、いつもどおりにやれば良いんだって」
「いつもどおり……?」
「ああ、お前ならできるよセブン」
いったい何を根拠に……と思ったが、どうも僕に拒否権はないようだ。皆、にこにこと僕を見つめ、出かけるのを待っている。
もしかして、僕を誰かと間違えているのだろうか。そもそも、これは何のための仕事なのか。
まったく訳がわからないが、仕方なく僕はオフィスを出た。適当にばっくれようと思って--
しかし、また目を開けると、僕は黒いスーツを着てピアノの前にある椅子に座っていた。いったい、どうやってここまで来たのだろう。まったく記憶がない。
驚いて周囲を見回すと、上から下まで満員の観客たちが僕をじっと見つめていた。
--ごくり、と僕は息を呑む。
どうやら、ここは本当にコンクール会場であるらしい。そして、僕は出場者。今まさにピアノを弾かなければならないのだ。
どうしよう、どうしたら良いのだろう……。何を弾けば良いのか、いや何も弾けないではないか……。
とてつもない焦りと不安で、頭が真っ白になる。
次第に、弾き始めない僕に対して観客がざわつき始めた。「どうしたのかしら?」「いつになったら弾くの?」と、訝しむ声が聞こえてくる。
もう迷っている時間はない。一刻も早く、舞台袖に下がらなければ。どうせ僕にはピアノなんて弾けないんだから。どうせ僕には何もできないんだから……。
『--お前ならできるよ、セブン』
あきらめて椅子から立とうとしたそのとき、不意にオフィスで言われた言葉が頭の中に流れてきた。何の根拠もないのに、僕のことを信じて疑わないというような不思議な言葉。
きっと僕をその気にさせるために言った社交辞令だと思うけれど、その響きは温かく、少しだけこう思わせてくれた。やればできるかもしれない、と……。
(……弾いてみようか)
ふと、馬鹿げた考えが浮かぶ。ピアノなんか触ったこともないのに、コンクールという厳粛な場なのに、滅茶苦茶に弾いてやろうかなと。
そう思った途端、自然に手が前に上がっていた。そして、ずっと待ちぼうけを食っていた鍵盤に両手を置く。
何を弾こうかなんて、まったく悩まなかった。僕の指はずっと以前からこれを弾くと決めていたみたいに、軽やかに美しい音を奏で始めた。会場全体を華やかに艶やかに色づけて、僕の興奮と聴衆の熱気を煽って、蝶のように風のように盤上を舞い続けた。いつまでも、いつまでも……。
そして、気がつくと、演奏は消えるように終わっていた。それまでの空気とは打って変わって、物音ひとつしない静寂な世界。僕の乱れた心音と呼吸の音だけが、かすかに聞こえる。
ほっ……と息を吐いて震える腕を鍵盤から下ろすと、いきなり地面が割れるように揺れた。それから、耳を襲ってきたのは雷のようにけたたましい音。
驚いて客席を見ると、千人近い観客が総立ちになって僕に拍手を送っていた。涙を流す者、賞賛の声を掛ける者、満面の笑みを浮かべる者……皆一様に僕を褒め称えている。
その異様な光景に圧倒されながらも、僕はじわじわと身体が熱くなっていくのを感じた。それはスポットライトが熱いからでも、汗をかいているからでもない。
僕はこれまでに感じたことのない気持ちに満たされながら、いつまでもその景色を眺めていた。